第四話:筋肉では防げない壁
王子の専属トレーナー(自称)となったわたくしと、その熱心な弟子(?)となった王子殿下。わたくしたちの奇妙な師弟関係は、王都の社交界を席巻する、最も熱いゴシップとなりました。
わたくしはと言えば、そんな周囲の雑音など意にも介さず、来るべき「メインクエスト」に備え、己の肉体を鍛え上げる日々に没頭しておりました。英雄として王城に滞在する特権を最大限に活用し、王宮騎士団の訓練場を借り切っては、己の限界に挑戦する。なんと素晴らしい環境でしょう!
「そぉりゃっ!」
わたくしが、訓練用の巨大な丸太を片手で振り回していると、騎士団の方々が「おお…」「あれが、赤き戦姫…」と、尊敬の眼差しを向けてきます。ええ、ええ、存分にご覧なさい。これが、世界を救う者の力ですわ!
ですが、そんなわたくしの輝かしい日々に、陰湿な影が差し込もうとしていることに、この時のわたくしは、まだ気づいておりませんでした。
事件が起きたのは、夜会から数日後のこと。
兄であるヴォルフ様が、血相を変えて、わたくしの部屋に飛び込んできたのです。その手には、何やらゴシップ記事が書かれた、質の悪い瓦版が握りしめられていました。
「イザベラ!一体、どういうことだ、これは!」
「まあ、兄様。そんなに慌てて、心拍数を上げるのは、有酸素運動の時だけになさいませ」
「ふざけている場合か!」
兄様が、わたくしの目の前に、その瓦版を叩きつけました。
そこに書かれていたのは、目を疑うような、下劣な見出し。
『ツェルバルク家嫡子ヴォルフ、平民の娘を弄び、弄んだ末に捨てたか!? 悲劇のヒロイン、涙の告発!』
記事の内容は、あまりに陳腐で、悪意に満ちたものでした。兄様が、ある平民の娘と恋仲になったものの、家柄の違いを理由に、冷酷に捨て去った、と。そして、その娘は、今、心労のあまり、病に伏せっている、と。
もちろん、全てが、真っ赤な嘘ですわ。この、筋肉一筋で、岩よりも不器用な兄様に、そのような器用な真似ができるはずがありません。
「くだらない三文記事ですわね。このようなもの、放っておけばよろしいでしょう」
わたくしが、鼻で笑うと、兄様は、苦虫を噛み潰したような顔で、首を横に振りました。
「そうはいかん。この記事を、ライネスティア家が、政治問題として、取り上げ始めたのだ。『貴族の横暴が、か弱き民を苦しめている。これは、由々しき事態だ』と、な…」
その言葉に、私は、ようやく事の深刻さを理解しました。
これは、わたくしへの攻撃。わたくしが、御前試合で、彼らの騎士を完膚なきまでに叩きのめしたことへの、陰湿な報復。そして、わたくし本人ではなく、わたくしが最も大切に思う、家族を狙った、卑劣な罠なのです。
わたくしの、血の気が、急速に引いていくのを感じました。
同時に、腹の底から、灼熱の怒りが、込み上げてくる。
(あの、ひ弱な輩ども…! わたくしに、正面から挑む勇気がないからと、このような、回りくどい、姑息な手を…!)
わたくしは、拳を、強く、強く、握りしめました。
ですが、その怒りを、どこにぶつければいいのかが、分からない。
記事を書いた記者を、殴り飛ばしますか? 嘘を並べ立てたという、平民の娘を、探し出しますか?
そんなことをすれば、火に油を注ぐだけ。「やはり、ツェルバルク家は、暴力的で、野蛮な一族だ」という、敵の思う壺です。
初めて、わたくしは、直面したのです。
この、鍛え上げた、完璧な肉体では、決して、打ち破ることのできない、見えない「壁」の存在に。
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