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第十五話 儀式

 夜の帳が静かに降りる頃、館は息を潜めたように静まり返っていた。


 空には、赤銀月。

 まるで誰かの決意を照らすように、その光は冷たくも柔らかく、庭園の薔薇の花びらを銀色に染めていた。


 温室の奥、誰も近づかない古いガラス張りの小庭に、シアは立っていた。

 大人の姿で。すっかり着慣れていたネグリジェの裾をそっと摘み、息を潜めるように立ち尽くしている。


 アーロが用意した魔術陣は、花々の間に隠れるように描かれていた。香り高い草花に紛れて、特殊な粉や宝石が埋め込まれている。赤銀月の光が中心に差し込めば、起動する仕組みだ。


「……まもなく月が真上に来るよ」


 猫の姿をしたアーロが、植え込みの影から顔を出してそう告げた。


「準備は整った。……あとは、姉さんがどうしたいか、だけ」


 シアは小さく頷いた。だがその視線は、夜空ではなく、どこか邸の方角を向いていた。


(……サイラス様)


 あの人は、今どこにいるのだろう。気づいていないのか。あるいは、気づいていても来ないのか。


 もう、私は子供の姿ではない。あの人が守ろうとした“シャーリー”ではない、ただの──シアだ。


(……それでも、もう一度だけ)


 今の彼と、目を合わせてみたいと思ってしまう。


 そのときだった。


 さわ、と風が揺れた。


 遠くから、足音が響く。ゆっくりとした、しかし確かにこちらへ向かってくる靴音。

 聞き慣れた、深く、静かな足取りだった。


 アーロが「え」と小さく鳴く。シアの心臓が、高鳴った。


 花々の間に現れたその人影は、やはり──サイラスだった。


 赤銀月の光に、その銀の髪が照らされる。いつもより少しだけ乱れていた。いつものように完璧ではなく、どこか迷いを含んだ瞳で、彼はこちらを見つめていた。


「……シア」


 その一言は、問いでも、驚きでもなく、ただ確かめるような呼びかけだった。


 シアは息を呑んだ。いつぶりだろう、この声で、自分の名前を呼ばれるのは。


 サイラスは、シアの姿を認めても、近づこうとはしなかった。ただ、一定の距離を保ったまま、静かに立ち止まる。


「君が……戻ってくる気配を、感じていました」


 しばしの沈黙ののち、サイラスは、ほんの少し声を落とした。


「シア……君の話を聞かせてください」


 その一言に、シアの胸が詰まった。


 あまりに長い間、望んでいた言葉だった。求めて、求めても届かなかった声だった。


 涙が、頬を伝う。


「わたし……ずっと……ずっと、わからなかったの……」


 声が震える。


「どうして、わたしを見てくれなかったの? 名前も、呼んでくれなかった。笑ってくれなかった……。屋敷のどこにいても、わたしだけ、そこにいないみたいだったの……っ」


 言葉が、止めどなく溢れる。泣きながら、それでも絞り出すように続ける。


「なのに、シャーリーには……あんなふうに……優しくして……。私は妻なのに、ずっと、孤独で……っ」


 声が揺れていた。けれど、それがどこまでも誠実に聞こえた。


 サイラスは、彼女の涙を黙って受け止めていた。感情をあらわにすることの少ない彼が、今はただ、静かにシアを見つめている。その眼差しには、戸惑いと……痛みが宿っていた。


「……あの頃、君にどう接していいのか、わからなかった」


 低く押し殺したような声だった。


「私は、君に何かを強いることが正しいと思えなかった。だが、結果として──何もしないことで、君を孤独にした」


 シアが顔を上げる。涙に濡れた目に、サイラスの姿がにじむ。


「言葉にすればよかった。感情を、君に伝えればよかった。怖かったんだ。君が、私のそばから離れるのが……最初から、そうだったのに」


 安堵? 嬉しさ? それとも、ただの涙?


(違う、これは……)


 決意だけでは足りない。


 この一歩は、自分自身の意志で踏み出さなければならない。誰かに導かれてでもなく、流されるでもなく。


「私は……あなたのことが、わからない。でも、わたし自身のことも……まだ、わかってなかった」


 ぽつりと漏れたその声は、夜の空気に吸い込まれていく。


「だから、いま……すぐには決められない」


 決意だ。


 ようやく、自分が“選べる場所”に立ったことを実感した。


 それでも、今ここで答えを出すわけにはいかない。


 シアはそっと、サイラスに近づくでもなく、距離を取るでもなく、一歩だけ下がった。


「あなたの腕に戻るには……私、自分で歩いてここに来られるようにならないといけない気がするの」


「……」


 サイラスの表情が、ほんの一瞬だけ曇る。


 けれど、彼はなにも言わなかった。求めることも、問いかけることもせず、ただその場に立ち尽くしていた。


 赤銀月が、ふたりの間を照らす。


 風が吹き抜ける。甘い薔薇の香りに、少しだけ湿った冷気が混じっていた。温室の天井には水滴がきらめき、月の光を反射して白く輝く。


 やがて、シアは静かに頭を下げ、背を向けた。


 それが“拒絶”ではないことを、サイラスは理解していた。


 ──それでも、彼女は去るのだ。


 未来を、選ぶために。


 


 足音が遠ざかる。ドレスの裾が、草を払う音がする。


 サイラスは、微動だにせず、その背を見送った。


 心の中で、ただ一つの言葉を繰り返しながら。


 (……どうか、君が“自分”でいられる場所に辿り着けるように)


 


 そしてその夜、温室の中に月の光が差し込んだとき、魔術陣は静かに、光を放ち始めた──。


 花々の間を渡る風に、何かがそっと動き出した気配があった。


 それは、長く閉じられていた扉の向こうで、ようやく小さく鳴らされた鐘の音のように──静かで、けれど確かだった。


 月の光が魔術陣を通してシアの身体に注ぎ込まれると、その光はまるで彼女の輪郭をなぞるように瞬き、やがて静かに収束した。


 眩しさが消えたあとも、何も起こらなかったように見えた。けれど、肌に触れる空気が違っていた。胸の奥の魔力が、安定している。


 シアはそっと、自分の手を見つめた。指の長さも、肌の質感も、もうあの“赤子のもの”ではない。


 ──もう、戻らない。


 これは一時の夢でも、儚い偶然でもない。魔法は完全に解けた。


 シア・スウィンタートンは、再びこの世界に“大人として”立ったのだ。


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