第1話 無能と呼ばれた日
シャンデリアの光が目に刺さる。
王立学園の卒業記念パーティ。
会場には色とりどりのドレスが咲き乱れ、芳醇なワインの香りが漂っている。
楽しげな談笑。優雅な弦楽四重奏。
平和な光景だ。
けれど私の頭の中を占めているのは、まったく別の事柄だった。
(……眠い)
まぶたが鉛のように重い。
立っているだけで意識が飛びそうだ。
私は今日まで三日間、一睡もしていない。
王都の地下を走る老朽化した上水道管。
その崩壊を防ぐための補強工事を、たった一人で完遂したばかりだった。
私の錬金術は、物を別の物に作り変える派手なものではない。
物質の構造を理解し、最適化し、維持する。
地味で、誰の目にも触れない裏方の作業だ。
「……エルナ様? 顔色が優れませんわ」
声をかけてきたのは、どこかの伯爵令嬢だったか。
心配そうな顔をしているが、その目は私の地味なドレスを値踏みしている。
「少し疲れが出たようです。お気になさらず」
私は微笑みを作った。
表情筋が痙攣しそうになるのを必死に堪える。
王太子の婚約者として、ふさわしい振る舞いをしなければならない。
たとえ、目の前のグラスに注がれた水を「構造解析して不純物を除去したい」という職業病に駆られたとしても。
その時だった。
唐突に音楽が止まる。
指揮棒を振っていた楽団長が、驚いたように手を止めた。
ざわめきが広がる。
広間の中央、一段高くなった場所に、金髪の青年が立っていた。
王国の第一王子であり、私の婚約者であるアルベルト殿下だ。
彼の隣には、小柄で愛らしい少女が寄り添っている。
アイリス・ベルガー男爵令嬢。
ピンクブロンドの髪をふわふわと揺らし、怯えたようにアルベルトの腕にしがみついていた。
嫌な予感がする。
いや、正確には「期待」と言うべきか。
アルベルト殿下が、私を指差した。
「エルナ・ヴァイス! 前へ出ろ!」
よく通る声だ。
私は重い足を引きずり、衆人環視の中を進み出た。
殿下の御前、五歩手前で優雅にカーテシーを決める。
「お呼びでしょうか、殿下」
「白々しい態度をとるな! 貴様には、もはやその資格はない!」
アルベルト殿下の怒声が響く。
会場は水を打ったように静まり返った。
彼は私を見下ろし、軽蔑を隠そうともせずに言い放つ。
「エルナ・ヴァイス。貴様との婚約を、この場を持って破棄する!」
やっぱり。
周囲から悲鳴のような息が漏れる。
公衆の面前での婚約破棄。
貴族社会において、これ以上の恥辱はない。
普通なら泣き崩れるか、必死に潔白を訴える場面だ。
しかし、私の心に湧き上がった感情は一つだけだった。
(……助かった!)
歓喜。
圧倒的な解放感。
心の中でガッツポーズを取る。
もう、あの無限に続く魔導具の点検をしなくていい。
夜中に叩き起こされて、王宮のトイレの詰まりを直しに行かなくてもいい。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
私は震える声を作った。
嬉しさで震えているのを、ショックを受けていると勘違いしてくれることを祈る。
アルベルト殿下は鼻を鳴らし、隣のアイリスの肩を抱き寄せた。
「理由だと? 自覚がないのか、この無能め」
無能。
その言葉に、会場の空気が凍る。
私は国内でも数少ない、国家資格を持つ錬金術師だ。
だが、アルベルト殿下の評価は違った。
「貴様の錬金術は、金を生み出さない。強力な武器も作れない。ただ古臭い設備をいじくり回すだけの、ゴミのような能力だ!」
彼は声を張り上げる。
「見ろ、このアイリスを! 彼女の『聖なる錬金術』は、鉛を黄金に変えることができる! 彼女こそが、次期王妃にふさわしい!」
会場がどよめいた。
鉛を金に変える。
錬金術師にとっての夢であり、禁忌でもある領域だ。
私はちらりとアイリスを見た。
彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、私を見返している。
なるほど。
彼女が最近、王宮に持ち込んでいた「黄金」の正体がわかった気がした。
あれは、ただのメッキだ。
表面の組成だけを一時的に変化させる、初歩的な幻惑術式。
