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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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聖火の番

 三千年、燃え続けた炎の前に座っていた。


 聖火(アータシュ)──善と悪を分かつ永遠の炎。石造りの祭壇に据えられた青銅の火皿の上で、揺らぐことなく灯り続けるその炎は、この世界の秩序そのものだった。炎が放つ熱は肌を乾いた温もりで包み、立ち昇る香の煙が石壁に沿って天井へ這い上がる。古い石の匂い。灰の匂い。どこか甘い白檀の残り香。キアンはその匂いの中で育った。物心ついた頃にはすでに聖火の間の石の冷たさを知っていたし、素足で踏む祭壇前の敷石がいつも同じ温度であることも知っていた。炎だけが変わらない。人も季節も移ろうのに、この炎だけが三千年間、同じ形で燃え続けている。


 聖火の間の石の床は冷たく、壁の陰は深い。だが炎の正面に座れば、冷気は届かない。永遠に燃え続ける炎は、永遠の温もりを約束していた。高い天井から吊り下げられた鉄鎖の燭台は火が落とされ、聖火だけが唯一の光源として闇を押し返している。壁に刻まれた善悪を示す紋章が、炎の光を受けて金色に浮かび上がっていた。善神と悪神が向かい合う浮き彫りが、揺れる炎の中で生きているように動く。天井の暗がりには蝙蝠が棲みついていて、時折羽ばたきの音がするが、聖火の熱に近寄ることはない。炎の届かない場所だけが、闇のものたちの領分だった。


 火の番は退屈だった。


 真夜中の聖火の間には誰もいない。交代の神官が来るまでの三刻、キアンの仕事は炎を見守ることだけだ。見守るといっても、三千年消えなかった炎が今夜に限って消えるはずもない。だから火の番は、孤児院の見習いに回される雑用のひとつに過ぎなかった。まともな神官は引き受けない。退屈で、寒くて、何も起きない。聖火の間の静寂は、祈りの時間を除けばただの沈黙に過ぎなかった。石壁に反響する自分の呼吸の音だけが、時間の経過を知らせてくれる。指の間で数えた呼吸が百を超えた頃、キアンは柱にもたれかかった。背中に石の冷たさが伝わる。尻の下の敷石も冷たい。聖火の熱は正面にしか届かず、背中はいつも凍えていた。


「俺は今夜も真面目に番をしています」


 キアンは聖火に向かって呟いた。嘘だ。さっきまで柱にもたれて居眠りをしていた。頬に石の冷たさの痕が残っている。口の端に乾いた涎の跡もあるが、拭えばわからない。だが炎は何も答えない。燃え続けるだけだ。三千年の間、誰の嘘にも応えず、誰の真実にも応えず、ただ燃え続けてきた。


 誰もいない場所で嘘をつく癖は、いつからだろう。聞く者がいなくても嘘が口をついて出る。嘘は呼吸と同じだった。生きるために必要な、無意識の反復動作。火の神殿(アタシュ・カデ)の孤児院では、嘘をつけない者から順に食事を失い、寝床を奪われ、冬を越せなくなる。キアンは十六年間、嘘で生き延びてきた。嘘は武器であり盾であり、唯一の生存手段だった。最初の嘘を覚えている。五つの冬のことだ。「もう食べた」と言って、自分の粥を年下の子に渡した。嘘だった。腹は空いていた。だがあの夜、あの子は泣かなかった。嘘は悪いことだと教えられた。嘘で誰かが泣かずに済むことは、教えられなかった。


 炎の揺らぎが石壁に影を刻む。自分の影がゆらゆらと揺れるのを眺めながら、キアンはひとつ欠伸をした。琥珀色の目に炎の光が映り、暗い巻き毛が額にかかる。痩せぎすの身体を投げ出すように座る姿は、敬虔さとは程遠い。神官が見れば叱責されるだろう。だがこの場所だけは嫌いではなかった。聖火の温もりは裏切らない。言葉を返さない代わりに、嘘も求めない。炎だけが聞き手である時間。嘘をつく必要のない時間。それがキアンにとって唯一の安息だった。


