第十四話 願いのありか
朝の光が差し込む窓辺で、シアはきらきらと輝く埃の粒を見つめていた。
柔らかなベッドの上、ふわふわのレースに囲まれたその場所は、まるで夢のように美しい。けれど、そこから出ることは許されていなかった。
(昨日、王女様を追い返したから……)
明らかに、空気が変わっていた。
部屋の外には常時見張りが立ち、ナンシーもニックも不自然なほど丁寧な物腰を崩さない。
シアは知っている。“異物”が特別扱いされるとき、それは守られているのではなく──“見張られている”のだ。
(まるで、金の鳥籠……)
そのときだった。
どん、と何かが床に落ちるような音がした。
(な……なに?)
思わず目を見開くと、部屋の窓際──ぬいぐるみの山の奥から、黒いもふもふした影がのそりと現れた。
「姉さん、来たよ!」
声が聞こえた。猫の口から。あまりに久しぶりで、シアは思わず身を乗り出しそうになる。
アーロが、来てくれたのだ。
「大丈夫、時間は短いけど──とにかく伝えなきゃ。この“変化”は自然現象じゃない。仕組まれた“呪い”だよ」
その言葉を聞いたとたん、シアの心に冷たいものが走った。
「白姫雪の苗……あれは、僕の研究室にはなかった。後から調べたら、盗まれた苗が王都で流通してた。それも、王宮筋から」
王宮筋──それは、すなわち。
「……おそらく、女王陛下の差し金だ」
その名を聞いただけで、シアの背筋が震える。
(まさか……あの人が、私を……?)
だがアーロの説明は、さらに続いた。
「この呪いは特殊な月光──“赤銀月”の力を媒介に、一時的に解除できる。そして、永久に戻るためには“本人の意思”が絶対条件なんだ」
アーロはそこまで言うと、じっとシアを見上げた。問いかけるように、何かを確かめるように。
その瞬間、がちゃり、と扉が開いた。
「魔術生物の侵入を確認しましたがまさか……お嬢様!?」
ニックだった。現れた彼の表情には驚きと困惑が浮かび、手に魔術道具を握っている。シアとアーロの姿を見比べて、思わず声を荒げる。
「……まさか、これをお嬢様が?」
シアは、あわてて身体を震わせ、小さな手をばたつかせる。
「あう! あーうー!」
赤子の声では何も伝わらない。それでも、必死に伝えようとした。
ニックがわずかに眉をひそめる。
「……お嬢様が、庇っていらっしゃる?」
シアは、力いっぱいうなずいた。
ニックは少しの間、黙ってシアを見つめていたが、やがて小さく息をついて、アーロを摘み上げた。
「……この場は預かりといたします。が、監視を厳にさせていただきます」
そして、部屋を出る直前。アーロはシアにアイコンタクトしてみせた。
「……今夜が“その日”だよ、姉さん」
ぱたん、と扉が閉じた。
再び静寂が訪れる。
監視は強化された。
部屋にはメイドが交代で入り、隙間なく目を光らせている。シアは自由を失った。
(“戻る”……って、私は……)
もし元に戻れば、またサイラスと向き合うことになる。
あの冷たい日々。名前すら呼ばれず、笑顔もなく、孤独だった三年間。
(それでも……)
シャーリーでいた間のサイラスは、確かに違っていた。笑い、話し、時には抱きしめてくれた。
(でも、それは“赤ちゃん”だったからじゃないの?)
もし大人に戻ったら、あの人はまた、私を遠ざけるのでは──。
(それでも、私は──)
目を閉じる。胸の奥から、小さなざわめきが生まれる。
(あの人の、隣にいたいって……)
それが、願いなのかどうかはわからない。
でも、それを考えただけで、涙が滲んだ。
(私……)
外の空に、赤銀月が昇りはじめていた。
それは、通常の満月よりも少し赤みがかった、神秘的な光を帯びていた。シアはベビーベッドの縁につかまり、必死にその光を見つめた。
その瞬間、ふと昔の記憶がよみがえる。
結婚したばかりの頃。まだ若く、期待に胸をふくらませてこの館に来た日。
(あのときの私は、どこかで信じてた。時間をかければ、少しずつ距離が縮まるって……)
けれど、現実はそう甘くなかった。話しかけても、目を合わせてもらえない日々。まるで空気のように扱われて、それでも何度も笑顔を作った。
それでも、一度だけ。図書室で本を読んでいたとき、ふいにサイラスが声をかけてきたことがある。
『……それは古代魔法の歴史ですね』
ただそれだけの一言だった。でも、その声にはほんのわずか、興味と温もりがあった気がして。
(あの一言で、また頑張れると思った。……単純だったわね、私)
赤銀月の光が、ゆっくりと部屋に差し込む。カーテンの隙間から伸びた光が、ベビーベッドの縁に落ち、シアの小さな手に触れた。
ほんのり、あたたかい。
それは、まるで過去の彼女が未来の彼女へ差し伸べる、静かな問いかけのようだった。
(それでも、私は……戻りたい? この手で、もう一度扉を開けたいと思ってるの?)
答えは、まだ見えない。
けれど、今のこの感情だけは──嘘じゃない。
シアはそっと目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、サイラスの微笑。
ほんのわずかな時間しか見せてくれなかった、けれど確かにそこにあった、優しさ。
(あの人は、赤ん坊だったシャーリーに笑いかけてくれたように、妻であるシアにも笑いかけてくれるだろうか)
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
赤銀月の光が、静かにベッドを包む。揺れるカーテンの影の中で、シアは自分の小さな胸に手を当てた。
(私は、置いていかれたかったんじゃない。閉じ込められたかったんじゃない)
(……自分で、自分の未来を選びたかったんだ)
この呪いが、私の無意識の願いだというのなら──
(ならば、今度は……“私自身”の意志で、戻るかどうかを決めなきゃ)
赤銀月は問いかけている。
それは、誰かに選ばれる人生ではなく、誰かのために犠牲になる人生でもない。
「私の人生は、私のもの」──それを証明する夜が、近づいていた。