比較的に見て愛するに値しない、ということで。
「比べて考えてみれば、一目瞭然だと思うんだよ。クロエ」
トリスタンはそう言ってクロエに視線をよこす、彼はこうして二人きりになった途端に真剣そうな顔をして切り出した。
彼の言葉にクロエは窓の外から視線を戻して静かに首を傾げた。
ガタゴトと揺れる馬車の中で、二人の間には重たい空気が流れていた。
「俺は……お前にこれっぽっちだって愛されていると思えない、そうだろ?」
「……」
「さっきまでのパーティーのことをよーく思い出してくれ、そうすれば俺が言っていることがわかるはずだろ?」
彼の言葉に、クロエは静かに先ほどまでおこなわれていた国の北側領地の貴族たちが交流するパーティーのことを思い出してみた。
しかしきっと漠然と思いだせばいいということではないのだろう。
トリスタンが言いたいのは……比べているのは、あの誰もが憧れるマスカール公爵家のカップルであるアリエルとベルナールのことだろう。
華やかな宴の席で、同世代の貴族たちはひとところに集まって、この場で一番身分の高い主催者でもあるベルナールと、その隣に静かにたたずんでいるアリエルのことを話題にあげていた。
「本当に素敵ですわね。まるでアリエル様の愛情が見て取れるようなとても精巧な刺繍ですわ」
「ええ、本当に。以前はアリエル様が描かれた絵画を贈られたこともあったでしょう? それもとても美しかったわ」
「本当だな、ベルナール様はとても愛されていらっしゃる、うらやましい事だ」
ハンカチに刻まれた彼のイニシャルと美しい装飾の刺繍。
それはたしかに称賛に値するもので、この北側領地の中で一番仲のいい婚約者同士の惚気話に嫌な顔ひとつせずに皆がうらやましいとうっとりする。
その輪の中にクロエやトリスタンもいて、トリスタンも隣で笑みを浮かべて微笑ましそうに見つめていた。
「皆にそう言ってもらえてうれしいな。僕はあまり才がないから彼女に対して手作りの品を贈るのは難しいけど」
「なにをおっしゃいますか、男などそんなものですよ」
「ああ、そうだ。刺繍なんて肩の凝ることをやるぐらいならば、仲間内とゲームに興じるぐらいがちょうどいい。そんな女々しいことは女性の特権です」
ベルナールがそう口にすると、男性陣はこぞって彼の擁護に回り、女性陣も朗らかにそうですねと、笑みを浮かべる。
「そうかな。……なんというか僕もそういうふうに素敵な愛情表現をしたいと改めて思ったんだ」
「いやいや、そう言ったつつましさをアピールするのは女性の専売特許、奪ってはいけませんな」
「そうですよ。彼女たちには彼女たちの、我々には我々の使命があるのですから」
ベルナールの言葉にやっぱり男性陣はとても当たり前のことのように、そう言葉をかけて、トリスタンは男性陣の言葉にうんうんとうなずいていた。
彼らの言葉にまったくもって悪意はなさそうだったがクロエは、ソファーの肘掛けに肘をついたままなんとなく口を開いた。
「あら、じゃあ私はあなた方男性の使命を奪ってしまっているのかしら、こまったことですね」
男性同士が話している合間に、高く女性らしい声が響いてそんなことを言ったのだから周りの人々は即座にクロエのことを見やった。
多くの男性陣の視線が集まり、クロエはニッコリと笑みを浮かべた。
なんせクロエは、これでも女だてらに騎士団に所属しており、我々は我々の使命をと言っていた男らしいことの多くを経験して、今も身を置いている令嬢である。
そんなクロエの言葉に彼らはその通りだ困ったことだとは返すことはなく、一瞬の間が開いてそれから「そうかしら」と女性の柔らかい声が続いて響いた。
その言葉を発したのはベルナールの隣に佇んでいるアリエルであり、彼女はおっとりとした優しげな様子で、その場にいる全員に目線をゆっくりと巡らせながら言った。
「たしかに性差によって向き不向きはあると思うけれど、どちらかだけにしか許されないことなんて、そうそうないとわたくしは思いますわ」
