灼ける色
聖火が消えたという報せは、夜明け前に神殿中を駆け巡った。
廊下を走る足音が石壁に反響する。扉を叩く拳の音、寝ぼけた声で応答する神官たち、そして報せの意味を理解した瞬間に上がる悲鳴にも似た叫び。キアンは聖火の間で朝を迎えた。消えた火皿の前で、一睡もできなかった。石の床の冷たさが骨の奥まで沁みている。尻が痺れ、指先の感覚は夜中にとうに失われていた。何度か立ち上がろうとして、そのたびに灰の中の微かな色が気になって座り直した。目の奥に残る違和感──あの微かな色彩の記憶が、瞼の裏にこびりついて離れない。何度目を擦っても、視界の隅に名前のない色がちらついていた。朝の光が天窓から差し込み、聖火の間の闇を薄めたが、火皿の上に灰だけが残っている事実は変わらなかった。
上位の神官たちが聖火の間に押し寄せた。誰もが蒼白で、誰もが声を荒げていた。白い祭衣の裾を踏みながら駆け込んでくる者、火皿の灰に指を突っ込んで匂いを嗅ぐ者、壁の紋章を調べる者。混乱の中で、香の煙の代わりに人々の体臭と汗の匂いが聖火の間を満たした。
「魔神の仕業に決まっている」
神官長が断じた。白い顎鬚を震わせ、怒りとも恐怖ともつかない声で繰り返す。外敵の攻撃だ、対策を講じなければ、と。太い声が石壁に跳ね返り、聖火の間に幾重にも反響する。その声量だけが、この混乱の中で秩序を保とうとする意志の表れだった。キアンは隅に追いやられ、壁に背をつけて神官たちの慌ただしい所作を眺めていた。自分の存在は、この場の誰にも気にされていない。孤児の火番が何を見ていたかなど、上位の神官にとっては些事に過ぎないのだろう。
「おまえ、昨夜の火の番だったな。何があった」
上位神官の一人がキアンに詰め寄った。灰色の目が上から見下ろす。顎鬚に白いものが混じった壮年の神官で、額に深い皺が刻まれている。問いというよりは、形式的な確認の口調だった。
「別に何も見てないよ。気づいたら消えてた」
その瞬間、喉がかすかに熱くなった。
ほんの一瞬だ。唾を呑み込むときに感じる程度の、微かな灼熱感。風邪の引き始めに似ている、とキアンは思った。冷え込んだ聖火の間で一晩過ごしたのだから、当然だろう。喉の奥を掌で押さえ、何度か唾を呑む。痛みはすぐに引いた。気のせいだ。きっと気のせいだ。
上位神官は不満げな顔でキアンから離れた。孤児の見習いの証言など、もとより期待していない。キアンは壁際に寄りかかり、混乱する神殿を眺めた。自分だけが知っていることがある──灰の中に視えた、あの色。だがそれを口にする相手はいなかった。信じてもらえるはずがない。孤児の嘘つきが何を言ったところで、耳を傾ける者はいない。
朝の礼拝が始まった。
聖火が消えても儀式は行われる。石造りの礼拝堂に信徒と神官が集い、残された小さな祭火の前で祈りが捧げられた。祭火の炎は聖火とは比べものにならないほど小さく、頼りなく揺れている。礼拝堂の隅々まで照らすことはできず、壁際の信徒たちは薄闇の中で膝をついていた。香の煙が天井に漂い、石の床に冷気が溜まる。いつもより人が多い。不安が人を祈りに駆り立てていた。
神官長が壇上に立ち、荘厳な声で祈祷を唱え始める。善なる善神の御名において、真理の道を歩む者よ──
キアンの視界が変わった。
唐突に、前触れもなく。神官長の口から放たれる祈りの言葉が──赤黒く灼ける色彩として、キアンの目に映った。
色だ。昨夜、灰の中に視えた、あの色。だが今度ははっきりと視える。神官長の祈祷の言葉が空中に浮かぶように赤く灼けている。すべてではない。ある言葉は赤く、ある言葉は淡い白に澄んでいる。赤い言葉と白い言葉が、交互に唇から零れ落ちる。赤は火皿の中の燃えさしのように熱を帯び、白は朝露のように澄んで消えていく。
赤い言葉は──嘘だ。
なぜそうわかるのか、キアン自身にもわからなかった。だが確信があった。骨の奥に響くような、理屈を超えた確信。赤く灼ける言葉は嘘であり、白く澄んだ言葉は真実だった。神官長の敬虔な祈りの、半分が赤く灼けている。善の神を称え、悪を退ける祈り──その半分が嘘。半分だけが本心で、残り半分は形式と体面の上に乗った空虚な言葉だった。
目を閉じた。閉じても色は消えなかった。視覚ではなく、もっと深い場所で感知している。認知そのものが色を纏っている。瞼の裏に赤と白が交互に明滅し、閉じた目の奥が熱い。キアンは恐怖で息が詰まった。心臓が跳ね上がり、手のひらに汗が滲む。膝が震える。壁に背をつけていなければ、立っていられなかっただろう。
何だ、これは。何が起きている。
礼拝が終わるまでの時間が永遠に感じられた。キアンは壁に背をつけ、俯き、視線を床に落とした。床は色を持たない。石は嘘をつかないから。冷たい石の灰色だけが、キアンの視界で唯一まともな色だった。
孤児院に逃げ帰った。走った。廊下の角で肩をぶつけ、階段を二段飛ばしで駆け下り、息を切らして孤児院の棟に飛び込んだ。逃げている自覚はあった。何から逃げているのかは、わからなかった。
食堂に入った瞬間、色彩の洪水が押し寄せた。子どもたちの声のすべてが、赤と白に分かれて視界を埋め尽くす。朝の光が窓から差し込み、粥の湯気が漂い、食器の音が鳴り響く──いつもの朝の風景。だがキアンの目には、すべてが赤と白の二色に染まっていた。
「大丈夫だよ」──赤い。嘘だ。泣き腫らした目をした子どもの強がり。
「俺は怖くない」──赤い。嘘だ。年長の孤児の虚勢。唇が微かに震えている。
「おなか、すいてない」──赤い。嘘だ。小さな子どもの我慢。痩せた腕が椀の縁を握りしめている。
白い声もあった。泣き声は白かった。「怖い」「お腹がすいた」「さむい」──それらは白く澄んでいた。嘘のない、剥き出しの真実。真実は裸で、痛くて、目を背けたくなるほど正直だった。
キアンは吐いた。
食堂の隅で膝をつき、胃の中のものを戻した。酸っぱい粥の味が喉を焼く。情報が多すぎる。色彩が多すぎる。頭が割れるように痛い。子どもたちの声が、赤と白の閃光となって脳を灼く。額に脂汗が浮き、視界が歪む。石の床に吐瀉物が広がり、周囲の子どもたちが悲鳴を上げて離れていく。
冷たい手が、背中に触れた。
水が差し出された。節くれ立った、温かい手。素焼きの杯に汲まれた水は澄んでいて、杯の縁に朝の光が細く反射していた。キアンは顔を上げた。アタルだった。白い衣の老人が、穏やかな目でキアンを見下ろしている。
その手に──色が視えなかった。
赤もない。白もない。嘘の色も、真実の色もない。ただ温かい手が、水を差し出している。食堂中が赤と白の色彩に溢れている中で、この老人だけが色を持たなかった。嘘でも真実でもない、透明な存在。それはこの混乱の中で、唯一の静寂だった。
「……あんた、何者だ」
アタルは微笑むだけだった。




