第3話 氷の辺境伯と温かいスープ
視界が真っ白だ。
窓の外は、この世の終わりみたいな猛吹雪が吹き荒れている。
風の音が轟音となって馬車を揺らす。
けれど、私の座席だけは不思議と静かだ。
私が施した振動吸収の錬金術が、まだいい仕事をしているらしい。
「つ、着いたぞ……!」
御者の震える声が聞こえた。
馬車が停止する。
ようやく到着したらしい。
私は深呼吸をして、覚悟を決めた。
ここが私の新しい牢獄……ではなく、新天地だ。
扉を開ける。
瞬間、暴力的な冷気が襲いかかってきた。
「うっ……!」
息ができない。
頬が痛い。
王都の冬なんて比にならない、殺人的な寒さだ。
私はショールを頭から被り直し、おそるおそる外へと降り立った。
そこは、巨大な城壁の前だった。
雪の中にそびえ立つ黒い石造りの城塞。
グラーフ辺境伯の居城だ。
「ひぃっ! で、出た!」
御者が悲鳴を上げて後ずさる。
視線の先、吹雪の向こうから、一人の男が歩いてくるところだった。
大きい。
それが第一印象だった。
身長は二メートル近いのではないだろうか。
黒い軍服の上に、分厚い毛皮のマントを羽織っている。
腰には無骨な長剣。
髪は夜のように黒く、瞳は凍てつく氷河のような青色だ。
彼こそが、レオンハルト・グラーフ辺境伯。
「……遅かったな」
低く、地を這うような声。
怒っている。
間違いなく怒っている。
私は背筋を伸ばし、凍える唇を動かした。
「遅くなり申し訳ありません。途中、雪に足を取られまして」
「……」
レオンハルト様は無言で私を見下ろした。
その視線が鋭い。
値踏みされている。
「無能な令嬢を押し付けやがって」と思っているに違いない。
御者はすでに馬車の陰に隠れてガタガタ震えている。
私がなんとか場を取り持たなければ。
「あ、あの、エルナ・ヴァイスと申します。これからお世話に……」
挨拶の途中で、突風が吹いた。
私の薄手のショールがめくれ上がり、容赦ない冷気がドレスの中まで入り込む。
「くしゅんっ!」
間の抜けたクシャミが出た。
最悪だ。
初対面でクシャミをするなんて、淑女失格だ。
「す、すみませ……」
謝ろうとした私の視界が、ふいに暗くなった。
温かい。
重みのある何かが、私の肩に覆いかぶさっていた。
それは、レオンハルト様が着ていた毛皮のマントだった。
まだ彼の体温が残っている。
驚いて顔を上げると、彼はもう背を向けていた。
「ついてこい」
短すぎる言葉。
彼は雪の中を大股で歩き出す。
私は慌ててマントの前を合わせ、その後を追った。
このマント、すごくいい匂いがする。
冬の空気と、清潔な石鹸のような香り。
そして何より、圧倒的に温かい。
(……あれ? 怖い人じゃないの?)
少しだけ、拍子抜けした。
城門をくぐり、屋敷の中へ入る。
中は外よりはマシだが、それでも十分に寒い。
石造りの床から冷気が這い上がってくる。
使用人たちの姿もまばらだ。
出迎えの列などない。
質実剛健を絵に描いたような殺風景なエントランスだ。
「荷物は部屋に運ばせる。まずは食事だ」
レオンハルト様はそれだけ言い、私を食堂へと案内した。
長いテーブルの端と端。
ものすごく距離がある。
彼は上座に座り、私はその対面にちょこんと座った。
すぐに老齢の執事が料理を運んでくる。
メニューは黒パンと、具だくさんのスープ。
王都の豪華なディナーに比べれば質素だが、今の私には御馳走だ。
「いただきます」
私はスプーンを手に取った。
温かいスープで体を温めたい。
一口、口に運ぶ。
「……」
冷たい。
完全に冷めている。
表面にうっすらと脂の膜が張っているレベルだ。
厨房からここまで距離があるのか、それとも屋敷が寒すぎるのか。
ちらりとレオンハルト様を見る。
彼は眉一つ動かさず、冷めたスープを黙々と口に運んでいる。
文句も言わずに。
これが辺境の流儀なのだろうか。
「郷に入っては郷に従え」と言うし、我慢して食べるべきか。
でも。
(……許せない)
私の内なる職人魂が叫び声を上げた。
料理人が丹精込めて作ったスープを、温度管理の不備で台無しにするなんて。
これは「物質のポテンシャルに対する冒涜」だ。
冷えた脂は舌触りが悪いし、野菜の甘みも感じられない。
我慢の限界だった。
私はテーブルの下で、こっそりと指を動かした。
スプーンの柄を通して、微弱な魔力をスープ皿に送る。
『熱振動励起』
対象は皿の中の液体のみ。
分子を激しく振動させ、摩擦熱を生ませる。
ただし、沸騰させてはいけない。
一番美味しく感じる六十五度前後をキープ。
一瞬で、皿から湯気が立ち上った。
ふわりと野菜の甘い香りが広がる。
よし、完璧だ。
私は満足して、スープを口に運んだ。
美味しい。
やっぱり料理は温度が命だ。