「そうよ、そうよ。わたくし、男性でも刺繍をしてくれたら嬉しいわ」
「ええ、一緒にドレスを選んでくれても嬉しいもの」
アリエルの言葉に多くの令嬢たちは賛同し、その様子に男性陣はなんだか苦々しい笑みを浮かべている。
彼らは結局、主張はあっても女性に強くいうことはできない様子で、なんだか困ったなと男同士で顔を見合わせてバツが悪そうだ。
しかしアリエルは続けて言った。
「でも、わたくしはクロエのように勇ましくあることはできませんわ。わたくしは……マスカール公爵領を支える家人になるのですもの。惜しいことだけれど、それがわたくしの愛情ですもの」
その言葉に男性陣はまあそう落ち着くだろうと納得して、うんうんと笑みを浮かべる。そして彼らは理解ある人のようにアリエルの言葉に返す。
「そうですな、たしかにできる者がそうして外で仕事をして、支える役目と愛情を持った人が家を守ってくれれば安泰だ」
「そうね。いがみ合っているわけではないのだし」
「ええ……わたくしは、ベルナールからたくさんのものを与えられている。それはわたくしには手に入らないもので、あなたは逞しいもの。わたくしはそうして愛してくれて、だからこそわたくしもあなたを愛しているわ。あなたは素敵な人よ」
「ありがとう」
アリエルは最終的に、ベルナールを称賛する形に話を持って行って、彼が与えてくれる物に対するお礼にこうしているのだと述べる。
それは男らしさや、男性に庇護されることによる安心感のようにも取れる様な言葉であり、アリエルのような美しい人に愛されて称えられ、ベルナールは自信ありげに笑みを浮かべた。
そんな彼らの理想のカップルっぷりに男性陣も女性陣も最終的には気まずい雰囲気もなくさらに話題は変わっていく。
もちろんその流れにクロエはまったく不満などない。
彼らの愛情についてはある意味理想的だと思うし、昔からの付き合いだ、今更どうこう思うことはない。
それにたしかに彼らは正しいだろう。けれども男性陣がクロエを鼻で笑ってその言葉を無視しなかったのは、クロエのことを認めざるを得なかったからだ。
クロエは一時期、王太子妃の候補にも上がったほどに国内で有名で、高貴な女性としての立場がある。
だからこそ、男性陣の言葉に無理に合わせるつもりもないし、男は女々しいことなど一切せずに男らしくするべきで、女性はつつましやかで野心を持たずに家人としての役目を果たすべきだだという意見には賛成しないことにしている。
そしてそれを主張する方が、きっと友人も多少は生きやすいだろうと思ってのことだった。
と、そんな内容を思い出して、クロエは目の前にいるトリスタンに視線を戻した。
きっとあのあたりの会話のことだろうと思うけれど、どうしてそれが彼にとってクロエがトリスタンを愛していないということにつながるのかわからなく問いかけた。
「思いだしはしてみたけれど、あなたがなにを言いたいのか私はよくわからないですね」
「……はぁ、どうしてわからないんだ? こうして俺に叱られているというのにもっと必死になって思い出せないのか?」
トリスタンは大袈裟にため息をついて、クロエを責めるような言葉を使う。
どう返すべきか考えるのも面倒くさくてクロエは適当に首を振ってこたえた。
「あのな、クロエ。お前のそういうところは多めに見てやっているよ、俺は。でももういよいよ我慢の限界なんだよ」
トリスタンは理解があるような言葉づかいをしながらも、呆れを含んでいるみたいな言い聞かせる様な声で続ける。
「今回のことは、本当に強くこのままじゃダメだとそう思う出来事だった。反省できないのか?」
「どこをですか」
「はぁ~……」
クロエの言葉にまた大きなため息をついて、クロエの方こそため息をつきたくなった。
しかし、そこから彼は切り替えるように厳しい顔をして、手ぶりをつけてクロエに言う。
