第五話 激怒
「ふふっ、きれいな花」
一方、ナンシーは色とりどりの花を手に、一本ずつ水切りをしていた。貯めた水の中に茎の先端を入れ、水の中で一本ずつハサミを入れなおす。そうすれば花が長持ちすることを知っているのだ。
ナンシーは屋敷にあった高級な花瓶を取り出し、花を生けた。これを当主サイラスの執務室に飾るのだ。毎日、違う花が飾ってあればサイラス様もお気づきになるはず。
(妄想の中のサイラス)『ふむ、この花は……?』
妄想の中のサイラスは、実際のサイラスよりも二倍は目が大きくキラキラと輝いていた。
(妄想の中の執事ニック)『美しい花ですね。これを飾ったメイドはセンスがいい』
(妄想の中のサイラス)『ふむ、この花を生けたメイドをここに』
「そして旦那様はついにシア様を忘れ、新たな妻をめとるの。そう……このナンシー・ナイアラ……」
などとくだらない妄想を繰り広げながら、ナンシーは花瓶にいれた花持って執務室へ向かっていた。
ところが。
突然その場を激しい重圧が襲い、体中が廊下の床へとたたきつけられた。当然、花瓶は割れ、花と水が散乱する。
「……っ、これは一体……!?」
その圧から感じられたのは、憤怒。噴火し真っ赤に燃えながら流れ落ちる土石流のように、そこにいるものすべてをなぎ倒して広がっていく。ナンシーがかろうじて首を動かせば、廊下にいた他のメイドや召使たちも倒れているのが見えた。
「ぐうっ……これは、魔力漏れ……? この魔力は……」
メイドたちは状況が信じられず、唖然としてつぶやく。
「そんな……これは、サイラス……様……?」
一方、スウィンタートン邸の執務室は絶対零度に凍り付いていた。
「メイドがシャーリーを放置したと」
シアはニックに抱えられいまだかつて感じたことのない魔力に圧倒されていた。
ニックの後ろで、別の召使いが床に倒れこんでいく。おそらくシアに圧がいかないように調整しているのだろう、そうでなければニックであっても直撃してあのように倒れこんでいたに違いない。この威力では、この館の人間はひとたまりもないはず。
「そのメイドは今すぐクビに」
「もちろんです、サイラス様」
えっ、とシアは息をのんだ。
スウィンタートン公爵家から暇を出されるということはそう簡単なことではない。
このローゼ大国で王族に次ぐ実力をもつスウィンタートン公爵家は、雇われることすら難しい。ほとんどがコネクションのある貴族の行儀見習いだ。ナンシーの親御さんはやっとの思いで彼女をこの家のメイドとして滑り込ませたに違いない。
それがクビになったとあれば、スキャンダル好きの社交界には一瞬で悪評がたつ。彼女の人生はもうほぼ終わったに等しい。
「あ、あぶううー!(やめて!)」
思わずシアは声を出していた。
サイラスはシアをはっとみると、魔力圧を急激に収めていった。シアとシアを抱えるニックは対象外になるように調整していたとはいえ、幼いシアにとって負担のかかる可能性があることに思い当たったようだ。
「ああ、シャーリー、申し訳ありませんでしたね。すぐにメイドは追い出しますから」
「あーぶ!(だからそれがダメだって言ってるの!)」
たしかに赤ちゃんの放置はいけないことだ。でもきっと、若い彼女はそれがどれだけ罪深いことか知らなかったはず。一度の失敗でクビにするのは罰が重すぎる。
どういっても伝わらず、シアは不満を募らせた。
「やんやんや!」
「……まさか、この子はナンシーをかばっているのでは?」
泣き止まないシアに向かって、驚くような表情をみせるニック。シアはその言葉をきいてすぐに泣き止んだ。
「あうう♡」
全力で機嫌をよくし、ニックの言葉に肯定してみせると、サイラスとニックは驚いて目を見合わせた。
「一歩間違えば、御身を危険にさらすところだったのですよ」
シャーリーに向かって話すニックを見て、サイラスは眉をひそめた。
「いやそれ以前に……この子は……まるでこちらの言葉が分かっているかのようですね」
まずかったかしら、とシアは注意深くサイラスを見つめ返した。
いまのシアはどうみても見た目が推定1歳。物事を判断できる年齢ではないはずだ。ましてやメイドのナンシーをかばうなんてことができるはずもない。
ところがサイラスはしばらくシアを見つめた後、重々しくつぶやいた。
「……シアの子ですから……もしかしたら非常に賢いのかもしれません」
(……それはさすがに親ばかがすぎるのでは……?)
シアは一瞬ぽかんとしたものの、そちらの方が都合がよいのではと思いなおす。
「あう(そうよ私は賢いのよ)」
とやや調子に乗ったシアが主張したのを知ってか知らずか、サイラスは思い直したようだった。
「そのメイドをここに。私が直接指導します……ニック、あなたにシャーリーを託しても?」
「もちろんです、主人」
その後、部屋に戻ったシアが再び魔力の圧を感じたのは言うまでもない。
ニックによって部屋へ連れられたシアは、掛け布団などの取り払われたベッドの上に今度は丁寧に置かれた。
少し眠くなってきたシアは小さな手で目をこすり、体を丸めてうずくまる。
サイラスが直接指導すると言っていたけれど、ナンシーは大丈夫だろうか。クビになることはなくなったとはいえ、あの冷たい瞳で睨みつけられたらすくみ上がってしまうに違いない。
そもそも私を冷遇していたのは、他でもないあなたじゃない――……。
「そろそろミルクの時間ですね。すぐとってきますのでお待ちを」
ニックはそう言うと、急いで部屋を出ていった。あの様子だとすぐに戻ってくるだろう。まだ眠りきることもできず、手持ち無沙汰になったシアは窓の外を眺めた。
すると窓の向こうにニョキっと黒い影が現れ、いっぺんに目が覚める。
「なんな!(猫!)」
シアは声をあげて喜んだ。猫は好きな方だ。
猫は器用に身体をくねらせて、わずかに空いた窓の隙間からぬるりと部屋の中に侵入する。
前進真っ黒な毛並みはよく清潔そうな上に首輪もついているので、どこかの飼い猫だろうか。首輪にはどこかで見たような宝石が付いており、シアは首を傾げる。
あれ、あの宝石どこで見たんだっけ……?
シアの疑問をよそに、猫はのそりのそりと歩を進め、ベッドの淵に飛び乗った。シアの顔を覗き込んで、ニヤッと笑う。
「やぁ姉さん」
シアは一瞬起きた出来事が理解できずに唖然とする。それからぱかっと口を開けた。
猫が喋った!?