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婚約破棄?結構です。錬金術師令嬢は今日も幸せです  作者: 九葉(くずは)


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第10話 雪解けの告白

眠れない。


ベッドの中で何度寝返りを打っても、昼間の出来事が鮮明に蘇ってくる。


『俺の婚約者に、汚い手で触れるな』


レオンハルト様の低く、力強い声。


あの瞬間、私の心臓は止まるかと思った。


そして同時に、これまでにないほどの熱量で動き出したのだ。


(あれは、やっぱり……嘘よね?)


冷静になろうと自分に言い聞かせる。


あの場には、しつこい元婚約者がいた。


私を守るために、咄嗟に既成事実があるように装ってくれただけかもしれない。


辺境伯としての機転。


大人の対応。


そう考えるのが理性的だ。


でも、もし。


もしもあれが、本心からの言葉だったとしたら?


「……うぅ」


私は枕に顔を埋めて足をバタバタさせた。


期待してはいけない。


期待して、違った時に傷つくのが怖い。


私は一度、婚約破棄という形で「不要」の烙印を押された身だ。


自己評価の低さは、そう簡単には治らない。


時計の針は深夜一時を回っている。


喉が渇いた。


これ以上布団の中にいても悶々とするだけだ。


私はベッドから這い出し、ショールを羽織った。


厨房へ行って、冷たい水でも飲もう。


頭を冷やす必要がある。


部屋を出て、静まり返った廊下を歩く。


石造りの城は、夜になるとひんやりとする。


けれど、私が施した断熱術式のおかげで、凍えるような寒さではない。


心地よい涼しさだ。


階段を降りようとした時、ふと、中庭に続くテラスの扉が少し開いているのに気づいた。


隙間から、冷たい夜風と共に、微かな気配が流れ込んでくる。


誰かいる?