「わからずやなお前に、仕方ないから一から説明してやるからよく聞けよ」
聞きたくないけれど、彼の声は小さな馬車の中のどこに居ても聞こえるだろう。聞くしかない。
「まず、アリエル様はベルナール様に今回も心の籠った贈り物をして、ほかの男性陣にそのことを自慢していただろう?」
「そういう場面もありましたね」
「ああそうだ、それなのに俺は君から何一つもらったことがない。一つも自慢できることがなくて俺がどれだけ恥をかいたかわかるか?」
「……」
「お前に俺を想ってやってもらったことなんか一つもない。刺繍も絵画も詩も歌も、一つだってお前からもらったものはない」
断言する彼に、言われずともクロエは贈っていないのだからわかり切っていると思って口を閉ざす。
「それにあんな場で自分の権力を誇示するようなことをして、恥をかかせたよな? 見たかあの皆の引いた顔。比べてアリエル様はどうだった? 静かに黙ってベルナール様の話をさえぎったりなんかしなかった」
「そうね」
「俺はそれがもう恥ずかしくて恥ずかしくて、俺は友人たちに会う時にどんなふうに慰められるかと考えるとああもう今から、惨めで仕方ない」
クロエのせいでこんなにも自分は苦しんでいると表情を変えて見せて、アリエルと比較してみろと言う。
そんな彼の言っていることは間違ってはいないだろう。
あの時確かに、クロエの意見とその時に口を開いた男性たちの意見は割れていて、彼らにとって気分のいい会話ではなかったと思う。
そして、波風立てずに自分の主張をせずにつつましくあることが女性の美徳と彼らが思っている以上、まったくもって魅力のない女性だと思われるのも承知済みだ。
「さらに、最後にはアリエル様はベルナール様の庇護下にあり、そうして愛されることこそ女性としての幸せだと示した。男をたてて、愛を伝えて比べてお前はどうだった? 言ってみろ」
まるで大人が子供に説教をするみたいに、その時の自分を振り替えさせるように彼は指示した。
そんな彼の言葉にクロエは仕方なく口を開いて答えてやる。
彼の主張ができる限り早く終わるようにそうした。
「あなたの存在を無視して、一人偉そうにしていました」
「ああそうだ! 分かってるんじゃないか、俺をそうして辱めて、自分が一時話題の人であったという幸運をいつまでも引きずってそうして踏ん反りかえって、なぁ! お前はそれをどうおもう? 俺がどう思っているかわかるよな?」
「つらく思っているのですね」
「そのとおりだ! アリエル様はあんなにベルナール様のことを愛していると行動でも言葉でも示しているのに、比べてどうだお前は今までの自分の行いを顧みてどう思う?」
彼はクロエよりもとても偉くなったような顔をして、今度はクロエが悪かったとクロエに言わせるつもりらしい。
その言葉は疑問の体を取っていても実質的に疑問ではない。
「……」
答えずにいると彼はつづけた。
「どうして言えない。お前はどう見ても俺のことを大切に思っていなくて俺に恥を書かせて、俺を愛していない。比べてみればわかることだろ? それでいいのか? そんなことをしてお前は許されると本当に思うのかよ?」
それから彼は「大体、女が騎士なんて」とまるで当たり前のことを言うみたいに続けていってクロエは、窓の外の流れる景色に視線を移して彼の言葉を話半分に聞いていた。
そしてその時間は今までの様々なことを引き合いに出してずいぶんと長ったらしく続いて、彼の語気は荒くなっていった。
最終的に彼は黙った。
クロエがまったく反応を示さなくなって無視し続けているとそれでも必死になって話していた彼は、すっかり黙りこくって、ジトっとした目でクロエを睨みつけるだけになった。
「……吐き出せて満足しましたか?」
そう問いかけると彼はまた、口を開きそうになったので、釘を刺した。
「また、一方的に説教をしているつもりになるのでしたら、黙りますよ。話をしても無駄ですもの」
