第1話 微震と秘密と過保護な夫
第2章スタートです!!
「……ん?」
ティーカップをソーサーに戻そうとして、私は手を止めた。
紅茶の水面が、わずかに波紋を描いている。
カタカタカタ……。
ごく小さな、けれど確かに足元から伝わってくる振動。
ここはグラーフ辺境伯城の三階にある私室だ。
堅牢な石造りのこの城が揺れるなんて、めったにない。
「地震かしら?」
私は大きくなったお腹を両手で支えながら、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外を見る。
いつもの穏やかな辺境の景色だ。
鳥が飛び立ったり、動物が騒いだりしている様子はない。
「エルナ様! 立ち歩かないでください!」
扉がバンと開き、侍女長のハンナさんが飛び込んできた。
彼女は手に持っていた洗濯物のカゴを放り出し、すごい勢いで私に駆け寄ってくる。
そして、クッションの山で作られた特等席へ私を押し戻した。
「まだお茶の時間でしょう? 安静にしていてくださいと、旦那様に言われているはずです」
「ハンナさん、大げさよ。ちょっと窓の外を見ただけじゃない」
私は苦笑した。
妊娠八ヶ月。
お腹の子は順調に育っているけれど、周囲の過保護ぶりも順調に加速している。
「それより、今揺れませんでした? 地震でしょうか」
私が尋ねると、ハンナさんの表情がピクリと固まった。
「……いえ。気のせいではありませんか?」
「でも、紅茶が揺れていましたよ」
「風のせいでしょう。もしくは、近くを大型の馬車が通ったのかもしれません」
彼女は素早く窓のカーテンを閉め、私の視線を遮った。
その手つきは妙に焦っているように見えた。
「さあ、冷めないうちにハーブティーをどうぞ。旦那様が隣国から取り寄せた、妊婦に良い最高級品です」
強引に話を切り替えられる。
何か隠している。
長年付き合っている侍女長だからこそわかる。
彼女が私の目を見ずに話すときは、大抵何かやましいことがある時だ。
(……怪しい)
私は口を閉ざし、大人しく座り直した。
問い詰めても無駄だろう。
この城の使用人たちは、レオンハルト様への忠誠心が異常に高い。
彼が「隠せ」と命じれば、たとえ拷問を受けても口を割らないだろう。
ふと、また足元から微振動が伝わってきた。
今度はさっきより少し強い。
ドン、ドン、という鈍い音が混じっている。
まるで、地下深くで巨人が暴れているような音だ。
(配管のトラブル?)
私の錬金術師としての勘が働く。
この城のインフラは私が再構築した。
地下には巨大な温水循環システムや、魔力供給ラインが走っている。
もし、どこかのパイプが破裂寸前だとしたら。
あるいは、魔導炉が暴走の兆候を見せているとしたら。
「ハンナさん、私、ちょっと地下の点検に行きたいのだけど」
「ダメです!!」
食い気味に即答された。
「地下は寒いですし、階段も急です! 絶対に許可できません!」
「でも、今の音……設備の不調かもしれないわ。放置すると大変なことになるかも」
「大丈夫です! マルク様が点検されていますから! エルナ様は、このふかふかのクッションでお昼寝をしていてください!」
ハンナさんは私に毛布をかけ、逃げるように部屋を出て行ってしまった。
残された私は、ふぅと溜息をつく。
過保護もここまでくると、一種の監禁だ。
もちろん、愛されているのはわかっているけれど。
(でも、気になるわね)
私は錬金術師だ。
原因不明の現象を放置するのは、生理的に気持ち悪い。
***
その夜。
レオンハルト様が部屋に戻ってきたのは、日付が変わる頃だった。
「ただいま、エルナ。……起きていたのか」
寝室の扉を開けた彼は、驚いたように目を丸くした。
黒髪には埃のようなものがついており、軍服の袖が少し汚れている。
そして何より、ひどく疲れた顔をしていた。
「お帰りなさい、レオンハルト様。お疲れのようですね」
私はベッドの上で本を閉じた。
彼はふらりと近づいてくると、私の隣に腰を下ろし、深い溜息をついた。
「ああ……少し、根気のいる交渉があってな」
「交渉、ですか?」
「隣国の商人がなかなかしぶとくてな。説得するのに骨が折れる」
彼は私の手を取り、指先で愛おしげに撫でた。
その手はいつもより熱く、そして少しごわついていた。
マメができている?
交渉事で、手にマメができるものかしら。
机を叩きすぎて?
「無理をなさらないでください。マルクさんに任せられることは、任せてしまえばいいのに」
「いや、これは俺がやらなければ意味がないんだ」
彼は頑なだった。
その瞳には、強い意志の光が宿っている。
「君と、生まれてくる子のために必要なことだ」
そんな風に言われたら、何も言えなくなる。
きっと、子供の未来のために有利な条約を結ぼうとしているのだろう。
あるいは、出産祝いの品を選定しているのかもしれない。
「わかりました。でも、お風呂に入って休んでください。泥だらけですよ」
私は彼の髪についていた白い粉を払った。
それは漆喰か、石灰の粉のように見えた。
「……あ、ああ。すまない」
彼はバツが悪そうに視線を逸らし、慌てて浴室へと向かった。
(商人との交渉で、漆喰まみれになる?)
