表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【第2章完】婚約破棄?結構です。錬金術師令嬢は今日も幸せです  作者: 九葉(くずは)
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/22

第7話 最強の騎士と無力な夫

「完璧だ」


俺は腕を組み、目の前の光景を満足げに見下ろした。

城の地下、かつては冷たい岩盤がむき出しだった空間。

だが今は、温かな魔導灯の光に包まれた「夢の国」へと変貌していた。


壁一面には、衝撃を吸収する柔らかなクッション材が貼られている。

床には転んでも痛くないよう、ふかふかの絨毯を敷き詰めた。

そして中央には、エルナの錬金術理論を応用して作った、自走式の木馬が並んでいる。


メリーゴーランド。

絵本で見たそれを、俺の手で再現したのだ。

動力源は地下水脈の水流エネルギー。

エルナが王都でやっていたことを、俺なりに見様見真似で応用してみた。


「これを見たら、エルナはどんな顔をするだろうか」


きっと目を丸くして、それからあの花が咲くような笑顔を見せてくれるはずだ。

その笑顔が見たくて、この数ヶ月、公務の合間を縫って泥だらけになって働いてきた。

徹夜続きで体は鉛のように重いが、心は翼が生えたように軽い。


「閣下! 仕上げの塗装、乾きました!」


作業着姿のマルクが、刷毛を持って報告に来た。

こいつもよく付き合ってくれた。

後でボーナスを弾んでやらなければな。


「よし。エルナを呼んでこよう。驚かせてやる」


俺は上着を羽織り、地下室を出ようとした。

サプライズの瞬間だ。

心臓が高鳴る。


その時だった。


ダダダダッ!


階段を転げ落ちるような足音が響いた。

普段冷静なメイドの一人が、血相を変えて飛び込んでくる。


「だ、旦那様っ! 大変です!」


「どうした。騒々しいぞ」


「奥様が……エルナ様が、倒れられました!」


思考が停止した。

倒れた?

さっきまで、元気にルカを見送っていたじゃないか。

笑顔で手を振っていたじゃないか。


「破水です! 産気づかれました!」


「は……?」


破水。

予定日はまだ先のはずだ。

二週間もある。


「医者は! 産婆は呼んだのか!」


「はい! 今、皆で産室へお運びしています!」


俺の体から、一瞬で血の気が引いた。

地下遊園地のことなど、頭から消え去った。


「エルナッ!」


俺は地面を蹴った。

階段を三段飛ばしで駆け上がる。

足がもつれそうになるが、構っていられない。

心臓が早鐘を打つ。

サプライズの高揚感は、氷のような恐怖へと変わっていた。


***


三階の産室前。

そこは戦場のような慌ただしさだった。

お湯を運ぶメイドたちが走り回り、タオルを持った使用人が出入りしている。


「エルナ! 俺だ! 入るぞ!」


俺は扉に手をかけた。

エルナのそばにいてやりたい。

手を握って、大丈夫だと言ってやりたい。


「ダメです!!」


立ちはだかったのは、侍女長のハンナだった。

小柄な老婆だが、今の彼女には鬼気迫る迫力があった。


「どけ、ハンナ! エルナが苦しんでいるんだぞ!」


「だからこそです! 男の人は入らないでください! バイキンが入ります! それに、旦那様がいても邪魔なだけです!」


「邪魔だと……!?」


俺は辺境伯だぞ。

この領地の主だぞ。

妻のピンチに駆けつけるのが、なぜ邪魔なんだ。


「あぐっ……!」


中から、エルナの苦悶の声が漏れてきた。

心臓を鷲掴みにされたような痛みが走る。


「痛い……うぅ……!」


聞いたことのない、悲痛な声。

いつも穏やかで、我慢強いエルナが、あんな声を上げている。


「エルナ!」


俺は強引に入ろうとした。

しかし、ハンナは扉の前に仁王立ちし、ピシャリと言い放った。


「旦那様は、廊下で祈っていてください! それが仕事です!」


バタン!