「……おっ、お前は、お前の悪い所を俺がわざわざ指摘してやっているのに」
「……」
どうやらこりていない様子だったのでクロエはもう目をつむって、やっとため息をついた。
「そんな態度を取っているから、おい、聞いてるのか? ……どうしてそう頑固なんだよ」
「……」
「…………っ~、わかった! お前の言い分も聞いてやるから」
トリスタンはやっと譲歩してそう口にする。そしてクロエの手を取ろうとそろりと触れた。
その手を払いのけて、やっとクロエは彼に対して返答を返すことにした。
「やっと、私と話をする気になりましたか」
払いのけられた手を自分の手で抑えて、彼はまるで被害者のようにクロエを見つめる。
ともかくクロエを悪者にしたいらしい彼に、好戦的な笑みを浮かべてクロエは続けた。
「まぁ、話をすると言っても私から言いたいことは、対して多くありませんわ、トリスタン」
「な、なんだよ」
「……その前にあなたの主張は……つまるところ、比較的に見てアリエルよりも私があなたを愛していないことは明白だということですよね」
「ああ、その通りだよく、わかっているじゃないか」
彼の長ったらしい話を総括して言えば彼は表情を明るくして、口角をあげてうんうんとうなずく。
その表情はなんだか妙に苛立たしいものに見える。
「女性たるもの、ああして男を愛してこそだ。今のお前のように俺の婚約者という地位に胡坐をかいている様では到底、愛するに値しないんだよ」
愛してほしくはないのか、そんな意味を伴った言葉でありクロエは彼の出した例のうちの一つを口にした。
「あなたの言う愛というのは、例えばアリエルがベルナールにたくさんの愛情のこもった手作りの品の贈り物をしているようなこと?」
「ああ、そういったものでどれだけ愛しているか、伝えるのも大切なことだ」
彼はやっとクロエが自分の意見に賛同してくれたと思ったのか笑みを深める。
しかし、クロエはその彼の態度に、彼と同じように笑った。
……やっぱりなにもわかっていないで言っているのね、本当に。
「ふ、ははっ」
声を漏らして、肩を揺らす。
クロエのつややかな黒髪が揺れてさらりと肩から少し落ちる。
「な、なにを笑い事じゃないんだ」
「あら、いいえ。笑い事ですよ」
「真剣な話なんだ、なにが可笑しいんだよ!」
クロエのその反応は彼にとって望ましいものではなかったらしく、すぐに表情を変えてトリスタンは眉間にしわを寄せた。
……なにがおかしいですって?
なにがというか、全部ですよ、全部。
「だって、あなたの話、まったく的を射ていないのですもの。可笑しいわ」
「なんだと!?」
混乱する彼に、笑みを浮かべたまま続けて言った。
「そもそも、アリエルはたしかにベルナールに贈り物をたくさんしているけれど、それは、ベルナールがアリエルにしている支援のほんの十分の一にも満たない物を返しているのですよ?」
「……は?」
「ですから、トリスタン。あなたアリエルがベルナールに心底惚れこんでああしていると考えているのでしょうけれど、それは大きな間違いですよ」
呆けた顔をする彼に、今度はクロエが教えてあげる様な気持ちになっていた。
「きちんと彼らがどんなふうな関係を結んでいるか見ている者ならわかっているはずです。アリエルはベルナールに心底惚れこまれて、様々な実家への支援や本人への多大なる配慮の結果、些細なお返しをしているだけです」
「そ、そんなはず、そんなことは言ってなかった!」
「いいえ、言っていましたよ。彼からたくさんの物を貰っているから返していて、愛されているから愛していると言っていたでしょう。あれ言葉通りの意味ですよ」
彼女とは昔からの付き合いがある。
彼女は、誰か一人のために無条件でその身をささげる質でもなければ、力を持たないただの女性ではないことなど経歴を知っていれば、多くの人はわかっているはずだ。