泥棒ではないだろう。


この城の警備システムは私が強化したばかりだ。


ネズミ一匹入ればアラートが鳴る。


気になって、私はそっとテラスへ近づいた。


月明かりの下。


手すりにもたれて、夜空を見上げている背中があった。


黒い軍服ではなく、ラフな白いシャツ姿。


広い肩幅。


夜風に揺れる黒髪。


レオンハルト様だ。


彼は片手にグラスを持っていたが、口をつける様子はなく、ただじっと星を眺めていた。


絵になる。


ため息が出るほど美しい光景だった。


戻ろうかと思ったが、足が勝手に動いてしまった。


「……レオンハルト様?」


小さな声で呼ぶ。


彼はビクリと肩を震わせ、勢いよく振り返った。


「エ、エルナ!?」


普段の冷静な彼らしくない、上擦った声。


持っていたグラスの中身が少しこぼれる。


「す、すまない。起こしてしまったか?」


「いいえ。喉が渇いて目が覚めただけです。……レオンハルト様こそ、こんな時間までどうされたのですか?」


「俺は……その、少し風に当たりたくてな」


彼は視線を泳がせた。


耳が赤い。


もしかして、彼もお酒を飲まないと眠れなかったのだろうか。


「隣、いいですか?」


「あ、ああ。もちろん構わない」


彼は慌てて場所を空けてくれた。


私は彼と並んで手すりにもたれた。


目の前には、満天の星空が広がっている。


王都では街の光にかき消されて見えなかった、宝石箱のような星々。


空気が澄んでいるからだろうか。


手が届きそうなくらい近く感じる。


「綺麗ですね」


「……ああ」


短い返事。


沈黙が降りる。


でも、気まずい沈黙ではない。


彼の体温が近くにあるだけで、不思議と心が落ち着く。


「今日は、ありがとうございました」


私は意を決して切り出した。


「アルベルト殿下のことです。あんな風に庇っていただいて……ご迷惑をおかけしました」


「迷惑などではない」


彼は即答した。


「むしろ、もっと早く追い返すべきだった。君に不快な思いをさせた」


「いいえ、すっきりしました」


私はクスクスと笑った。


「あんなに情けない姿の殿下を見るのは初めてでしたから。……私、性格が悪いかもしれません」


「そんなことはない。当然の報いだ」


彼は真面目な顔で言った。


「君を傷つけた罪は重い。あれでも軽いくらいだ」


彼の言葉には、私への怒りではなく、私を傷つけた者への静かな怒りが滲んでいた。


それが嬉しい。


「それと……もう一つ、お礼を言わなくては」


核心に触れる時が来た。


心臓が早鐘を打つ。


「あの時、『婚約者』と言ってくださいましたよね」


「……っ」


レオンハルト様が息を呑む気配がした。


「あれで、殿下も諦めがついたと思います。私を守るための嘘……方便だったとしても、嬉しかったです」


私は予防線を張った。


「方便」だと言ってくれれば、私は傷つかずに済む。


「ありがとうございました。……では、私はこれで」


逃げるように背を向けようとした。


ガシッ。


腕を掴まれた。


強くて、熱い手。


「待て」


引き止められる。


振り返ると、レオンハルト様が真剣な眼差しで私を見ていた。


月明かりに照らされたその瞳は、昼間のどんな時よりも熱っぽく、揺れていた。


「嘘ではない」


「え?」


「方便でも、演技でもない。……俺は本気で言った」


彼は私の方へ一歩踏み出した。


距離が縮まる。


私の心臓の音が、彼に聞こえてしまいそうだ。


「エルナ。君は自分のことを過小評価しすぎている」


彼は苦しげに眉を寄せた。


「君は、俺がただの技術者として君を必要としていると思っているのか?」


「……違うのですか?」


「違う」


きっぱりと否定された。


「最初はそうだったかもしれない。優秀な錬金術師が来たと聞いて、領地の利益になると考えた。だが……今は違う」


彼は私の手を両手で包み込んだ。


ゴツゴツとした武人の手。


けれど、私を扱う手つきは、壊れ物を触るように優しい。


「君が笑うと、俺まで嬉しくなる。君が徹夜をしていると、心配で居ても立ってもいられなくなる。君が作ったスープを飲むと、どんな高級料理よりも満たされる」


彼は言葉を探すように、少し口ごもった。


「俺は、不器用な男だ。気の利いた言葉も言えないし、王都の貴族のようにエスコートもできない。……戦うことしか能がない」


「そんなことありません!」


私は思わず叫んでいた。


「レオンハルト様は、誰よりも優しいです。私の凍えた手を温めてくれました。私の地味な仕事を、誰よりも評価してくれました。……私にとって、あなたは最高の英雄です」


一気にまくし立ててしまった。


恥ずかしくなって俯く。


レオンハルト様は、ふっと小さく笑った気配がした。


「君にそう言われると、最強の騎士という称号も悪くないな」


彼は私の顎に指を添え、ゆっくりと顔を上げさせた。


