第二十五話:泣いて逃げる暗殺者
「はぁ…はぁ…」
地面に大の字に伸びた黒装束の刺客殿から、か細い呼吸が漏れております。その瞳は虚ろで、まるで魂が半分ほど肉体から抜け落ちてしまっているかのよう。無理もありませんわ。わたくしの特別トレーニングメニューは、生半可な覚悟でついてこられるほど甘くはありませんもの。
わたくしは仁王立ちで彼を見下ろし、満足げに頷きました。
「ええ、ええ。よく頑張りましたわ。初対面でわたくしの指導にここまで食らいついてきた方は、あなたが初めてですわよ」
わたくしの褒め言葉に、彼の肩がびくりと震えました。感動のあまり、武者震いが止まらないのでしょう。なんと向上心に満ち溢れた方なのかしら。
わたくしはしゃがみ込み、彼の顔を覗き込みながら、本日の総括と今後の課題について、優しく説いて差し上げました。
「ですが、課題は山積みですわね」
わたくしがそう切り出すと、刺客殿の顔が恐怖…いえ、真剣な眼差しで引きつったように見えました。
「まず第一に、体幹がなっておりませんわ。全ての動きの軸となる腹斜筋、腹直筋、脊柱起立筋…そのどれもが、プロフェッショナルを名乗るにはあまりにも脆弱すぎます。これでは、わたくしのような一流の相手には、小手先の技など通用しませんことよ」
わたくしは彼の腹部を人差し指で軽くつつきました。それだけで「ぐふっ」という悲痛な声が上がります。やはり、まだまだ鍛え方が足りませんわね。
「次に、心肺機能。あなたの息はすぐに上がっていましたわ。これでは長期戦に持ち込まれた際に、じり貧になるのは目に見えています。闇討ちや奇襲は短期決戦が基本とはいえ、万が一ということもありますでしょう?一流たるもの、常に最悪の事態を想定し、備えておくべきですわ」
わたくしは、彼の耳元でささやくように、今後のトレーニングプランを提案しました。
「まずは明日から、毎朝50キロスのランニング。その後、腕立て・腹筋・背筋・懸垂を各1000回。それが終わってから、わたくしが今日の続きを指導して差し上げますわ。これを三ヶ月も続ければ、あなたは見違えるほど強くなっているはずです。さあ、ラザルスに感謝なさい。彼があなたをわたくしに引き合わせてくれたおかげで、あなたは真の強者への道を歩むことができるのですから!」
わたくしが慈愛に満ちた笑みを向けると、刺客殿はわなわなと震え始めました。そして、その瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちたのです。
(まあ…!なんてこと…!)
わたくしの熱意と、これから始まる輝かしい未来への期待に、感動の涙が止まらないのですわね!分かります、分かりますとも!強くなるということは、それほどまでに素晴らしいことなのです!
すると、次の瞬間。
彼は、それまで死んだように動かなかった体で、突如として地面を掻きむしり、叫びとも嗚咽ともつかぬ声を上げながら、もつれる足で立ち上がりました。
そして――
わたくしに背を向け、一目散に闇の中へと走り出したのです。その姿は、まるで悪霊にでも追われているかのよう。
「おお…!」
わたくしはその背中を見送りながら、胸が熱くなるのを感じました。
「見てくださいまし、あの走り!わたくしの言葉に感化され、一刻も早くトレーニングを始めたくてたまらないのですわ!なんと有望な若者なのでしょう!」
彼は何度も転び、それでも必死に立ち上がって闇の奥へと消えていきました。 きっと今頃、早速ランニングを始めているに違いありませんわ。
「うかうかしてはいられませんわね」
有望な好敵手の誕生に、わたくしの闘志も燃え上がります。わたくしも、彼に負けぬよう、さらなる高みを目指さなければ。
わたくしは自室に戻り、先ほど手に入れた石版の欠片(攻略本)を、軽々と頭上に持ち上げました。
「よし、まずはこれをダンベル代わりに、ショルダープレスを1000回から始めますわ!」
ラザルスが送り込んだ刺客が、半狂乱で彼の元へ逃げ帰り、「あの女は悪魔だ」「化け物だ」と泣きじゃくりながら報告し、ラザルスの心労をさらに加速させることになるなど、もちろんわたくしは知る由もありませんでした。
 