違和感が拭えない。
けれど、彼が私のために頑張っているのは事実だ。
浮気を疑うような素振りは微塵もない。
むしろ、私への愛が重すぎるくらいだ。
浴室から、シャワーの音が聞こえてくる。
私はサイドテーブルに置いてある通信魔導具を見つめた。
もし、城の設備に問題があるなら、こっそりスキャンすることもできる。
けれど、彼が隠したいことなら、暴くのは無粋かもしれない。
私は迷った末、魔導具には触れなかった。
***
翌朝。
私は久しぶりに執務室へ顔を出した。
もちろん、ハンナさんには「散歩」だと言い張って。
執務室のドアを開けると、マルクさんが書類の山に埋もれていた。
「あ、エルナ様! おはようございます!」
彼は書類の塔を崩さないように、器用に顔を上げた。
目の下にクマができている。
「おはようございます、マルクさん。……大変そうですね」
「ええ、もう。閣下が最近、執務を放り出して……いや、極秘任務で席を外されることが多いもので。そのしわ寄せが全部僕に」
マルクさんは恨めしげに言った。
やはり、レオンハルト様は通常の公務以外で忙しいらしい。
「あの、私にできることはありませんか? 簡単な計算や、決裁の分類くらいなら手伝えますよ」
私は申し出た。
暇を持て余しているし、夫やマルクさんの負担を減らしたい。
「えっ! 本当ですか!? 助かります! 実はこの予算案の計算が合わなくて……」
マルクさんが目を輝かせ、書類を差し出そうとした。
その時。
ドンッ!!
床下から、昨日一番の大きな衝撃が走った。
棚の上の花瓶がカタカタと揺れる。
「わっ!」
マルクさんがバランスを崩し、書類の山が雪崩を起こした。
「今の揺れ……やっぱり地震じゃありませんか?」
私は机にしがみつきながら尋ねた。
これはただ事ではない。
明確な物理的衝撃だ。
マルクさんは青ざめた顔で床を見つめ、それから天井を仰いだ。
「あー……閣下、やりすぎですよ……」
ボソリと呟く。
「え?」
「い、いえ! なんでもありません! 今のはきっと、裏山の雪崩です! 遠くの音が響いたんですよ!」
「雪崩? こんなに晴れているのに?」
「春の雪解け雪崩です! よくあることです!」
マルクさんは必死の形相で言い訳をした。
そして、私に差し出しかけた書類を、背中に隠した。
「やっぱり、エルナ様にお仕事は頼めません! ここでストレスを感じて、お腹の赤ちゃんに何かあったら、僕は閣下に斬り殺されます!」
「そんな大げさな……座って計算するだけですよ?」
「ダメです! 絶対安静! ストレスフリー! これが現在の我が領の最優先法律です!」
彼は私を押し出すようにして、執務室から追い出そうとする。
その必死さは、尋常ではなかった。
単なる過保護ではない。
やはり、何か別の理由がある。
「マルクさん。……地下で何をしているんですか?」
私は単刀直入に聞いた。
マルクさんの動きが止まる。
彼は冷や汗を拭い、泳ぐ視線で私を見た。
「ち、地下? 何もありませんよ。ネズミの運動会でも開催されてるんじゃないですかね、ハハハ」
笑っていない。
目が完全に死んでいる。
「エルナ様!」
その時、廊下の向こうから衛兵が走ってきた。
良いタイミングでの助け舟に、マルクさんが安堵の息を吐く。
「報告します! 王都からの使者が到着されました!」
「王都から?」
私は意識を切り替えた。
先日、マリア女王から連絡があった件だ。
王都のインフラ復興のために、技術者を派遣してほしいという要請。
私が直接行くことはできないから、代理人を寄越すという話だったはずだ。
「はい。王立錬金術師協会の若手技師とのことです。現在、応接室にご案内しております」
「わかったわ。すぐに行く……」
「あーっと待った!!」
マルクさんが私の前に立ちはだかった。
「エルナ様が直接会うのはダメです! まずは僕が面談して、危険人物じゃないか、変な病気を持っていないか、ストレス源にならないかをチェックします!」
「マルクさん……彼らは技術を学びに来たのよ? 敵じゃないわ」
「王都の人間は全員敵だと見なせと、閣下から厳命されています!」
マルクさんは譲らなかった。
どうやら、レオンハルト様の過保護ウイルスは、副官にも完全に感染しているらしい。
「じゃあ、一緒に会いましょう。それならいいでしょ?」
私が提案すると、マルクさんは渋い顔で唸ったが、最終的には折れた。
「わかりました。でも、少しでも失礼な態度を取ったら、即座に塩を撒いて追い返しますからね」
私たちは応接室へ向かった。
足元からは、まだ微かに、トントンというリズミカルな振動が伝わってきていた。
地下の秘密。
夫の疲労。
そして王都からの使者。
私の平穏な日常に、少しずつ変化の波が押し寄せ始めていた。