扉が無慈悲に閉ざされた。

カチャリと鍵がかかる音までした。


「くそっ……!」


俺は扉を拳で叩いた。

だが、壊すわけにはいかない。

中でエルナが戦っているのだ。


俺は廊下に取り残された。

ただの無力な男として。


「閣下……落ち着いてください」


遅れて到着したマルクが、息を切らしながら声をかけてきた。

俺は壁に背中を預け、ずるずると座り込んだ。


「マルク。……俺は、無力だ」


「そんなことありませんよ」


「いや、無力だ。エルナが命がけで戦っているのに、俺は何もできない。手を握ることさえ許されない」


俺の手を見る。

剣ダコのある、ゴツゴツとした手。

地下でツルハシを振るっていた、泥だらけの手。

この手は、敵を倒すことはできても、妻の痛みを肩代わりすることはできない。


「うあああああっ!」


中から、エルナの絶叫が聞こえた。


ビクリと体が震える。

叫びたいのは俺の方だ。

代わってやりたい。

その痛みを全部、俺にくれ。

俺なら耐えられる。

剣で斬られても、魔法で焼かれても耐えてきた。

だから、エルナを痛めつけないでくれ。


俺は組んだ両手を額に押し当て、祈った。

神になど祈ったことはない。

自分の力だけを信じて生きてきた。

だが今は、どんな神にでもすがりたい。


「……長い」


どれくらいの時間が経っただろうか。

一時間か、あるいは永遠か。

窓の外の日は傾きかけている。


中は静かになったり、また叫び声が上がったりを繰り返している。

そのたびに、俺の寿命が削られていくようだ。


「大丈夫ですよ、閣下。エルナ様は強い方です」


マルクが隣に座り、俺の肩を叩いた。


「王都のいじめにも耐え、あのボロ馬車の旅にも耐え、閣下の不器用な求愛にも付き合ってくれたんですよ? これくらい、へっちゃらですって」


「……不器用は余計だ」


少しだけ、力が抜けた。

そうだ。

エルナは芯の強い女性だ。

俺なんかより、ずっと精神的にタフだ。


「はぁ……はぁ……」


中から、荒い呼吸音が聞こえる。

叫び声が止まった。

静寂。


(どうした?)


なぜ静かになった?

終わったのか?

それとも……。


悪い想像が頭をもたげる。

出血多量。

体力の限界。

最悪の結末。


「エルナ……?」


俺は震える声で呼びかけた。

返事はない。

産婆たちの話し声も聞こえない。


怖い。

戦場で死を前にした時よりも、はるかに怖い。

もし、扉が開いて、ハンナが首を横に振ったら。

俺は生きていけるだろうか。

エルナのいない世界で、息をすることができるだろうか。


俺は立ち上がり、扉に耳を当てた。

心臓の音がうるさい。


頼む。

何でもする。

地下の遊園地も、俺の爵位も、命も、全部くれてやる。

だから。


「オギャアアアアアッ!!!」


世界を切り裂くような、力強い産声が響いた。


「あっ……」


息が止まった。

全身の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになる。

マルクが慌てて俺を支えた。


「聞こえましたか、閣下! 元気な声ですよ!」


「あ、ああ……」


涙が溢れてきた。

止まらない。

こんなに泣いたのは、赤ん坊の頃以来かもしれない。


オギャー、オギャー。

命の音だ。

俺たちの子供だ。

そして、エルナが生きて、これを成し遂げた証だ。


カチャリ。

扉の鍵が開く音がした。

ゆっくりと扉が開き、疲れ切った、しかし安堵の表情を浮かべたハンナが顔を出した。


「……旦那様。元気な男の子ですよ」


「エルナは!?」


子供のことより先に、妻の名前が出た。


「無事です。少し疲れて眠っていますが……お会いになりますか?」


「会う! 今すぐ会う!」


俺はハンナを押しのけるようにして、部屋に飛び込んだ。


温かい空気。

血と、汗と、そして不思議な甘い匂いが充満している。

ベッドの上には、汗で髪を濡らし、顔面蒼白になったエルナが横たわっていた。

その腕には、白い布に包まれた小さな塊が抱かれている。


「……レオン……ハルト様」


エルナが薄く目を開けた。

弱々しいけれど、確かに俺を見て微笑んでいる。


「エルナ……!」


俺はベッドの脇に跪き、彼女の手を握りしめた。

冷たい手だった。

でも、脈打っている。


「よく頑張った。……ありがとう。本当に、ありがとう」


言葉にならなかった。

ただ、その手を額に押し当てて、泣くことしかできなかった。


「ふふ……泣き虫ですね、あなた」


エルナが俺の頭を優しく撫でてくれた。

その手つきは、もう完全に母親のものだった。


俺は顔を上げ、腕の中の小さな命を見た。

猿のようにしわくちゃで、真っ赤な顔をしている。

俺の指一本ほどしかない、小さな手。

これが、俺の息子。


「……小さいな」


「ええ。でも、握る力は強いですよ。あなたに似て」


エルナが笑った。

世界で一番美しい光景だった。


俺は誓った。

この小さな命と、命がけで産んでくれた妻を、生涯かけて守り抜くと。

どんな敵が来ようとも、俺が盾になる。

絶対に、この幸せを壊させはしない。


最強の騎士と呼ばれた俺は、今日、ただの「父親」として生まれ変わったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