第三話:わたくしの原点、ツェルバルク家訓百箇条
わたくしが悪役令嬢としての新たな覚悟を決めたその時、兄ヴォルフの顔からは血の気が引いておりました。彼のその表情は、まるで理解不能な古代魔獣でも目の当たりにしたかのようです。
「イザベラ…お前、本気か? 敵情視察だの、破滅フラグを叩き折るだの…決闘で頭を打ったせいで、ついに幻覚でも見始めたか」
「幻覚ではございませんわ、兄上。これは、わたくしという存在の根幹に関わる、極めて重要な戦略的転換なのです」
「その戦略的転換とやらが、なぜ『プロテインを寄越せ』という結論になるんだ!」
ええ、そうですわ。わたくしは先ほど、ブリギッテに命じたのです。まずは医務室にある栄養価の高そうな薬草をすべて粉末にして持ってくるように、と。強靭な肉体には、適切な栄養補給が不可欠。これは基本中の基本ですわ。
「兄上には、わたくしの高尚な理念がご理解いただけないようですわね。無理もありませんわ。近頃の兄上は、剣の鍛錬よりも書類仕事ばかり。すっかり筋肉が落ちて、思考まで軟弱になってしまわれた」
「誰のせいだと思っている! お前が学園で問題を起こすたびに、俺がどれだけ始末書を書かされていると…!」
ああ、もう結構ですわ。今の兄上には、何を言っても無駄。わたくしは、自分の信じる道を行くだけです。
わたくしは兄に背を向け、窓の外に広がる青空を見上げながら、己の過ちを深く反省しておりました。
(そうですわ…最近のわたくし、どうかしておりました)
この乙女ゲームの世界に転生してからというもの、わたくしは「公爵令嬢」という立場に胡坐をかき、高慢に振る舞うばかり。最も大切なこと、人間として、そしてツェルバルク家の人間として、決して忘れてはならない魂の在り方を、見失っていたのです。
わたくしの脳裏に、幼い頃から父ゴードリィに叩き込まれた、あの栄光ある家訓が蘇ります。
――ツェルバルク家訓百箇条。
『第一条:迷ったら殴れ、話はそれからだ』
『第七条:対話とは、すなわち筋肉と筋肉のぶつかり合いである』
『第二十五条:真の美とは、鍛え上げられた僧帽筋の隆起に宿る』
『第四十九条:解けぬ問題は、物理的に破壊すれば問題ごと消滅する』
『第八十三条:筋肉は裏切らない。それ以外はまず疑え』
『第九十九条:令嬢の嗜みとは、ティーカップを小指一本で支えるための握力である』
「……そうですわ。全ては、この家訓に記されております」
わたくしは、ぶるぶると武者震いを禁じ得ませんでした。
このゲームのシナリオは、わたくしに陰謀や駆け引きを求めてくる。しかし、それはツェルバルク家の教えに反する、卑劣で女々しい行いですわ。わたくしが破滅する運命にあるのは、この高貴なる教えを忘れ、小手先の権力闘争にうつつを抜かしていたからに他なりません。
「敗因は、筋力不足。そして、精神の軟弱化…! なんという不覚!」
わたくしは、自室の壁を拳でコン、と叩きました。メシリ、と壁に美しい亀裂が入ります。ええ、この手応え。これこそが、わたくしの原点。
「兄上、お聞きなさいな」
「もう聞きたくない…」
「わたくしは、原点に立ち返ることにいたしました。悪役令嬢としての役割も、破滅フラグも、全てツェルバルク家の流儀に則り、真正面から、物理的に、粉砕いたします!」
「お前の流儀は学園の流儀ではないと、何度言えば…」
もう、兄の声はわたくしの耳には届きません。
わたくしの頭の中は、これから始まる、輝かしい未来のための、完璧な計画でいっぱいでした。
「ブリギッテ!」
「はっ!お嬢様!」
「すぐにわたくしの部屋から、レースやフリルのついた軟弱なドレスを全て撤去なさい! 代わりに、動きやすく、通気性の良いトレーニングウェアを至急用意するように!」
「かしこまりました!最高のトレーニングウェアを!」
「それから、今後のわたくしのスケジュールですけれど、早朝五時の起床後、まずは学園の城壁を10周。その後、中庭の噴水に設置されている女神像(推定※150㎏)を持ち上げての大胸筋トレーニング。午後は、騎士団の訓練場に乗り込み、手合わせと称してサンドバッグ代わりの騎士を数名、お借りしますわ。夜は、プロテインを摂取した後、瞑想(という名のイメージ筋トレ)に励みます!」
「なんと素晴らしい計画でしょう!感動で涙が…!」
忠実なるブリギッテが、瞳を輝かせてメモを取るその横で。
兄ヴォルフが、静かに天を仰ぎ、力なく呟くのが聞こえました。
「父上…俺、もうダメかもしれない…」
ふん、情けない兄ですこと。
ですが、見ていらっしゃいな。このイザベラ・フォン・ツェルバルクが、いかにして、その鍛え上げられた肉体で、運命をねじ伏せるのかを!
わたくしの、脳筋令嬢としての、本当の戦いは、今、この瞬間から始まるのです!
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