第七話 夫の涙
「シア……シア……ううっ……」
氷の副長は、いつもの冷徹で容赦のない眼光からは想像もできない姿でそこにいた。
シアの名前を呼びながら、グラスを煽るがもう残っていない。彼はしくしくと泣きながら、机の上にあったウイスキーのボトルをグラスの上に傾ける。そしてさらに、水差しから何かを入れてウイスキーを割っているのが見えた。それを見てシアは目を疑う。
あれ、牛乳だわ。ウイスキーのミルク割りだわ。
「……私がそばにいながらどうして。あの子は……シャーリーは一体誰の……ううっ……シア……」
なにもかもが不釣り合いで不似合い。
シアは目に入った光景が到底信じられず、まばたきするしかなかった。
シアはもっとよく見ようと、扉に近づくと、キィ、と扉が動いてしまった。扉の音を聞いたサイラスが、すぐに立ち上がる。
「だれだ!」
そして、扉越しに目があってしまった。彼は悲痛な叫びをあげた。
「シア!」
(いけない!)
とっさにシアは身をひるがえした。早く逃げなくては。
「シア、待ってくれ!」
サイラスの言葉が後ろから追ってくる。
「私を置いていくな!」
シアはわき目も降らず階段に向かい、数段飛ばしながら飛び降りた。
階段を下りてすぐが屋敷の大玄関だ。この玄関には寝ずの番をしている私兵が数人いたが、シアが突然降りてきたことを受け入れられず、呆然としている。
「お、奥様!?」
「ごめんなさい、通して!」
シアは兵たちの横を通り抜け、玄関の扉をあけた。
「何をしている、とらえろ!」
サイラスの厳しい叱責が飛ぶ。サイラスに酒が入っていなければ、あっというまにシアは追いつかれていただろう。
玄関を出たとたん、シアはふわっと何か布をかぶせられるのを感じた。
「えっ」
「姉さん! こっち!」
シアは横に引っ張られ、気が動転する。ぱっと顔をあげると、アーロが口元に人差し指をたてていた。
「アーロ!? いったいどうして」
「しーっ」
玄関横に身を隠す二人。二人を覆うように大きな半透明の布がかけられていた。布の向こうで、私兵の影が右往左往しているのが見える。
「透明布だ。僕たちの姿は向こうから見えないよ」
小さな声でアーロがささやく。シアはこくこくとうなずいて返した。アーロの魔道具の一種なのだ。
しばらくそうしていただろうか、サイラスが私兵に激怒している声が聞こえ、ぞっとするほどの魔力圧も感じた。向けられたわけではない自分たちまで骨の髄が凍り付きそうになったのだから、直接向けられた兵たちは失神しただろう。大変申し訳なく思う。
あきらめたのか、周囲が静かになったのを見計らって、二人は屋敷を抜け出した。
「アーロ、来てくれて助かったわ」
落ち着いたところで、ほっと息をついてシアがそう言った。アーロも呼応するように笑う。
「こんなこともあろうかと、姉さんの部屋に危険察知の魔道具をつけておいたんだ」
「なんて?」
シアが問い正すと、アーロはこともなげに言う。
「その部屋にいる人間が危険だ!と考えたら、対応する道具が光を放つ魔道具だよ。嫁いだときから置いてあったけど、知らなかったの?」
……知らなかったわよ。
しかしそんな弟のトンデモ性格に慣れきってしまっているシアは、ため息をついて事を流す。
「まぁ、いいわ。そんなことより、元の姿に戻ってしまったことを相談し……」
と、そう言いかけたところだった。
シアの視界に入り込んだ、生まれたての太陽の強い光が全身を照らす。驚いたアーロが、シアを揺さぶった。
「姉さん! しっかり!」
あ、と声を出したのもつかの間、シアの意識がするりと抜け落ちていった。
気が付くと、シアはスウィンタートン公爵家のシアの部屋のベッドに寝かされていた。
「……あう(ここは)」
声を出そうとして、思うように言葉が出ないことに気付く。ぱっと両手をみると、小さなぷにぷにの指がぎゅっと握りしめられていた。
ああ、戻ってしまったのだ。赤ちゃんの姿に。
元の姿に戻ったと思ったのは、夢だったのかしら。シアは記憶を思い返そうとして眉をしかめた。
「シャーリー、起きましたか?」
シアは自分のすぐ近くから声がして、きょとんとそちらを見る。まんまるの瞳で見上げた先には、サイラスがじっとシアの顔を見ていた。
「起きましたね。では、いきましょう」
え、と吃驚する間もなく、シアはサイラスに抱えられる。
朝からいったいどこにつれていこうというの、シアは精一杯暴れてみるものの、サイラスはシアが暴れたくらいではぴくりともしない。細身のサイラスだが、さすがは騎士団でも折り紙付きの実力者。
こうなったら思いっきり声をあげて泣くしかないと、シアが大きく息を吸い込んだ時だった。
「サイラス様!」
慌てたニックが部屋に飛び込んできた。ニックはサイラスからシアを奪い取って抱きなおす。
「シャーリー様はまずお朝食です。一体、どこへ行かれるので?」
サイラスはシアを取り上げられたことで、ぶすっと不機嫌をあらわにしたものの、手持無沙汰になった腕を組み、眉間にしわをよせた。
「国王に謁見する」