第四話 スウィンタートン家
夫が無関心どころか1日家を出ただけで追いかけてきてしかも様子がおかしい。
状況がよく分からないがどうやらそういうことらしい。
赤子を片手に何か誓っている様子だが、シアの中のもう一人のシアが、冷静につぶやいた。
最愛の妻とまで思っていたのだったら今までろくに会話もしなかったのはなぜなの?
3年間も、館に放置。役割も果たせない私は寂しい想いをしていたのに?
本当にシアのことを思っていたのなら、今までの仕打ちは色々とありえないと思う。
「君は、シアに本当によく似ている」
そんなふうにシアを見つめるサイラスの瞳はとろんと溶けている。
「あう……(なんなのよ……)」
問いただしたいが、赤子の体ではどうしようもない。シアはかろうじて短い腕を伸ばすと、椅子から落ちると思ったサイラスは慌ててシアを受け止めた。だが抱きかかえられたシアは、ぺちんとサイラスの頬を叩いてみた。
「だ!(どうだ!)」
「!」
ぷに。
シアの柔らかいぷにぷにクリームパンおててが、サイラスの頬に当たる。
途端、彼はふわりと口元をゆるめて破顔した。
「はは……! このサイラス・スウィンタートンのほほを平手で打つとは」
「……!」
「君にしか許されないな、シャーリー」
美男の微笑を至近距離で食らってしまった。普段の凛々しい顔立ちからは想像もつかない慈愛の笑み。もはや眩しい。
サイラスはシアの小さな手を握ると、自分の頬に当てて、感触を楽しんでいる。
シアはその笑みにイライラを忘れ、唖然と見つめ返すしかなかった。
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館につくなり、サイラス様は腹心の執事を呼び出し、シア……否、赤子シャーリーのために部屋を用意するように告げた。
「……シア様は……」
めったなことで取り乱すことはないスウィンタートン公爵家の筆頭執事が、言葉を濁した。
「……シアはしばらく戻らない。シアの部屋のものを、シャーリーに与えてやってくれればいい」
「取り急ぎ、シア様のお部屋をシャーリー様にお使いいただけるように準備いたします」
指示を受けた執事のニックは一瞬ぽかんとしたものの、直ちに姿勢を正す。
「ああ、そうしてくれ」
ニックはサイラスから恭しくシアを受け取り、すぐに行動を開始した。
「シア様はしばらく戻られないとのことだ。ナンシー、お前にシャーリー様のお世話を申し付ける」
シャーリーの面倒をみるのは、以前もシア付きで仕事をしてくれていたナンシーになるようだ。
「かしこまりました」
ニックの言葉にナンシーは優雅に礼をして指示をうけとる。我がスウィンタートン公爵家へ行儀見習いにきてくれている彼女は、子爵家の三女であり、貴族だ。
礼儀正しく、隙のない彼女は、ニックからシアを受け取ると、シアの部屋に向かった。恭しく運んでくれたので、ほっと息をつく。
よかった、アーロのところにいるよりもよっぽどちゃんと面倒を見てくれそうだわ。
シアはほっと息をついた。
部屋まで向かう途中、歩く揺れがなんとなく気持ちよくて、少し眠たくなってくる。大丈夫、ここで無難に赤ちゃんしていれば、いつかアーロが元の姿に戻る手段を見つけてくれる。
ところがナンシーは、部屋につくなり、シアをベッドに放り出した。
「うぅ!」
着地と同時に思わず腹から息が出る。
ふんわりと、赤子にとっては柔らかすぎる羽毛の描け布団がシアを包み込む。
しかしびっくりした、心臓が止まるかと思った。シアは大きな瞳をさらに大きく見開いて、ナンシーを見上げた。
「あうう?(ナンシー?)」
「まったく……私が赤ちゃんのお世話ですって? ばかにしてるわ」
ナンシーはいまいましげにシアをにらみつけるなり言い放った。
「麗しのサイラス様にお近づきになれると思ってこの仕事についたのに。シア様付きになったときは嬉しかったけれど、シア様ときたらちっともサイラス様に愛されてないんだもの。そのうえ今度は、赤ちゃんの世話ですって」
「あうう(そ、そんな……)」
ナンシーってこんな子だったの。思いもよらなかったシアはぱちくりと目をまばたかせた。
大人の姿だったときは、そんなに優しくしてくれたわけではないにしろ、そつなく世話をしてくれたのに。相手が赤ん坊という弱者だと、こんな態度をとるなんて。
サイラス様といい、ナンシーといい、赤ん坊の目線で見るとまったく違う性格が浮き彫りになってくる。人間不信になりそうだ。
「まぁいいわ、赤ちゃんはチクったりできないもんね」
ナンシーはにやりと笑い、部屋を出て行った。
え……放置? 1歳の赤ちゃんを放置ですって?
そろそろオムツも替えてほしいし、 おなかもすいてきたんですけど!?
「う……うわああああん!」
誰もいなくなると、急に不安が襲ってくる。シアはなんとか泣きながらベッドからはい出そうとしたものの、柔らかすぎる羽毛布団がそれを阻んだ。それからしばらく、シアは泣き続け、布団から脱出することもできず、眠りに落ちた。
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は、とシアが意識を取り戻した時には、口の中のスプーンをなめている時だった。
「まったく……この年頃の子供から目を離すなんて」
見上げると、あきれ顔のニックがシアの口に離乳食を運んでいる。どうやらおなかがすいて泣いていたのをニックに助けられたらしい。
「あううー(ありがとう)」
言葉は伝わらないだろうから、せめてにっこりと笑ってみせる。堅物のニックには効かないだろうけれど。
ところがニックは私の笑顔をみるなり、破顔してみせる。
「わ、笑った……!」
す、すさまじい。赤ちゃんパワー。
「それに、こんなに柔らかい布団の上に赤子を寝かせるだなんて、常識に欠けている。窒息の危険もあるのだぞ。至急、硬めのマットレスを用意し、ベッドの周囲に転落防止の囲いをつけねば」
以前、ニックはシアにまったく関心がなかった。しゃべったこともなかったし、目も合わせてもらえなかったと思う。よほどシアを館の女主人として認めていなかったのだろう。
(私、死ぬかもしれなかったんだわ……ふかふかのおふとんひとつで!)
自分がどれだけ弱い存在になったのかを思い知らされたように感じて、シアはぞくりと背筋を凍らせた。
ニックは再び離乳食をスプーンですくいあげると、私の口に運ぶ。
うん、甘くて美味しい。これはカボチャだろうか。あんなに硬い野菜をどうやってこんなにトロトロにするのだろう。
「まったく、サイラス様のお言いつけに背くだけでなく、こんなかわいい子を。さて、どうしてくれようか」