ほっと息をついた、その時だった。
「……貴様」
低い声が響いた。
ビクリとして顔を上げる。
レオンハルト様が、スプーンを止めて私を凝視していた。
その目は、先ほどよりも鋭く、獲物を狙う鷹のようだ。
「な、なんでしょうか」
「今、何をした?」
バレた。
テーブルの下でやったのに。
無詠唱で、魔力光も出さなかったのに。
「え、えっと……」
「魔石は使っていないな。杖も出していない。それなのに、冷めきったスープが一瞬で適温になった」
彼は席を立ち、ゆっくりと私に近づいてきた。
軍靴の音がカツ、カツと響く。
怖い。
やっぱり怒られる。
勝手な魔法を使うなとか、行儀が悪いとか、無能のくせに小賢しいとか。
王宮で散々言われてきた言葉が脳裏をよぎる。
彼は私の真横に立ち、テーブルに手をついて顔を近づけてきた。
青い瞳が間近にある。
「答えろ。どういう理屈だ」
「……れ、錬金術の、基礎構成式です」
私は正直に答えた。
嘘をついても見抜かれそうだったからだ。
「水分子の運動エネルギーを直接操作しました。熱源を用意するのではなく、物質そのものを発熱させる方法です」
「魔力消費は?」
「ほとんどありません。きっかけを与えるだけですので。呼吸するのと変わりません」
「……」
レオンハルト様が息を呑んだ気配がした。
彼は私のスープ皿を見つめ、それから私の目を見た。
長い沈黙。
心臓が早鐘を打つ。
辺境伯領から追い出されたら、今度こそ行き場がない。
野垂れ死にだ。
「……馬車の座席もか」
唐突に言われた。
「え?」
「貴様が降りた後の馬車を見た。あのボロ馬車の座席だけが、最高級のソファーのように魔力コーティングされていた。あれも、貴様の仕業か」
そこまで見られていたなんて。
私は観念して頷いた。
「はい。お尻が痛かったので、勝手に構造を書き換えました。……申し訳ありません」
私は身を縮めて謝罪の言葉を待った。
しかし、頭上から降ってきたのは、予想外の言葉だった。
「謝るな」
「え?」
恐る恐る顔を上げる。
レオンハルト様は、わずかに口角を上げていた。
笑った?
いや、それは獰猛な笑みにも見えたが、不思議と恐怖は感じなかった。
「驚いたな。王都の連中は『無能』だと報告してきていたが……とんだ節穴どもだ」
彼は私のスープ皿を指差した。
「熱源なしでの熱量保存。さらに、物理的干渉力の維持。これを無詠唱で、しかも持続的に行える術師など、宮廷魔導師団にもいないぞ」
「……そ、そうでしょうか?」
「ああ。少なくとも俺は見たことがない」
彼は真剣な眼差しで私を見た。
そこには、軽蔑も嘲笑もない。
あるのは、純粋な評価と、敬意のようなものだった。
「この極寒の地では、熱は金よりも価値がある。作物の維持も、兵の命も、すべては熱にかかっているからだ」
彼は大きな手を、私の肩に置いた。
「エルナ・ヴァイス。歓迎する」
力強い言葉だった。
「君のその力、我が領のために貸してほしい。……いや、どうか助けてくれ」
辺境伯ともあろう人が、頭を下げんばかりの勢いで頼んでくる。
私は呆気にとられた。
無能と呼ばれ、婚約破棄され、厄介払いされた私。
そんな私に「助けてくれ」と言うなんて。
胸の奥が、スープの熱とは違う温かさで満たされていく。
「……はい」
私は自然と微笑んでいた。
「私にできることでしたら、喜んで」
「そうか。よかった」
レオンハルト様は、ほっとしたように息を吐いた。
そして、自分の席に戻……らず、私の隣の椅子を引き寄せて座った。
「では、詳しく聞かせてくれ。このスープの術式は、風呂の湯にも応用できるか? 配管の凍結防止には?」
「え、ええ。可能ですけど」
「素晴らしい。実は城の配管が老朽化していてな。修理費が莫大で困っていたんだ」
彼の目が子供のように輝いている。
無口で怖い人だと思っていたけれど、どうやら根は実務一辺倒の真面目な人らしい。
そして、意外と熱心だ。
「あの、レオンハルト様。お食事をなされては? スープが冷めますよ」
私が指摘すると、彼はハッとした顔をした。
「……そうだな」
彼は自分の席に戻り、冷めきったスープを一口飲んだ。
そして、眉をひそめる。
「……不味いな」
「ふふっ」
思わず吹き出してしまった。
彼は気まずそうに咳払いをし、それから少しだけ頬を緩めた。
「君のを、かけてくれないか。その魔法」
「はい、お安い御用です」
私は指を鳴らした。
彼のスープから、ふわりと湯気が立ち上る。
外は相変わらず猛吹雪だ。
けれど、この食堂の中は、もう寒くない。
私はここで、錬金術師として生きていける。
そんな予感を抱きながら、私は温かいスープを飲み干した。
こうして、氷の辺境伯との生活が始まったのだった。