努力の末に手に入れた魔法で本来ならば、より多くの人を救って助ける魔法使いを目指していた。
しかし家の事情があって、ひとところに収まる決意をしていいと思える人を見つけた。
それだけのことなのだ。
「それにアリエルがベルナールを立てていたと言っていたけれど、それはベルナールが最初アリエルのことをたたえて自慢して心の底から愛していると示していたからアリエルもそうしただけでしょう」
彼らの言動を逐一思いだして、彼の言葉をつぶしていく。
「それに、あなたはまるでベルナールもほかの男性たちも全員が、女性がつつましく男性に尽くすようであればいいと思っているという前提で話をしていますね?」
「あ、ああ」
「少なくともベルナールはアリエルに誰よりも尽くしていて、自分もそうしたいと意思表示をしていたでしょう。自分も手作りの贈り物を渡したいと言っていた」
「……それは、ただ体裁でそう言っただけで……」
「ならそのあとに男性陣が言った言葉に同意しているはずですよね、その言葉を一度でも聞きましたか?」
さらに言葉を重ねるとトリスタンは目を見開いて納得できないような顔をして黙り込んだ。
「……」
「それらのことを鑑みると、あなたは、自分に都合のいいアリエルの言動ばかりを私と比較してほかのことは見て見ぬふり」
クロエはさらに、彼を煽るように言う。
「もう自分のどこが悪かったのかわかるでしょう? 言ってみてくださる? ねぇ、トリスタン」
彼がしていたように大人が叱るみたいに言ってクロエは髪を後ろに流して笑みを深めた。
「それにね、私があの二人と仲がいいこと、あなたは知っていましたよね。よく引き合いに出そうと思いましたね」
「……」
「それで? 比べるならば私も比べましょうか。トリスタン」
「……」
「あなたは、私に行動を伴った愛情を示してほしいと望むけれど、あなたはベルナールに比べて私をどれだけ愛してくれましたか?」
「……っ」
「贈り物をしてくれたことは? 私を誇らしく思って褒めてくれたことは? 同じ立場に立って尊重してくれたことは? 彼のように優しく私を愛してくれたことは? 一度でもありましたか?」
トリスタンはまったくクロエの主張など聞きもせずにただ要求して、ただ自分の意見を押し付けて、まったくクロエのことなど考えていないと先程長々と示してくれた。
反論はできないだろう。
「彼らは、まずは一方が与えて、それを返す形で愛情をはぐくんでいる。なのに自分はなにもせずに他人が持っている物だけをうらやんで比べて、自分もそうされて当たり前だなんてとんだ傲慢ですよ。トリスタン、いい加減にしてほしいのは私の方です」
そうしてきっぱりというと彼は静かに拳を握って小刻みに震わせた。
これまでもそれほど仲がいいというわけでもなかったが、それなりにやってきたつもりでいた。
しかし、これはもう致命的であり、修復の仕様がない決裂だった。
けれども彼はそう思わなかったのか、それから大きくため息なのか深呼吸なのかわからないような息を吐いてクロエの方を見据える。
「っ、そ、そんな俺を追い詰めたようなことを言ったって、結局俺の意見をお、お前は呑むべきだよな? だって俺たちは婚約者でお前は俺の━━━━」
「ええ?」
クロエは彼の言葉をさえぎって、疑問の声をあげてそれから席を立った。
まだ馬車は屋敷につかない。でももう、この場にいるのはどうしようもなくくだらないことで、遠慮したい状況である。
「今の話があったうえで、私があなたを愛する可能性がまだあると?」
「は?」
「だって……ねぇ、ははっ、比較的に見てあなたは私にとって、愛するに値しない、と示しましたよ」
言ってから馬車の扉を開けた。
風が吹き込んで、馬車の中の淀んだ空気を吹き流してくれるようで心地がいい。
こんな小競り合いなどまったくもってくだらない。
クロエはそう思って、振り返りながら笑っていった。