時間が経てば剥がれ落ちる。
だが、錬金術の知識がない殿下には、それが本物の黄金に見えたのだろう。
「殿下。それは素晴らしい御力ですわね」
私は棒読みで答えた。
指摘してあげる義理はない。
彼が偽の黄金に目がくらみ、私を切ろうとしているのなら、それは好都合だ。
「ふん、ようやく自分の無価値さを認めたか」
アルベルト殿下は満足げに頷く。
「貴様のような陰気な女は、王族には不要だ。アイリスのような、明るく華やかな華こそが国を富ませる!」
「……ええ、おっしゃる通りです」
私は深く頭を下げた。
これで自由だ。
もう、過労死寸前の労働環境とはおさらばできる。
だが、アルベルト殿下の追撃は終わらなかった。
彼は残酷な笑みを浮かべ、さらに言葉を続ける。
「貴様の実家であるヴァイス伯爵家も、すでに了承済みだ。無能な娘を王家に押し付けた罪を償うため、貴様を勘当するとな」
勘当。
実家からも見捨てられたということか。
父ならやりかねない。
あの人は、利益にならない娘に興味などない。
「そして、貴様の行き先も決めてある」
アルベルト殿下は、会場の隅を指差した。
そこには誰もいない。
ただ、北の窓が開いているだけだ。
「北の果て、グラーフ辺境伯領だ。あそこなら、貴様のような地味な女でも、雪かき要員として役に立つだろう!」
グラーフ辺境伯領。
極寒の地であり、魔獣が跋扈する最前線。
「氷の墓場」とも呼ばれる場所だ。
周囲の貴族たちが、哀れむような視線を私に向ける。
追放刑に等しい扱いだ。
しかし。
(……最高じゃない)
私は顔を伏せ、必死に笑いを噛み殺した。
辺境。
王都から最も離れた場所。
そこには、面倒な王宮のしきたりも、夜会も、理不尽な呼び出しもない。
錬金術の研究素材として優秀な、希少な鉱物や植物が豊富な土地だ。
それに何より。
「静か」だという噂を聞いている。
「謹んで、お受けいたします」
私は顔を上げ、はっきりと告げた。
涙など一滴も流していない。
むしろ、ここ数年で一番晴れやかな顔をしている自信があった。
アルベルト殿下が、虚を突かれたような顔をする。
泣き叫んで縋り付いてくると思っていたのだろう。
「……な、なんだその態度は。強がりを言うな」
「強がりではありません。殿下のご温情に、心より感謝申し上げます」
私は左手の薬指から、婚約指輪を外した。
魔力を吸い取るだけの、質の悪い装飾品。
これを着けているだけで、常に微量の魔力を奪われ続けていた。
それも今日で終わりだ。
カラン、と乾いた音を立てて、指輪を床に置く。
「この指輪は、アイリス様にお譲りします。彼女の『黄金』にはよくお似合いでしょう」
皮肉を込めたが、誰も気づかない。
アイリスは「まあ、嬉しい!」と目を輝かせている。
どうぞ、存分に魔力を吸われるといい。
「では、私はこれで失礼いたします。荷造りがありますので」
私は踵を返した。
背後から、アルベルト殿下の怒鳴り声が聞こえる。
「ま、待て! まだ話は終わっていないぞ! もっと悔しがれ! 絶望しろ!」
無視だ。
もう彼の上司でも部下でも、婚約者でもない。
私は出口へと向かって歩き出した。
一歩踏み出すたびに、体が軽くなる。
背中の羽が生えたようだ。
扉を開ける。
夜風が心地よい。
ふと、会場の照明が一瞬、チカチカと明滅した。
おや。
さっそくガタがきたようだ。
あのシャンデリアの輝きを維持していたのは、私が毎晩こっそりと組み込んでいた「光量安定化術式」だ。
私が離れたことで、術式の更新が止まったのだ。
まあ、知ったことではない。
黄金を生み出す聖女様がいるのだから、彼女になんとかしてもらえばいい。
私は馬車寄せに向かった。
待機していた実家の馬車には、すでに私の荷物が積まれているらしい。
手回しがいいことだ。
「辺境伯領まで、お願いします」
御者に告げ、私は馬車に乗り込んだ。
クッションに体を預ける。
久しぶりの、誰にも邪魔されない時間。
馬車が動き出す。
遠ざかる王宮を見上げ、私は小さく呟いた。
「さようなら。二度と会うことはないでしょう」
こうして、私の新しい人生が始まった。
無能と呼ばれた錬金術師令嬢は、今夜、自由を手に入れたのだ。




