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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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修練の火

 集落を離れた荒野で、アタルが新しい修練を課した。


 前日の夜営地は巡礼路から外れた岩陰で、朝露が石の表面を濡らしていた。空気が冷たく、吐く息が白い。東の空が淡い橙に染まり始めているが、太陽はまだ山の向こうだ。焚き火はいつものように穏やかに燃え続けており、昨夜から一度も消えていない。薪はとうに灰になっているのに、炎だけが同じ形で揺れている。アタルの火は消えない。薪がなくても燃え、風が吹いても揺れない。そのことにもう驚かなくなっている自分に、キアンは少しだけ驚いた。不思議に慣れることも、一種の嘘なのかもしれない。喉は灼けなかった。嘘ではないらしい。


 焚き火の炎を見つめる。真実視の「焦点」を意識的に切り替える練習。炎は嘘をつかない。自然物は常に白い真実の色で澄んでいる。その「白」を基準にして、人間の嘘の色を相対的に捉える。前回の修練で掴みかけた焦点化の感覚を、さらに精密にする訓練だった。


「白を芯にせよ。赤はその周りにあるだけじゃ」


 アタルの指導は具体的だった。炎の白を見つめ、そこから視線を人間に移す。白を基準にすれば、赤の濃淡が見分けやすくなる。どの嘘が深く、どの嘘が浅いか。意識の芯に白い基準点を据え、そこからの距離で赤の強度を測る。鍛冶師が鉄の色で温度を見分けるように、嘘の色の濃淡で嘘の深さを見分ける。


 キアンは不器用に取り組んだ。焦点を炎に合わせ、白を掴む。白──白──白。炎の揺らめきが意識の中心に据わる。そこからアタルに視線を移す。色がない。白でも赤でもない空白。焦点が乱れる。基準点が消失し、視界が一瞬ぐらつく。


「あんたに視線を向けると焦点が崩れる。色がないから基準にならない」


「ならば炎に戻れ」


 何度も繰り返した。炎を視る。白を掴む。アタルに視線を移す。崩れる。炎に戻る。掴む。移す。崩れる。単純な動作の反復だが、意識の中では複雑な操作が行われている。真実視の感度を上げ下げし、焦点の距離を調整し、色彩の洪水を制御する。十回目の試行で、ほんの一瞬だけ──アタルに視線を向けても焦点が保たれた瞬間があった。一呼吸にも満たない。だが確かに、色のないアタルの存在を「色がないまま」受け入れ、焦点化を維持できた。


 鍛冶仕事に似ている、とキアンは思った。鍛冶師が鉄を打つように──力を形にするのは技術であって怒りではない。アタルが最初に教えた言葉を、身体が少しずつ理解し始めていた。


 修練の合間に、アタルがキアンに問うた。焚き火の前に胡座をかき、枯れ枝を折りながら、唐突に。


「嘘がなくなった世界を想像してみよ。それは良い世界か」


 キアンは即答できなかった。嘘は嫌いだ。嘘で満ちた世界を視るのは苦痛だ。真実視が視る赤い色彩の洪水は、頭痛と吐き気を伴う。嘘がなくなれば、あの苦痛から解放される。だが嘘のない世界を想像すると──


 孤児院で年少の子どもに嘘をついて食事を分けた日のことを思い出す。ダルシュから嘘で奪い返し、小さな手に椀を握らせた。「厨房のばあさんが余ってるって言ってたぞ」。あの嘘がなかったら、あの子は飢えていた。嘘が小さな命を繋いだ。嘘が善行を可能にした。嘘のない世界では、あの子は飢えたままだ。


 嘘のない世界は──怖い。嘘がなければ善行もできない。嘘がなければ弱者も守れない。真実だけの世界は、残酷な世界だ。だが嘘で満ちた世界もまた、歪んでいる。どちらが正しいのか。キアンには答えが出なかった。


「覚えておけ」


 アタルは答えを求めなかった。問いを投げ、答えを持たせたまま去る。いつもの手法だ。答えは自分で見つけろということなのだろう。見つかるかどうかはわからない。だが問いを持っていることが、今は大切なのかもしれない。嘘のない世界は怖い──その認識を持っていること自体が、キアンにとっての出発点だった。


 夕暮れ、修練を見守っていたアナヒドがキアンに歩み寄った。焚き火の光が二人の間に落ち、影が長く伸びている。西の空は赤い。自然の赤。嘘の赤ではない、太陽の赤だ。真実視で見る夕焼けは白に近い赤で、人間の嘘の赤とはまったく異なる色彩だった。アナヒドの三つ編みが夕日に照らされ、黒髪に金色の光が走っている。エワルの銀色が夕日を反射し、小さな虹を散らしていた。


「嘘が視えるということは──私の嘘も視えるのですか」


 キアンは答えに詰まった。正直に答えるべきか。嘘をつけば喉が灼ける。黙れば──黙ること自体が答えになる。沈黙は肯定だ。嘘つきはそれを知っている。


「……視える」


 喉は灼けなかった。真実だから。その二文字が空気の中に落ち、焚き火の爆ぜる音に混じって消えた。


 アナヒドが微かに顔色を変えた。血の気が引き、唇が薄く震える。エワルを握る手が白くなった。だがすぐに表情を整え、巫女としての落ち着きを取り戻した。さすがに訓練された巫女だった。動揺を表に出さない技術を持っている。だがキアンの観察眼は、その制御の下に潜む恐怖を見逃さなかった。目の奥に揺れる不安。自分の内側を覗かれることへの、根源的な恐れ。


 巫女の穏やかさの裏にある不安が、一瞬だけ露わになった。見られている。自分の嘘が──自分でも気づいていないかもしれない嘘が、この少年の目に灼けて映っている。プライバシーのない関係。魂の裸を見られている感覚。それがどれほど恐ろしいことか、キアンにはわかった。自分もまた、真実視で自分自身の嘘を視ているからだ。


 アナヒドは背を向けた。「少し、一人にしてください」と呟き、焚き火から離れていった。エワルが腰で揺れ、水の音が遠ざかる。


 キアンはその背中を見つめた。アナヒドの背中に、微かな色が視えた。赤とも白ともつかない、曖昧な色。嘘とも真実ともつかない、人間の複雑さそのもの。恐怖と、信頼と、戸惑いが混じり合った色。名前のつけられない感情の色だった。


 キアンは追わなかった。追う資格が、自分にはないと思った。見えてしまうことは罪ではない。だが見えてしまうことの重さは、見る側が背負うべきものだ。


 焚き火の炎が揺れた。アタルが枝を一本くべ、炎が一瞬大きくなる。アナヒドの後ろ姿が荒野の闇に溶けていく。三つ編みが風に揺れ、銀壺の輪郭が月光に浮かんで消えた。


「巫女は感じすぎるのじゃ」


 アタルが呟いた。焚き火の向こうで、老人の目が穏やかに光っている。


「視えすぎるおまえと、感じすぎるあの子。似た者同士じゃな」


 キアンは何も答えなかった。似た者同士。そうかもしれない。だが似ているからこそ、傷つけ合うのかもしれない。嘘つきの少年と共感者の巫女は、互いの存在が刃になる。その刃を、どう扱えばいいのか。まだ、わからない。荒野の夜風が頬を撫で、アタルの焚き火だけが変わらずに金色の光を灯し続けていた。


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