 ふと、炎の表情が変わった気がした。揺らぎが──いや、気のせいだ。三千年の炎は揺らがない。キアンは目を擦り、再び居眠りの体勢に入った。


 朝が来た。


 交代の神官に火の番を引き渡し、孤児院の食堂へ向かった。薄暗い廊下の壁は漆喰が剥がれ、天井の梁が黒ずんでいる。乾いた風が隙間から吹き込み、埃を舞い上げた。素足の裏に砂粒が食い込む。廊下を抜けると、子どもたちの喧噪が耳に飛び込む。食器がぶつかる音、怒鳴り声、泣き声。粥の湯気が天井に籠もり、脂と穀物の匂いが鼻の奥にまとわりつく。朝はいつも戦場だ。


 食事の配分を仕切るのは年長の孤児たちだった。腕力がものを言う世界で、十六歳のキアンは中途半端な立場にある。喧嘩では勝てない。だが口先なら負けない。


「おい、ダルシュ。厨房のばあさんが言ってたぞ、今朝は豆の粥が余ってるって。お前が独り占めしてたら報告するってさ」


 嘘だった。厨房の老婆はそんなことを言っていない。だがダルシュと呼ばれた大柄な少年は舌打ちして、山盛りにした椀から匙で二杯ほど鍋に戻した。キアンはすかさず小さな子どもたちの椀にそれを注いだ。痩せた手が椀を受け取る。目の下に隈のある小さな顔が、湯気の向こうで小さな声で「ありがとう」と呟いた。その声がやけに耳に残った。嘘で奪い返し、嘘で分け与える。善行ではない。技術だ。嘘つきの少年にできる精一杯の生存術だった。


 食堂の隅で粥を啜りながら、視線を感じた。食堂の入口に白い衣の老人が立っていた。火の神殿の守──アタル。小柄で痩せた老人だ。白髪を短く整え、日に灼けた褐色の肌。節くれ立った手が衣の裾を握っている。穏やかだが、どこか「知りすぎている」ような視線でキアンを見つめていた。何を知っているのか、キアンにはわからない。嘘つきは見抜かれることに敏感だ。背筋がかすかに強張る。椀を持つ手が一瞬止まり、粥の表面に映る自分の顔が揺れた。目を逸らすと、老人の姿はもう入口にはなかった。


 その夜、再び聖火の番についた。祭壇の前に胡座をかく。真夜中の聖火の間。石の床が冷たい。炎だけが温かい。香の煙が細い糸のように天井へ昇り、闇に溶けていく。いつもと同じ夜のはずだった。


 三千年間、一度も揺らがなかった永遠の炎が──音もなく、前触れもなく、消えた。


 炎が消えたのではない。炎がなくなった。風が吹いたわけでもない。水をかけられたわけでもない。揺らぐことなく、小さくなることなく、ただそのままの形で透明になり、溶けるように消えた。青銅の火皿の上に白い灰だけが残り、聖火の間は闇に沈んだ。


 急に冷え込んだ。三千年分の温もりが一瞬で消え失せ、石壁の冷気が四方から押し寄せる。肌が粟立ち、吐く息が白く凍る。闇の中で自分の呼吸だけを聞いていた。心臓が騒いでいる。手が震えている。唇が乾く。指先の感覚が遠くなり、膝の上に置いた両手が他人のもののように感じられた。


「……嘘だろ」


 これは嘘ではなかった。


 灰を見つめた。青銅の火皿の中に積もった白い灰。三千年燃え続けた聖火の最後の痕跡。手を伸ばしかけて、止めた。灰の中に何かが視えた気がした。色だ。灰とは異なる微かな色彩。目の奥がじんと熱くなり、世界がほんの少しだけ違って見えた。何が違うのかはわからない。だが確かに何かが変わった。灰の中に色彩が浮かんで消え、またほんの一瞬だけ浮かぶ。蜃気楼のような光。まだ「視えた」とは言えない。だが世界が、ほんの少し、違って見えた。


 キアンは闇の中で、消えた聖火の灰を見つめ続けた。


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