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第十三話 理由

 アンジェラの姿が完全に見えなくなったあとも、サイラスはその場に立ち尽くしていた。薔薇の香りが揺れる中、月光の静けさがふたりを包む。


(あれで本当に、全部終わったの……?)


 シアは、まだ実感が湧かずにいた。たしかにアンジェラは去った。けれど、あの人の背筋は堂々としていて、まるで敗北を認めていないようにも思えた。


(あの王妃が、これで引き下がるとも思えない)


 気が抜けるどころか、不穏さが増していく。


 そのとき、不意にサイラスが歩き出した。庭園の端、小さな東屋の方へと足を向ける。シアを抱いたまま、そのままベンチに腰を下ろした。


 静かだった。


 ただ、風と香りと、どこか胸の奥がひりつくような沈黙。


「……怖かったか」


 ようやくサイラスが口を開いた。


 その低い声に、シアは思わず顔を上げる。赤子の身体のまま、言葉で返すことはできない。ただ、目をそっと見つめ返した。


 サイラスはその瞳を受け止め、かすかに目を伏せる。


「……私も、怖かった」


 不器用に漏らされたその一言に、シアの胸が大きく揺れた。


(うそ……あのサイラスが、そんなふうに)


 それはきっと、サイラス自身の中でも初めて口にする感情だったのかもしれない。


「王女の前ではあのような威勢の良いことを言ったが……シアが帰ってきてくれるかどうか自信がない。あの時彼女は、私は知っているはずだと言った。私は……」


 夜の空は澄み、満月がまだ高く輝いている。


(私も……向き合わなくちゃいけないのかもしれない。この気持ちに、そして……この人に)


 しばらくして、ふたりはゆっくりと館の中へ戻った。

 廊下を歩いていると、シアは見覚えのある部屋の前で足を止められた。


 その部屋の壁には、大きな肖像画がかかっていた。


 そこに描かれているのは、微笑を浮かべるシアと、肩に手を添えるサイラスの姿。公爵夫妻として描かれたあの絵は、政略の象徴でもあり、形式の証でもあったはずだった。


 けれどサイラスは、じっとその絵を見上げながら、ぽつりと呟いた。


「最初に会った時、君は本に夢中で、私のことなんてまるで見ていなかった」


 王立図書館の奥、誰もいない静かな書架の一角。古びた椅子に膝を抱えて座り、君は難解な古代語の書を読みふけっていた。貴族の令嬢とは思えない無防備な姿だったが、ページをめくる指先だけが、妙に丁寧で……。


「そのとき思った。ああ、ここに……この国の誰よりも静かに、深く物を考える娘がいるんだって」


 声には、懐かしさと微かな笑いが混じっていた。


「周囲の誰もが、君は地味で控えめで、目立たないと言っていた。だが……私は一目で心を奪われた」


(……え?)


 シアの中に、思わず戸惑いの波が広がる。


「私の中にはずっとあったんだ。君が隣にいてくれたら、どんなに救われるだろうかと」


 それは、初めて語られる想いだった。形式ではなく、肩書きでもなく、ただ“シア”という一人の人間への感情。


 サイラスは視線を絵からそっと外し、腕の中のシアに目を落とす。


「……シアは、私が唯一自分から求めた妻なんだ」


 それから続いた言葉に、シアは空いた口が塞がらなかった。


「だが、彼女には私への気持ちがないのを、私は最初から知っていた。それでもかまわなかった。ただそばにいてくれればそれでいいと思っていた」


 サイラスの言葉は、まだ続いた。


「だから、無理強いはしなかった。公爵夫人としての務めも、社交も、形式的な催しも──煩わしいと思うものは、できるだけ遠ざけた。彼女が自由でいられるように」


 その言葉に、シアは驚きを隠せなかった。


「けれど……何が間違っていたのだろうな」


 ぽつりとそう呟くように、サイラスは目を伏せた。声は静かで、けれど痛みを滲ませていた。


 その夜、部屋に戻ったシアは、天蓋のかかったベビーベッドの中でひとり、目を開けていた。


(……なんなの、それ……)


 混乱と驚きで、思考が渦を巻いていた。


(あの人、ずっと、私に何かをしてくれなかったんじゃなくて……しないようにしてたの? 私のために?)


(ちょっと……意味がわからない。整理しなきゃ)


 ベッドの隣に置かれたぬいぐるみに視線を向ける。丸い瞳が、何かを見通すように静かにこちらを見ていた。


(でも、言ってた……“唯一自分から求めた妻”って。それって、あの人なりの……)


 小さな手が、胸の上できゅっと握られる。


 どくん、どくん、と鼓動の音がやけに耳についた。いつのまにか顔が熱くなっている。


(……やだ。泣きそうになってる。なにこれ)


 自分の気持ちすらうまく掴めない。でも、それでも。


(もう一度だけ……ちゃんと、話しすべきなのかもしれない。私は、思い込んでいただけなのかな)


 月光がカーテンの隙間から差し込み、シアの額を静かに照らしていた。

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