「もういいです。結論は出たのですから、あなたに心残りなど一片もありませんよ。さようなら、トリスタン」
そうして馬車から飛び降りた。彼の驚いた顔が最後に見えてその間抜けな顔で少しスカッとして、それから魔法を使ってふわりと着地する。
クロエの魔法は風の魔法で、騎士として振るうにも十二分に強力だ。
そしてあんな小さな馬車の中に収まるような小さな女ではない。あんな人とともにいるぐらいならば飛び降りて、一人で歩くのが自分らしさという物だろう。
後日婚約解消を申しこんだが、トリスタンはそれを受け入れることはなく女々しくクロエに言い訳や、怒りに任せた手紙を送ってくるようになった。
そのうえで、同世代の貴族たちにはクロエに対して反省させるように距離を置いているのだと嘯いたため、そうではない証拠としてその手紙を持ち出すのは必然的なことだった。
それが思わぬ速度で拡散されて、トリスタンは孤立していつしか社交界に現れなくなった。
そんな彼の実家に文句を言えば、案外あっさりと婚約は解消されて晴れてクロエは自由の身となった。
……まぁ、そのままもし結婚したとしてもトリスタンに縛られる気など毛頭ありませんでしたけれどね。
今更彼のことを思い出して、婚約解消しなければ自分の元に繋ぎ止めておけると思っていた彼の見当違いっぷりについ笑みを浮かべる。
するとその笑みをとがめるように目の前にいたアリエルが言った。
「もう、なにを笑っているのかしら。わたくしは真剣な話をしていますのよ、クロエ」
「そうだよ。クロエ」
ベルナールとアリエルは二人そろってクロエに呼びかけて、同じように少し怒っていた。
それはクロエがあまり真剣に話を聞いていなかったからであり、笑みを浮かべたまま謝罪する。
「あら、ごめんなさいね、それでなんの話でしたか」
紅茶を飲んで問いかけると、彼らは二人で顔を見合わせて、これだからクロエはと呆れたような顔をした。
トリスタンにそうされた時にはめっぽう腹が立ったのに、彼らにそうされることにクロエはまったく嫌な気持ちにならない。
むしろ、可愛らしい似た者カップルの必死な様子や動作が可愛くてつい笑みを浮かべてしまうまである。
「だからね。クロエ。もう君は変な男に縛られるぐらいなら誰にも興味なんかないっていうけれどさ」
「それじゃあ困ることばかりですわ。パーティーのたびにあなたと話をするために列をなす男性に何度、困ったことかわかりませんもの」
「そうそう。列の整備も大変だし」
「パーティーが終わるまでに話をできなかった男性のへこみようと言ったら……」
まったく困ったわと、頬に手を当ててアリエルはクロエに苦言を呈する。
ベルナールもうんうんと頷いてクロエに諭すように言う。
そんな世話を焼いてくれる二人にクロエは少しいつもよりも、おどけた態度をしていた。
なんせここには、三人しかいない。プライベートなお茶会だ。
クロエは大きなパーティーなんかで誰かに称賛されるよりも、こうして深く知っている人と過ごす時間が好きだった。
しかし、アリエルはそんなクロエのしみじみとした気持ちなど察することはなく、少し手をきゅっと握って「ですからね」と切り出す。
「あなたがもうこれ以上、誰とも婚約する気もないと言うのなら」
「僕らにだって考えがあるよ」
二人はそう言って立ちあがり、いそいそと応接室から出ていった。
その行動の意味が分からずにアリエルは小首をかしげてその扉を見つめた。
すると開かれた扉の向こうにはとても大きく目を見開いた男性がいた。
どこかで見たことがある気がするのできっと周辺領地の人だろう。名前はたしかディオン、辺境伯家の跡取り息子だ。
「うわっ、あ、ちょ、あ、あんたたち嘘だろ!? 聞いてない、聞いてないまったく聞いてない!」
彼はわたわたと慌てていて、しかしぐいぐいと押されて部屋の中に入ってくる。
そしてまじまじとクロエが見つめていることに気が付くとはっとして、なんだか感情のよくわからない顔をした。
