第9話 名付けの儀とパパの秘密
窓から差し込む日差しが、柔らかく部屋を照らしている。
ベッドの上で体を起こし、私は腕の中の小さな重みを見つめた。
すやすやと規則正しい寝息。
ミルクの甘い匂い。
出産直後は赤かった顔も、三日経って少し肌色が落ち着いてきた。
「……本当によく寝る子ね」
そっと頬を突っつく。
柔らかすぎて、マシュマロのようだ。
赤ちゃんは「んぅ……」と小さく声を漏らし、口をもごもごと動かしただけで、また夢の中へ戻っていった。
「失礼します、エルナ様」
ノックと共に、侍女長のハンナさんが入ってきた。
手には温かいスープと、ふかふかの焼き立てパンが乗ったトレイを持っている。
「お食事の時間ですよ。……おや、坊ちゃんはまだ夢の中ですか」
「ええ。一度も泣かずにぐっすりよ。誰に似たのかしら」
「間違いなく旦那様ですね。あの方も、戦場以外ではどこでも眠れる特技をお持ちですから」
ハンナさんがクスクスと笑う。
確かに、レオンハルト様は執務室のソファでも器用に仮眠をとっていることがある。
図太い神経は父親譲りらしい。
食事を終える頃、廊下から重い足音が近づいてきた。
軍靴の音ではない。
気を使ったような、忍び足の音だ。
でも、隠しきれない重量感があるからすぐに分かる。
「入ってもいいか」
扉の向こうから、低い声がした。
「どうぞ、レオンハルト様」
扉がゆっくりと開き、レオンハルト様が顔を出した。
手には小さな花束を持っている。
辺境特有の青い花、スノードロップだ。
「……起きていたか」
彼は部屋に入るなり、まず揺りかごではなく、私の顔色を確認した。
「顔色は良さそうだ。痛みはないか?」
「ええ、もう随分楽になりました。ハンナさんの栄養満点のスープのおかげです」
「そうか。それは良かった」
彼は安堵の息を吐き、ベッドサイドのテーブルに花を飾った。
そして、ようやく揺りかごの中の息子に視線を移す。
途端に、彼の表情が緩んだ。
「氷の辺境伯」の威厳はどこへやら、目尻が下がりっぱなしのデレデレ顔だ。
「……大きくなったな」
「まだ三日ですよ? そんなに変わりません」
「いや、昨日より睫毛が伸びている気がする。それに、この手の握りも強くなっている」
彼は恐る恐る人差し指を差し出し、赤ちゃんに握らせていた。
真剣な眼差しで観察している。
親バカフィルターが完全に作動しているようだ。
「そうだ、レオンハルト様。そろそろ名前を教えてくださいませんか?」
私が切り出すと、彼はハッとして居住まいを正した。
椅子を引き寄せ、私の正面に座る。
「ああ。……ずっと考えていたんだ」
彼は懐から、一枚の紙を取り出した。
泥汚れのついていたあのメモではない。
新しく清書された、綺麗な羊皮紙だ。
「『アルヴィン』。……どうだろうか」
「アルヴィン……」
口の中で転がしてみる。
古語で「高貴な友」あるいは「全てを愛する者」という意味を持つ言葉だ。
「響きも綺麗ですね。愛称はアル、かしら」
「君が王都で苦しんでいた時、俺は何もしてやれなかった。だから、この子には多くの友に恵まれ、愛される人生を歩んでほしい。……そんな願いを込めた」
彼は少し照れくさそうに頬を掻いた。
不器用な彼らしい、優しくて深い愛情が詰まった名前だ。
私は揺りかごの中の息子に呼びかけた。
「聞こえる? あなたの名前はアルヴィンよ。パパが一生懸命考えてくれたの」
アルヴィンは「あー」と小さく声を上げた。
まるで返事をしたみたいだ。
「気に入ったみたいですね」
「そ、そうか? 嫌がってないか?」
レオンハルト様が慌てて顔を近づける。
その拍子に、アルヴィンがふにゃりと顔をしかめ、今にも泣き出しそうな声を上げた。
「あっ、泣くぞ! ど、どうすればいい!?」
最強の騎士が、赤子の泣き声一つでパニックになっている。
敵兵の襲撃にも動じない人が、おろおろと手を泳がせている姿は滑稽で、愛おしい。
「抱っこしてあげてください。安心しますから」
「だ、抱っこ? 俺が?」