視線が絡み合う。


逃げられない。


「エルナ・ヴァイス」


彼は私のフルネームを呼んだ。


「俺の妻になってほしい。錬金術師としてではなく、一人の女性として、君を愛している」


時が止まったようだった。


星々の瞬きさえも静止したような錯覚。


愛している。


その言葉が、じんわりと心に染み渡っていく。


王太子殿下からは一度も言われたことのない言葉。


「無能」ではなく「愛している」。


涙が溢れてきた。


悲しくないのに、止めどなく流れる。


「……ずるいです」


私は泣き笑いのような顔で言った。


「そんな風に言われたら、断れるわけないじゃないですか」


「断るつもりだったのか?」


彼が不安そうに眉を下げる。


その表情が、なんだか可愛らしくて、愛おしい。


「いいえ。……私でよければ、もらってください」


私は彼の胸に飛び込んだ。


硬い筋肉の感触。


清潔な石鹸の香り。


そして、ドクドクと速く打つ彼の鼓動。


彼も緊張していたのだ。


レオンハルト様は私を強く抱きしめ返した。


骨が軋むくらい強く。


でも、それが心地いい。


「ありがとう……エルナ」


耳元で囁かれる声が震えている。


「絶対に幸せにする。もう二度と、君に寒い思いはさせない」


「はい。信じています」


私たちはしばらくの間、星空の下で抱き合っていた。


寒さなんて微塵も感じない。


お互いの体温だけで、世界で一番温かい場所にいるようだった。


「そうだ。これを」


レオンハルト様が体を離し、ポケットから何かを取り出した。


小さな小箱だ。


パカッ、と開けられる。


中に入っていたのは、見たこともない指輪だった。


銀色の台座に、青く澄んだ石が嵌め込まれている。


ダイヤモンドでもサファイアでもない。


内側から不思議な光を放つ、神秘的な石だ。


「これは……?」


「北のダンジョンの最深部でしか採れない『星屑鉱石』だ。魔力を蓄積し、持ち主を守る性質がある」


彼は少し照れくさそうに頬を掻いた。


「俺が採ってきて、加工した。……デザインは少し無骨かもしれんが」


手作り。


辺境伯自ら、危険なダンジョンに潜って、私のために。


王都のどんな高価な宝石よりも価値がある。


「着けていただけますか?」


私が左手を差し出すと、彼は震える手で指輪を取り出し、私の薬指に通した。


サイズはぴったりだった。


指輪が私の体温に反応して、ふわりと青い光を放つ。


「綺麗……」


「君の瞳と同じ色だと思ったんだ」


彼は満足げに微笑んだ。


そして、再び私の顔を覗き込む。


今度は、先ほどよりも距離が近い。


彼の意図を悟り、私は静かに目を閉じた。


唇に、温かくて柔らかい感触が触れる。


雪解け水のように優しく、春の日差しのように温かい口づけ。


それは、私たちが初めて交わした、愛の誓約だった。


「……ん」


唇が離れると、お互いに顔が真っ赤だった。


「もう遅い。冷えないうちに部屋へ戻ろう」


「はい」


彼は私の腰に手を回し、エスコートしてくれた。


その手はもう、遠慮がちに触れるものではなく、しっかりと所有を主張するものだった。


それが嬉しい。


廊下を歩きながら、私は指輪を何度も撫でた。


婚約破棄から一ヶ月足らず。


まさかこんな未来が待っているなんて、誰が想像しただろう。


「あ、レオンハルト様」


「ん?」


「私、錬金術師としての仕事も続けますからね? 寿退社はしませんよ?」


私が釘を刺すと、彼は声を上げて笑った。


「もちろんだ。君が働かなくなったら、マルクが泣いて抗議に来る。……それに、君が輝いている姿を見るのが、俺の楽しみでもあるからな」


完璧な回答だ。


この人は、私の全てを肯定してくれる。


部屋の前まで送ってもらい、最後にもう一度、「おやすみ」のキスをした。


今夜はきっと、最高の夢が見られるだろう。


あるいは、興奮してやっぱり眠れないかもしれないけれど。


無能と呼ばれた錬金術師令嬢は今、星空の下で、世界で一番幸せな婚約者となったのだった。


---


翌朝。


食堂へ行くと、使用人たちがニヤニヤしながら私とレオンハルト様を見ていた。


どうやら、テラスでの出来事は筒抜けだったらしい。


「おめでとうございます、エルナ様!」


マルクさんが満面の笑みで言った。


「閣下、昨晩のリハーサル通りにいきましたか?」


「……マルク、後で執務室に来い」


レオンハルト様が真っ赤な顔で睨む。


リハーサル?


私は驚いて彼を見た。


「何十回も練習したんですか?」


「……う、うるさい。飯を食え」


彼はパンを口に詰め込んで誤魔化した。


そんな不器用なところも、全部ひっくるめて愛おしい。


私たちの新しい日常は、賑やかで温かいものになりそうだ。

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