「ほら、いいからディオン、どうせここにきて逃れることはできませんわ」
「そうだよ。ディオン、往生際が悪いと思われるよ」
「っ……」
二人に両腕を掴まれて連れてこられた彼は、クロエのことを見つめてそれから最終的に顔を赤くして湯気でも立ちそうな様子だった。
「クロエ、この方はリクール辺境伯子息のディオンですわ。何度かお話をしたこともあると思いますの」
「それはそうですね。記憶にありますもの」
アリエルに言われて、やっとパーティーでの彼の様子を思いだすことができる。
しかし、今ここにいる彼とはまったく違った様子で、なんだか大人しい人という印象だったのだ。
「ところでクロエは、トリスタンにアリエルと比べられたから別れることにしたんだよね」
「……それもそうですね」
「なら、この人はピッタリじゃないかしら?」
「っ、俺は言っただろ……遠くから見ているだけで充分だって、それをあんたら……」
忌々し気に呟くようにディオンは言った。それを無視してベルナールはつづける。
「ディオンはね、クロエ。僕らなんかと比べる余地がないぐらい━━━━」
「まて、まて、流石に自分で言う、言うから。言わせてくれ。これ以上醜態をさらしたくない」
ベルナールの言葉をさえぎって、ディオンは彼らから手を放してもらい、そしてやっと自らの意思でその場に立った。
彼の額には熱くもないのに汗が浮かんでいて、振るえた吐息で深呼吸をする。
それから目が合う前に彼は九十度頭を下げて言った。
「ファ、ファンですっ」
それはまったく新しいタイプの告白であり、その言葉に何と返したらいいのかクロエはわからない。でも補足するようにベルナールとアリエルが言う。
「ふふふっ、そうですの。彼なら比べる余地もなくあなたが大好きだとわたくし知っていますのよ」
「その通り、でもディオンは告白するつもりはないみたいだったけど……彼も婚約者がいないから、丁度いいと思ってね」
「っ、だとしても。こ、こんなこと突然されたら、ああ、もっとマシな服を着てきた! もっと、なにかいい言葉を考えて……」
「でも考えすぎてこなくなるのが落ちじゃないか」
「それは……そんなことない……と思う……」
「そんなことありますわよ」
ベルナールとアリエルにはさまれて、困り果てている彼は、話の最中にもちらりとクロエのことを見てすぐにまた視線を逸らして様子をうかがう。
顔は赤いまま、挙動も少々不審なままだ。
それにクロエは、比べられて別れたからって、比べることができないぐらいクロエのことを好きな人を連れてくるなんて、そんな頓智のようなことよく考えついたなと思う。
うまくいくとは限らないだろうし、彼だってクロエのことを良く知れば誰かと比べたくなるかもしれない。
けれども、クロエが感じたことは、ただ直感的にディオンのことを好ましく思った。
なにがそう感じたかわからないし、自分のことを心底、好きらしいその様子を見て気分がよかったのかもしれない。
でもともかく、ベルナールたちがいろいろと考えてこうして引き合わせてくれたということは事実で、彼らの行動に報いたいという気持ちもあったのだろう。
なにはともあれ、一概には言えないが、こういうトリッキーな出会いと関係もあっていいだろう。それにその方がきっと楽しいと思う。
「ははっ。ディオンは面白い人なんですね」
立ち上がってそばによって話に入る。
「っ、う、嬉しいです」
「すぐ赤くなるのですね」
「ふ、普段はなりませんっ」
「私にだけ?」
問いかけると彼はコクリとうなずいて、瞳はなんだか潤んでいて、今にも泣きだしそうだと思った。
その表情が少しばかり可愛くてクロエはまた笑みを浮かべて、彼のことを知ってみたいと思ったのだった。
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