「父親でしょう? 練習しないと」
私は促した。
彼はゴクリと唾を飲み込み、意を決したように腕を伸ばした。
まるで爆弾処理でもするかのような慎重さだ。
「首を支えて……そう、優しく」
私の指示通りに、彼はぎこちなくアルヴィンを抱き上げた。
筋肉質の腕の中に、小さな体がすっぽりと収まる。
壊れ物を扱うような、緊張感に満ちた抱擁。
「……温かいな」
彼が呟いた。
「そして、軽い。……俺の剣よりずっと軽いのに、責任は山のようだ」
「ふふ、そうですね」
アルヴィンは、パパの広い胸の中で安心したのか、再びスヤスヤと眠り始めた。
レオンハルト様の心臓の音が子守唄になっているのかもしれない。
しばらくの間、私たちは静かな時間を過ごした。
言葉はいらなかった。
ただ、家族がここにいる。
それだけで十分だった。
窓の外では、雪解け水が流れる音が聞こえる。
長い冬が終わり、春が来る。
私たちの人生にも、新しい季節が訪れたのだ。
「……エルナ」
レオンハルト様が、アルヴィンをそっと揺りかごに戻してから、私に向き直った。
その表情が、急に真剣なものに変わる。
「なんだか改まって、どうしたんですか?」
「君に見せたいものがあると言ったのを、覚えているか?」
ああ、そういえば。
出産直前のあの日、彼が妙にテンション高く言っていたことだ。
あの直後に破水してしまったせいで、すっかり忘れていた。
「ええ、覚えています。……サプライズ、ですよね?」
「そうだ。本当はもっと早く見せたかったんだが、君の体調が優先だったからな」
彼は立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「少し、歩けるか? 無理なら車椅子を用意させるが」
「大丈夫です。少しの距離なら歩けます」
私は彼の手を借りて、ベッドから降りた。
足元はまだ少しふらつくけれど、彼が支えてくれているから不安はない。
「どこへ行くんですか?」
「地下だ」
「地下?」
意外な場所だった。
宝石やドレスなら自室に持ってくるだろうし、庭園の改造なら外へ行くはずだ。
わざわざ地下?
あの日、床下から響いていた微振動。
マルクさんが必死に隠そうとしていた秘密。
そして、レオンハルト様が泥だらけになっていた理由。
点と点が繋がりそうになる。
「もしかして、新しい工房でも作ってくれたんですか?」
私が尋ねると、彼はニヤリと悪戯っぽく笑った。
「行ってからのお楽しみだ。……ただ、君の想像の斜め上を行く自信はある」
「斜め上……?」
彼の自信満々な態度に、期待と少しの不安が入り混じる。
この人は時々、愛情のベクトルがおかしな方向へ暴走するからだ。
部屋を出ると、廊下にはマルクさんが待機していた。
なぜか正装している。
「おめでとうございます、エルナ様。そして、ようこそ」
マルクさんが恭しくお辞儀をした。
まるで劇場の支配人のようだ。
「準備はいいか、マルク」
「万端です、閣下。動力炉、最大出力で待機中」
動力炉?
最大出力?
何の話だろう。
私たちは廊下を進み、普段は使わない螺旋階段の前へ来た。
地下へと続く、暗い階段。
けれど今日は、下から柔らかな光が漏れ出している。
そして、微かに音楽のような音が聞こえてきた。
「……オルゴール?」
「さあ、行こう」
レオンハルト様が私を抱き上げるようにして、階段を降りていく。
一段降りるごとに、光が強くなる。
そして、楽しげな旋律がはっきりと聞こえてくる。
階段を降りきった先。
重厚な鉄の扉がある。
そこには、可愛らしい文字でこう書かれた看板が掛かっていた。
『アルヴィンとエルナの秘密基地』
「開けるぞ」
レオンハルト様が扉に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
光が溢れ出す。
その先に広がっていた光景を見て、私は言葉を失った。
それは、私の想像を遥かに超えた、愛の暴走の結晶だった。




