第2話 震える使者と優しいお茶会
重厚なオーク材の扉の前で、私は足を止めた。
隣を歩くマルクさんが、騎士としての鋭い顔つきになる。
「エルナ様。いいですか、僕の後ろにいてくださいね」
彼は腰の剣に手を添え、低い声で言った。
「もし相手が変な動きをしたら、即座に制圧します。王都の人間なんて、どうせ腹に一物ある連中ばかりですから」
「マルクさん、顔が怖いわよ。ただの技術者でしょう?」
私は苦笑して諌めた。
けれど、内心では少し緊張していた。
王都。
その響きは、私にとってまだ苦い記憶を呼び起こす。
かつて私を「無能」と嘲笑い、使い潰そうとした人々の顔が浮かぶ。
(でも、マリア女王陛下からの正式な依頼だもの)
深呼吸をする。
私はもう、あの頃の無力な令嬢ではない。
辺境伯夫人として、堂々と振る舞わなくては。
「入ります」
マルクさんがノックもそこそこに、勢いよく扉を開けた。
「失礼する!」
威圧的な声と共に、私たちが部屋に踏み込む。
応接室の中央には、一人の青年が立っていた。
いや、立っていたというより、直立不動で固まっていた。
年齢は二十歳そこそこだろうか。
王立錬金術師協会の制服である紺色のローブを着ているが、サイズが合っていないのかブカブカだ。
栗色の髪は寝癖がついており、丸い眼鏡が少しずれている。
私たちが部屋に入った瞬間、彼はビクリと肩を跳ね上げ、バタバタと慌てふためいた。
「ひっ、あ、あの、えっと!」
彼は何を思ったか、その場で膝をつき、床に額を擦り付けるような姿勢をとった。
完全な平伏だ。
「お、お初にお目にかかります! 王立錬金術師協会、第三班所属のルカと申します! こ、この度は、お時間をいただき、誠に、誠にありがとうございますぅぅ!」
声が裏返っている。
そして、ガタガタと震えているのが見て取れた。
「……えっと」
私はマルクさんと顔を見合わせた。
マルクさんも予想外だったのか、剣から手を離してポカンとしている。
「顔を上げてください、ルカさん。そんなに畏まらなくても結構ですよ」
私は努めて優しく声をかけた。
彼は恐る恐る顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、涙目で泳いでいる。
「は、はい……すみません。伝説のエルナ様に拝謁できるなんて、夢のようで……」
「伝説?」
聞き捨てならない単語が出た。
「は、はい! 協会では、エルナ様は『神の指を持つ錬金術師』と呼ばれています! あの複雑怪奇な王都のインフラを、たった一人で維持していたなんて……僕ら若手にとっては神様みたいな存在なんです!」
彼は興奮気味にまくし立てたが、すぐにハッとして口を押さえた。
そして、私のお腹を見て、また青ざめる。
「あ、あわわ、申し訳ありません! お体も重いのに、こんな若輩者のために……! 僕なんかが同じ空気を吸っていいのでしょうか!」
パニック状態だ。
どうやら、彼は私を「恐ろしい魔女」か何かだと思っていたわけではないらしい。
むしろ逆だ。
尊敬されすぎて、プレッシャーで押し潰されそうになっている。
(なんだか、昔の私みたい)
王宮で働いていた頃の自分を思い出す。
いつもアルベルト殿下の顔色を窺って、ビクビクしていた私。
失敗したら罵倒されるんじゃないかと、常に怯えていた。
警戒心が、ふっと解けるのを感じた。
この子は敵じゃない。
ただの、一生懸命で不器用な技術者だ。
「マルクさん。彼、全然危険じゃなさそうですよ」
小声で囁くと、マルクさんも肩の力を抜いて溜息をついた。
「ですね。……拍子抜けしました」
私はルカさんの向かいのソファに腰を下ろした。
マルクさんは私の斜め後ろに立ち、まだ監視の目は緩めない。
「座ってください、ルカさん。まずは落ち着いて」
「は、はい! 失礼します!」
彼はロボットのような動きでソファの端っこに座った。
背筋が直角に伸びている。
「王都からいらしたのですよね。道中、大変だったでしょう?」
「い、いえ! エルナ様が整備された街道のおかげで、とても快適でした! 特に峠道の融雪システムには感動して、馬車から降りて三十分ほど観察してしまいました!」
マニアックな感想だ。
でも、技術者らしくて好感が持てる。
「それで、マリア陛下からの依頼というのは?」
私が本題に入ると、ルカさんは表情を引き締めた。
鞄から分厚い図面の束を取り出し、テーブルに広げる。
「はい。……現在、王都の下水道システムは、壊滅状態です」
彼は沈痛な面持ちで語り始めた。
