嘘の値段
覚醒から数日が過ぎても、色は消えなかった。
キアンの目は世界を灼き続けた。食堂で向かい合う仲間たちの言葉が、赤と白の色彩に分かれて視界を埋める。朝の挨拶、食事の感想、些細な世間話──日常の会話のすべてが色を持っていた。食堂の天井に籠もる粥の湯気すら、赤と白の光を帯びた声に照らされて揺れているように見える。木の匙が椀の底を擦る音、子どもたちの笑い声、老いた厨房係が鍋を掻き混ぜる音。耳に入る音のすべてに色がまとわりつき、キアンの脳を休む間もなく灼いた。
嘘の赤は至るところにあった。
「昨日の粥、うまかったな」──淡い赤。大した味ではなかったが、作った老婆に気を遣っている。声の表面だけが赤く染まり、その奥にある配慮の白が薄く透けている。悪意のない嘘だった。むしろ優しさから生まれた嘘だった。だがキアンの目は、その区別を許さない。嘘は嘘だ。赤は赤だ。
「俺、聖火が消えたの平気だし」──濃い赤。本当は怖くて眠れていない。声が震えていることに本人は気づいていない。赤い色が唇から溢れ、空気の中で熱を帯びて揺らめく。嘘の向こう側に、怯えた子どもの白い本心がちらちらと覗いている。
「キアン、最近どうしたの。元気ないね」──白。これは真実だった。心配そうな目をした年下の孤児の声が、澄んだ白い光を放っている。白い言葉は痛い。嘘のない、剥き出しの感情がそのまま投げかけられるから。
キアンは人と目を合わせることを避け始めた。嘘が視えてしまう。視えた瞬間、相手の嘘の裏にある感情まで読み取れてしまう。嘘つきとして十六年間磨いてきた観察眼が、真実視と結びついて暴走する。以前は意識して読み取っていたものが、今は勝手に流れ込んでくる。相手の表情の微細な変化、声の震え、視線の揺れ──それらと色彩が重なり、嘘の構造が丸裸になる。
以前なら軽口を叩いて場を回していた。嘘と冗談で人の輪に入り込み、食事を確保し、面倒事を避け、弱い者を庇い、強い者をかわす。それがキアンの生存術だった。だが嘘が視えるようになってからは、何を言えばいいのかわからなくなった。相手の嘘を知った上で、どんな顔をすればいいのか。「うまかったな」と言う仲間に、何と返せばいい。嘘だと知っている。だが指摘すれば相手を傷つける。同意すれば自分も嘘をつくことになり、喉が灼ける。
食堂の喧噪の中で、キアンだけが沈黙していた。椀の中の粥が冷めていく。冷めた粥の表面に薄い膜が張り、湯気が消える。匙を手に取り、膜を崩し、また置く。食欲がなかった。粥の穀物の匂いが鼻の奥に届いても、胃が受けつけない。色彩の洪水に感覚が飽和して、食欲という原始的な欲求すら鈍っていた。それを見つめているうちに、周囲の会話が遠くなった。赤と白の色彩だけが、静かに視界を埋め続けていた。隣に座っていた年下の子が、不安そうな顔でキアンの横顔を窺っている。その視線に気づいても、何も言えなかった。
異変に気づいた者がいた。ダルシュが廊下でキアンの前に立ちはだかった。大柄な年長の孤児。腕が太く、顎が角張っている。以前は嘘で切り抜けていた相手だ。ダルシュの力に対して、キアンの口先。それが二人の間の均衡だった。
「最近おとなしいな、キアン。何を企んでる」
ダルシュの声は白に近い赤──疑いの本音に虚勢が薄く被さっている。キアンの沈黙が不気味なのだろう。以前の軽口が消えたことで、かえってダルシュの警戒心が刺激されていた。
「別に何も。体調が悪いだけだ」
嘘を口にした瞬間、喉が灼けた。
今度は「かすかに」ではなかった。明確な灼熱感が喉の奥を焦がし、言葉が途中で途切れた。声が詰まる。咳き込む。喉の内側を熱い鉄で押されたような痛みが走り、目の端に涙が滲んだ。唾を呑もうとしても、喉が拒む。
「は? 何だよ、風邪か?」
風邪だ、と言おうとした。喉がまた灼けた。嘘で嘘を誤魔化すことすらできない。灼熱感が連鎖し、喉が焼けただれたように痛む。キアンは声を出せなくなった。口を開いても、喉が詰まって音にならない。
ダルシュが怪訝そうな顔をしている。眉を寄せ、腕を組み、キアンの咳き込む姿を見下ろしている。キアンは黙ったまま、ダルシュの脇を抜けて廊下の奥へ逃げた。背後でダルシュが何か言っていたが、聞こえなかった。
逃げた先の裏庭で、壁に背をつけて座り込んだ。膝が笑っている。走ったのは短い距離だったのに、息が上がっていた。心臓が肋骨を叩き、耳の奥で血流の音がする。
喉を押さえた。熱い。内側から焼かれるような痛みが残っている。嘘をつくと喉が灼ける。嘘をつくと。指で喉仏のあたりを触ると、外側は冷たい。冬の空気に晒された肌は冷え切っている。だが内側だけが、炉に手を突っ込んだように熱い。唾を呑むたびに、熱い筋が喉の奥を滑り落ちていく。
嘘は、キアンにとって呼吸と同じだった。
生き延びるために嘘をついてきた。身を守るために嘘をついてきた。弱い者を庇うために嘘をついてきた。嘘はキアンの武器であり、盾であり、唯一の生存手段だった。それが──奪われる。喉の灼熱感が引くたびに、次の嘘が怖くなる。嘘をつくことへの恐怖。十六年間、一度も感じたことのない感情だった。
嘘がつけない。
その恐怖は、聖火が消えた夜よりも深かった。聖火が消えても世界は回る。だが嘘がつけなくなったら、キアンは丸裸だ。孤児院の力関係の中で、口先の巧みさだけが武器だった少年から、その武器が引き剥がされる。裸で冬の外に放り出されるのと何も変わらない。
裏庭の冷たい空気が頬を撫でた。乾いた風が砂塵を運び、枯れた灌木の枝がかさかさと鳴る。どこかで鴉が啼いた。キアンは膝を抱え、裏庭の土の匂いを吸いながら、喉の残り火のような痛みに耐えていた。
「おまえの目に何が起きたか、わしは知っておる」
アタルだった。いつの間にか裏庭に立っていた。白い衣が風にはためく。穏やかな声。だがその言葉に──色が視えない。赤も白もない。嘘でも真実でもない、色のない言葉。食堂も廊下も赤と白の色彩で溢れているのに、この老人の声だけが透明だった。
キアンは顔を上げた。目の下に涙の跡が残っている。拭う余裕もなかった。
「……あんた、なんで色がないんだ」
「色?」
「嘘の色も真実の色も……あんたの言葉には何も視えない」
アタルは少しだけ目を細めた。微笑みとも、哀しみともつかない表情だった。日に灼けた褐色の顔に刻まれた皺が、炎の影のように深くなる。
「今は耐えろ。制御は教える」
それだけ言って、アタルは去った。白い衣の裾が砂塵の中に消えていく。去り際に、振り返らずに呟いた。
「嘘をつくのが上手いということは、真実が何かを知っているということじゃ」
キアンにはその言葉の意味がわからなかった。だが喉の灼ける痛みだけは、嘘ではなかった。




