第三話 夫の豹変
「私の妻を返していただけないでしょうか?」
予期せぬ訪問に、アーロもシアも固まってしまった。
いるはずのない人が、そこに立っていた。いるだけでも信じられないというのに、さらにその発言が、妻に関してというのも信じられなかった。
妻……つまりシアだ。
まさかとは思うが、シアを迎えに来たのか。スウィンタートン公爵がわざわざおんみずから?
「え、ええと、妻というのは……」
状況が理解できず、しどろもどろになる弟。あの眼力の前では、すくみあがるのも無理はない。
「私の妻、シア・スウィンタートンです。貴宅にお伺いしていると」
「は、はい、確かに姉はここに……来ていましたが……」
背後からでも、弟がダラダラと汗をかいているのが分かる。
あなたの奥さん、赤ちゃんになっちゃいました!なんて言ったところで信じてもらえるはずもない。魔法の研究者・専門家であるアーロでさえ何が起こったか分からないような状況なのだ。
「妻は中に?」
「はい、えっ、いや、いいえ」
「入らせていただきます」
「ちょ、ちょっと!」
アーロが止めるのも聞かず、強引に侵入を試みるサイラス様。
あれ、ちょっとこれってやばいんじゃない?
どこか隠れる場所はないかと探してみたものの、自分はまだ居間のソファの上。ここから降りることもできないし、赤ん坊が動ける範囲に逃げる場所なんてどこにもない!
下手に動いて薬品をひっくり返したら危険かもしれないし……!
「シア!」
びく、と震えた。名前を呼ばれ、思わず目が合ってしまった。
シア、だなんて、あの声で名前を呼ばれたことなんて一度もないのに。
「シ……ア……?」
目が合ったものの、相手の姿がよほど想定外だったらしい。
口をポカンと開いた姿はいつもの冷静沈着な姿からは想像もつかない。
「あーう(サイラス様)」
「……では、ないようですね。シアはどこに」
ようやく状況を理解したサイラスは平静らしきものを取り戻し、ぎろりと部屋を見渡した。
そんなに広くない研究室だ。大人の女性一人がいないことなんて、あっという間に分かってしまう。
「あーうー……(えっと、これは……)」
「それにこの赤子は? あまりにシアによく似ています」
「あ、ああ、それは、ええと」
よい言い訳を見いだせない弟はオロオロとするばかり。ちらちらと赤ん坊のシアに目をやっている。
どうしようかと考えあぐねているうちに、サイラスは重々しく口を開いた。
「……事情は、分かりました」
ゆっくりと近づき、シアを抱き上げる。
「あう!(あっ)」
「この子は、シアの子ですね」
ち……
「ああぶうう!(違う!)」
まさかの不貞を疑われていた。シアは声をあげて不満を表す。
「ん? 否定しているのか……?」
「あう(そうです!)」
「いや、赤子に言葉が理解できるはずもないですね」
翻訳機を介していないシアの言葉(?)は彼には届かない。あらためて、サイラスはアーロに向き直った。
「シアはここにはいないようです。しかしここに、シアと明らかに関連のありそうな赤子がいる」
「……ええと、それはその……」
「シアは……シアはいつ戻ってきますか」
じ、と鋭い視線に撃ち抜かれたアーロは、言い訳などを考えることもできず、うろたえた。
「それは……僕にも分かりません……」
「そうですか……」
サイラスはシアの顔を覗き込んだ。抱き抱えられているいま、サイラスの青い瞳と、至近距離で目が合う。
シアは、こんなに近くで、サイラスのお顔を拝見したことなどいまだかつてなかった。
その整った顔立ちは、近くでみても乱れひとつなく、だがよく見れば少し、眉間に皺を寄せている。
「この子がシアの子なのであれば、それは私の子だということです」
そして少し考えて。
「この子供は、私が連れて帰ります」
「えっ、」
「う」
シアたちは揃って驚嘆で声を詰まらせた。
スウィンタートン邸に連れて帰るというのか。正体がバレるリスクが高くなってしまうのではないだろうか。
「だからその、その赤ん坊は、決して姉の子などではなくって……!」
慌てたアーロはなにかつくり話を考えようとしたものの、半端な物語ではこのサイラス・スウィンタートン卿を欺ける気がせず、口をぱくぱくさせた。その様子をみたシアは、腹をくくってこう言った。
「あう(アーロ、いいのよ、そうしましょう)」
「え、で、でも…!」
「あーぶぶ(私がここにいたところで、手伝えることはないもの。お屋敷なら、メイドや執事に面倒を見てもらえる)」
まず、アーロは育児には決定的に向いていない。
研究に没頭すれば、自分の寝食すら忘れる研究家だ。そんな生活習慣に巻き込まれてしまっては、か弱い赤子は簡単に衰弱してしまう。アーロには慣れない育児をしてもらうよりも、一刻も早く原因を突き止めることに集中してもらった方がいい。
「だ、だ、だ!(私がサイラス様を誤魔化しておくから、その間に原因を突き止めて……!)」
アーロはシアの言葉に、うー、とか、あーとか歯切れの悪い言葉をふたつみっつつぶやいたもののシアを説得させる手段は他にないと考えてこくんと頷いた。
「……すみませんが、その子をよろしくお願いします」
「この子の名は、なんと?」
「え、な、名前……」
しまった。本来の名前「シア」を名乗れば、怪しまれてしまいそうだ。
「姉君から伺っていないのか」
サイラスはシアの両脇に手を入れ、自分の正面に掲げて視線を合わす。
「……君の本当の名前は別にあるかもしれないが、便宜的に私が名前を授けよう。君の名前はシャーリー。シャーリー・スウィンタートンだ」
「あう(偽名ね、分かったわ)」
「……行きましょう」
そしてサイラスはおよそそのお姿に似つかわしくない赤子を片手に抱いて、研究室を出た。
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馬車の中、シアとサイラスは二人きりになった。
「……」
「……」
馬車に沈黙が降りる。やがて、サイラスはシアに目を落とした。
「君は……君の母君がどこに行ったか知らない?」
まっすぐに向き合われて、シアは少し驚いてしまう。まずもって、このサイラスという男が、シアをまっすぐに見たことなど、なかったように思えた。シアはどうせ通じないと思いつつも、返事がないのもかわいそうかと思い、声を上げる。
「あう(実は私のことなのよね)」
「……ふふ、私としたことが。幼いこの子にわかるはずもない……おいて行かれたのはこの子も同じなのですから」
シアの返答をどう受け取ったのか、気落ちした様子だ。
「あーぶう(なんで落ち込んでるのか分からないけれど、まぁ元気を出して)」
「……赤子である君の方が、お母さんのことが心配だな。我が最愛の妻、シアのことが」
最愛の妻。
という聞き慣れなさすぎる言葉に寒気がする。
――だいたい私は、結婚して今日まで、こんなに長く夫が喋るのを初めて見たと言うレベルなのに。
赤子相手だからと油断しているのか、今日の夫は本当によく喋るのだった。
「シアは……美人で気立ても良く、親切でおおらかな女性です。そして賢く、物事を判断する能力があります。ご両親の事故があって――あれは本当に気の毒なことでした――それでもなお気丈に物事を対処していた。君の母君は本当に素晴らしい女性なのですよ」
次々に出る褒め言葉に、シアは心の中で混乱する。
「必ず連れ戻します……私がこの手で、必ず」
ぎゅっと拳を握るサイラスの膝の上で、シアは顔を顰めるしかなかった。
夫は、私に無関心なはずではなかったの……?