「エルナ様が去られた後、協会総出で解析を試みましたが、誰も理解できませんでした。無理に修理しようとした箇所が逆に暴走し、貴族街の一部では汚水が逆流しています」
「……そう」
予想はしていたけれど、現実はもっと酷いらしい。
「市民生活にも影響が出ています。感染症の兆候もあり、飲み水の確保も綱渡りです。……恥を忍んで申し上げます。僕たちの力では、もうどうにもなりません」
ルカさんは拳を膝の上で握りしめた。
その手は白くなっている。
悔しいのだろう。
技術者として、目の前の惨状を解決できない無力さが。
「エルナ様のお知恵をお借りしたいのです。……もちろん、ご出産を控えたお体であることは承知しています。王都へ来てくれとは言いません。ただ、この図面の……この制御術式の意図だけでも教えていただければ……!」
彼は必死だった。
自分の手柄のためではない。
王都の人々を救いたいという、純粋な使命感が伝わってくる。
私は図面に目を落とした。
懐かしい。
これは私が五年前に設計した「第三区画循環システム」の設計図だ。
赤いペンで、何度も修正しようとした跡がある。
彼なりに、必死に勉強したのだろう。
「ここ、魔力回路が逆流しているわね」
私は図面の一点を指差した。
「えっ?」
「このバルブは、水圧ではなく『音』で制御しているの。物理的に回そうとすると、安全装置が働いてロックされるわ」
「お、音……!? そんな馬鹿な、配管の振動をエネルギー源に……?」
ルカさんは絶句し、それから図面に顔を近づけた。
「ほ、本当だ……ここの術式構成、音響共鳴のパターンになってる……! す、すごすぎる……!」
彼はブツブツと独り言を呟き始めた。
もう私の存在も忘れて、図面の世界に没入している。
完全に技術者の顔だ。
ふふ、と笑いが漏れる。
この子は伸びるかもしれない。
私の技術を理解しようとする熱意がある。
「マルクさん。お茶とお菓子をお願いできるかしら」
「え? こいつにですか?」
「ええ。長くなりそうだから。……それに、糖分が足りてなさそうだもの」
ルカさんの顔色は悪い。
きっと、王都を出る前から寝ずに研究していたのだろう。
しばらくして、マルクさんが渋々といった様子で紅茶とクッキーを運んできた。
甘い香りが漂うと、ルカさんがハッと顔を上げた。
「あ、すみません! 僕、夢中になって……」
「いいのよ。冷めないうちにどうぞ」
私が勧めると、彼は恐縮しながらクッキーを口にした。
サクッという音。
「……う、うまい」
ボロボロと、彼の目から涙がこぼれ落ちた。
「えっ!? ど、どうしたの?」
「す、すみません……王都では最近、まともな食事もとれてなくて……こんなに美味しいものは久しぶりで……」
彼は泣きながらクッキーを頬張った。
王都の食糧事情も、インフラ崩壊のせいで悪化しているらしい。
可哀想に。
そして、なんて素直な子なんだろう。
「たくさんあるから、ゆっくり食べて。……技術の話は、お腹がいっぱいになってからにしましょう」
私は母親のような気分で、彼を見守った。
警戒心なんて、とっくに消え失せていた。
これなら、リモートでの指導もうまくいくかもしれない。
そう思った、その時だった。
バンッ!!!
応接室の扉が、蝶番が壊れんばかりの勢いで開け放たれた。
「エルナ!!!」
怒号のような声。
漆喰まみれの軍服を着た大男が、部屋になだれ込んできた。
レオンハルト様だ。
髪はボサボサ、目は血走っている。
そしてその手には、なぜか巨大なツルハシが握られていた。
「ひぃぃっ!!」
ルカさんが悲鳴を上げてソファの裏に転がり落ちた。
「レ、レオンハルト様!? どうしたんですか、その格好!」
私が驚いて立ち上がると、彼はツルハシを持ったまま、私とルカさんの間に割って入った。
「聞いたぞ! 王都の男が来たそうだな! エルナ、下がっていろ! そいつは俺が排除する!」
殺気だっている。
完全に、不審者を排除しに来た猛獣の目だ。
「ち、違います! 彼は技術者で……!」
「問答無用! 我が妻にストレスを与える輩は、このグラーフが許さん!」
彼はツルハシを振り上げた。
いや、なんでツルハシなの?
剣じゃなくて?
「ちょ、閣下! 落ち着いてください!」
マルクさんが慌てて羽交い締めにする。
カオスだ。
さっきまでの和やかなお茶会が、一瞬で修羅場と化した。
ソファの裏で震えるルカさんと、暴走する夫。
私は額を押さえて、深いため息をついた。
やっぱり、この領地での生活は退屈しそうにない。




