第十二話 バラ庭園
その微笑みを、アンジェラは確かに見ていた。
……ということに、シアは気づいていた。
ほんの一瞬。サイラスが誰にも気づかれないように見せた、小さな笑み。
それを、アンジェラが見逃すはずがない。
(見てた……あの人、見てた。サイラスの顔を)
アンジェラの睫毛がかすかに揺れた。だが笑顔は崩れない。
「まあ……本当に、仲睦まじくていらっしゃるのね」
その言葉に、シアは無意識に身を強張らせた。
(なに、それ……皮肉? それとも本気で言ってるの?)
その奥に棘があるのを、シアは感じ取っていた。
「陛下と王妃陛下は、閣下の未来を案じておいでです。特に王妃陛下は“アイリスの血”が途切れることを深く憂いておられますの」
「ありがたい忠言です」
サイラスは表情一つ変えず、淡々と返す。
でも、シアにはわかった。
(怒ってる……いや、怒ってはいないけど……なんだろう、心の中に、すごく冷たい波がある)
アンジェラは椅子の背に身を預けながら、静かに視線をシアへと向けてきた。
(え……見てる。なんでこっちを)
その視線の重さに、シアはぬいぐるみを抱きしめたまま、目だけで応戦する。
(この人、ただの王女じゃない。目が、全部見透かそうとしてる)
笑っているのに、少しも優しくない笑顔だった。
「ご挨拶も済みましたし、邸内を少し拝見してもよろしいかしら?」
その申し出に、サイラスがすぐ応じる。
「案内いたします。ニック」
執事が音もなく現れ、扉を開ける。
「そちらの廊下の奥、応接室とは別に、薔薇の回廊と呼ばれる庭園がございます。王女殿下にはきっとお楽しみいただけるかと」
「ありがとう。では、ご案内いただきましょう」
アンジェラが立ち上がり、スカートのすそを整えたあと、シアをちらりと見る。
「そのお嬢さんも、ご一緒かしら?」
「この子は、私の娘です。どこへ行くにも共にあります」
(……えっ)
シアはぎょっとしてサイラスを見上げた。 さすがにそれは言いすぎでは!? と言いたくても、言葉にはならない。
「まあ……素晴らしいご信頼ですこと」
アンジェラの笑顔は、少しだけ目の奥が冷たくなっていた。
(やっぱり、この人……ただじゃ済まなそう)
薔薇の回廊へと向かう足音が、静かに廊下へ響き始めた。
その響きが、なぜかシアの胸の奥に、不穏な余韻を残していた。
薔薇の回廊は、赤と白の花々が壁をなすように咲き誇り、月光の差す静謐な空間だった。だが、どこか冷たい風が通り抜けるような気配もあった。
サイラスが先に立ち、アンジェラがゆったりとその隣を歩く。
(ここで、なにか言う気なのかな)
そんな予感は、すぐに的中した。
「サイラス・スウィンタートン閣下。私は、誠意をもってこの国にまいりました。王妃陛下のご意思もございます。ですが、私は政略のために嫁ぐ気はありません。あなたが、私を“選ぶ”ならば……それなりの誠意を、今ここでお示しください」
薔薇の香りの中、アンジェラの声音は澄んでいた。
サイラスは立ち止まり、わずかに視線を伏せた。そして――シアを軽く抱き直し、きっぱりと口を開いた。
「申し訳ありませんが、王女殿下。私は、すでに結婚しております」
風が、薔薇の花びらをさらう。
「……ご冗談でしょう? その“妻”とやらは、失踪されたと伺っておりますが」
アンジェラの声が、かすかに震えた。
「私は真剣です。確かに、妻は今この場にいません。ですが、無事です。姿を現していないだけで、私は、必ず彼女を取り戻します」
(サイラス……)
シアの胸がきゅっと締めつけられる。サイラスの腕の中が、ほんの少しだけあたたかくなった気がした。
「……残念ですわ。王妃陛下に、どう申し上げるべきか」
「その点は、私から王に説明します」
沈黙。
そして、アンジェラはゆっくりと一礼した。
「それでは、この場を辞させていただきますわ」
くるりと踵を返し、彼女は静かに回廊を去っていった。背筋は最後まで、女王のように真っすぐだった。
その後ろ姿が消えてから、サイラスは深く息を吐いた。
腕の中のシアも、ようやく安堵の息を漏らす。
(……断った。ほんとうに、あの人を追い返した)
その事実が、心の奥にゆっくりと染み込んでいく。
(あの人、ちゃんと……言った。私が妻だって)
心がざわめく。こんな形で聞きたかったわけじゃないのに。けれど、確かに彼は誰の前でもそう言った。
不安も怒りも混じったまま、それでもほんの少しだけ、胸があたたかくなる。
サイラスは、黙ったまま庭園の奥へと歩き出す。夜風が、薔薇の香りを一層強く漂わせた。
シアはその腕の中で、小さく顔を上げた。
(どうしたらいいの)
その問いに答えるように、サイラスはふいに視線を落とし、ほんのわずか、目を細めて微笑んだ。
言葉はなかった。
それでも、シアには十分だった。
まるで、ほんの少しだけ、世界が自分の味方をしてくれたような気がした。