第八話:ヒロインの小さな一歩
イザベラ様が、その圧倒的な力で王都の悪意を平定した、あの日。
わたくし、エリアーナは、闘技場の観客席の片隅で、ただ、呆然とその光景を見つめていました。
あの日、初めてお会いした時のイザベラ様は、ただただ、恐ろしい方でした。わたくしを「保護対象」だと一方的に宣言し、常識では考えられないような、地獄のトレーニングを強要しようとした、赤い髪の悪魔。
わたくしは、あの方の強さを、ただ「暴力」としてしか、認識できていなかったのです。
でも、違いました。
今日、わたくしが見たのは、ただの暴力ではありませんでした。
兄君の名誉を守るため、たった一人で、全ての悪意に立ち向かう、気高い戦士の姿。
倒した相手にさえ、敬意を払い、その手を差し伸べる、正々堂々とした誇り。
そして、民衆が、彼女の名を熱狂的に叫ぶ、あの光景。
わたくしは、学園の自室に戻っても、ずっと、そのことを考えていました。
エドワード殿下は、いつも、わたくしを守ろうとしてくださいます。でも、わたくしは、いつも、ただ、その背中の後ろで、震えているだけ。
教科書の束を運べるようになった、あの、ささやかな成功。あれも、元をたどれば、イザベラ様が、無理やり教えてくださった、あの、トレーニングのおかげなのかもしれない。
窓の外から、イザベラ様の勝利を祝う、人々の陽気な声が聞こえてきます。
わたくしは、窓ガラスに映る、自分の姿を見つめました。
か弱くて、頼りなくて、いつも誰かに守られてばかりの、みすぼらしい、平民の娘。
その時、わたくしの心の中に、今まで感じたことのない、小さな、しかし、確かな想いが、芽生えたのです。
「あの人のようにはなれなくても、少しでも、強く…」
わたくしは、ゆっくりと、部屋の扉に鍵をかけました。
そして、記憶の底から、あの日の、イザベラ様の言葉を、必死に、手繰り寄せます。
「背筋を伸ばし、尻を突き出す! 膝がつま先より前に出てはいけません!」
あの、恐ろしかった熱血指導。
わたくしは、おそるおそる、その、スクワットの姿勢を真似てみました。ですが、すぐに、足がぷるぷると震え、尻餅をついてしまいます。
やっぱり、無理。
そう、諦めかけた時、別の言葉が、よみがえりました。
「全ての基本は、柔軟性からですわ! 筋肉が固まっていては、正しいフォームは身につきません!」
そうだ、ストレッチなら。
わたくしは、床に座り、ぎこちない動きで、足を伸ばし始めました。
イザベラ様のように、完璧な開脚など、夢のまた夢。ですが、ほんの少し、ほんの少しだけ、昨日より、前に進めたような気がしました。
じわり、と汗が滲む。息が、少しだけ、弾む。
それは、誰にも知られることのない、わたくしだけの、秘密の鍛錬。
あの、気高き「赤き戦姫」の背中に、ほんの少しでも、近づくための。
ヒロインの、あまりに、ささやかな、最初の一歩でした。
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