第四話:地獄のトレーニング、再開
翌朝、夜明け前の薄闇を切り裂くように、王立天媒院の敷地内にけたたましい鐘の音が鳴り響きました。もちろん、それは始業を告げる鐘ではございません。わたくしの専属侍女ブリギッテが、特注の巨大な真鍮の鐘を、これまた特注のハンマーで打ち鳴らしている音ですわ。時刻は、午前五時。
「お嬢様!起床のお時間です!筋肉が、目覚めの時を待っております!」
「ええ、分かっておりますわ、ブリギッテ!」
わたくしはベッドから跳ね起きると、昨日ブリギッテに用意させた、ツェルバルク家の威光を示す真紅のトレーニングウェアに身を包みました。伸縮性に富み、汗を吸っても重くならない、まさに決戦兵器。
兄ヴォルフの悲鳴が聞こえるようですが、気のせいですわね。
わたくしたちは、まだ眠りに包まれている学園の廊下を、軍隊のように規則正しい足音で進みます。すれ違った夜勤の衛兵が、腰の剣を取り落としておりましたが、些細なことです。
最初のトレーニングは、城壁走。
「ブリギッテ!タイムを計測なさい!」
「はい、お嬢様!ただいまより、5キロス全力走、開始です!」
わたくしは、大地を強く蹴り、疾風のように駆け出しました。夜明けの冷たい空気が、火照った肺を心地よく満たしていきます。道中、早起きの生徒や職員たちが、怪物でも見るような目でこちらを見ておりましたが、きっとわたくしの鍛え上げられたフォームに見惚れているのでしょう。ええ、そうに違いありませんわ。
「ハッ、ハッ…!素晴らしい走りです、お嬢様!まるで戦場を駆ける雌豹のよう!」
「当然ですわ!この程度の走り込み、準備運動にもなりません!」
5キロスを全力で走り切った後、わたくしは中庭の中央にそびえ立つ、巨大な噴水の前で足を止めました。その中央には、慈愛に満ちた表情を浮かべる、大理石製の水の女神像が鎮座しております。
「さて、ブリギッテ。第二のトレーニングですわよ」
「はい、お嬢様!女神像リフティング、参ります!」
わたくしは、ドレスを着ていた頃には決してできなかったであろう、完璧なフォームで腰を落とすと、女神像の台座に手をかけました。
「ふんっ…ぬぅぅぅううう!」
わたくしの全身の筋肉が、悲鳴を上げると同時に、歓喜に打ち震えるのが分かります。ミシミシ、と女神像が、その重みに耐えかねた台座から、浮き上がる。
「あと一息です、お嬢様!運命を粉砕するのです!」
「当然ですわ!破滅フラグごと、このわたくしが、持ち上げてさしあげますわッ!」
ズシン、という轟音と共に、わたくしは見事、女神像を頭上へと掲げました。足元の石畳が数枚、砕け散っておりますが、これも栄光の傷跡ですわね。
地獄のトレーニングを終え、食堂へ向かうと、そこはすでに朝食をとる生徒たちで賑わっておりました。
きらびやかなドレスを纏った令嬢たちが、小さなパンをちぎりながら、優雅に談笑しております。ふん、軟弱な。
わたくしは、そんな彼女たちには目もくれず、テーブルにドスン、と巨大なシェイカーを置きました。中身は、ブリギッテが薬草を調合して作り上げた、ツェルバルク家秘伝のプロテイン。色は沼のように淀み、匂いは薬草というより魔獣の体液に近いですわね。
「お嬢様、本日のプロテインです。昨晩の反省を活かし、さらにタンパク質を5グラムア増量しておきました」
「気が利きますわね、ブリギッテ」
わたくしが、その見るからに不味そうな液体を一気に呷っていると、かつての取り巻きであったクレメンティーナとダフネが、恐る恐る近づいてきました。
「あ、あの、イザベラ様…?ごきげんよう…」
「ええ、ごきげんよう。あなたたちも、その貧相な食事ではなく、プロテインはいかが?」
わたくしがシェイカーを差し出すと、二人は顔を真っ青にして後ずさります。
全く、情けない。これだから、わたくしの輝かしい未来についていけないのですわ。
そう、わたくしが一人悦に入っていた、その時でした。
食堂の隅で、彼女たちが、ある人物を取り囲んでいるのが、目に入ったのです。
銀色の髪、氷のような気品。セレスティーナ・フォン・ヴァイスハルト。
そして、その周りで、何やらヒソヒソと、陰湿な笑みを浮かべている、わたくしのかつての取り巻きたち。
(……あれは)
わたくしの脳裏に、ゲームのシナリオがフラッシュバックします。
『序盤イベント:取り巻きを使い、ライバル令嬢セレスティーナに精神的ダメージを与える』
そうですわ、あれこそが、わたくしの破滅への第一歩。観衆の前で、わたくしの指示で動いた取り巻きの非道が暴露され、わたくしの評判が地に落ちる、重要なイベント!
「…………」
わたくしは、静かに立ち上がりました。
ゴトリ、と重い音を立ててシェイカーをテーブルに置く。
「あなたたち…」
わたくしの、地を這うような低い声に、取り巻きたちの肩がビクリと跳ねました。
「わたくしに、恥をかかせるおつもりですの?」
そうですわ、問題はセレスティーナではございません。あんな生ぬるい嫌がらせで、あの氷の女が屈するはずがない。あのような非効率的な攻撃は、悪役令嬢としての、そしてツェルバルク家としての、わたくしの名誉を著しく傷つける、愚行中の愚行!
わたくしは、指の骨をポキポキと鳴らしながら、ゆっくりと、彼女たちの方へと、歩みを進めていきました。
ええ、そうですわね。
破滅フラグは、見つけ次第、叩き折る。
まずは、あの使えない手駒たちに、真の「力の使い方」というものを、文字通り、骨の髄まで、教え込んでさしあげませんと。
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