第十話 アンジェラ
王宮の奥、華やかでありながら冷たい空気の漂う謁見の間。その日、王妃マティルダは紅茶の香りが漂う午後の陽光のもと、静かに王に語りかけていた。
「陛下。あのような騒動を起こしたスウィンタートン公爵には、しかるべき責任を取らせるべきです」
マティルダの唇はやわらかく微笑んでいるが、その瞳の奥は計算に満ちていた。
「王妃よ、サイラスの忠誠は疑いようもない。今回の件も妻を思うがゆえの暴走であろう」
王の声には、諦念と一抹の哀しみが滲んでいた。感情を表に出すことの少ない王ではあるが、サイラスの過去を思えば無理もない。
「だが、確かに公爵家の振る舞いとしては好ましいものではなかった」
その口調は静かだったが、王としての責任感と重圧がにじむ重みをもっていた。
「だからこそ、ですわ。彼には安定した未来を。失踪した妻に代わって、感情に振り回されぬ、賢く、誠実な妻を与えるべきです」
マティルダが軽く手を打つと、奥から一人の女性が現れた。
「紹介いたしますわ。アンジェラ・G・アイリス殿下。礼儀、容姿、家柄、どれをとっても申し分ありません」
淡い金髪に深紅のドレスをまとったその王女は、恭しく礼をすると涼しげな笑みを浮かべた。
「スウィンタートン殿の心を癒やすことができるのは、私のような存在かと存じます」
その声音には、確かな自信と、計算された優雅さがあった。
王は重々しく頷いた。
「……サイラスが拒むようであれば、説得する手立ても考えねばなるまいな」
マティルダは満足げに頷く。
「すべては、王国、そしてアイリスとの同盟の安定のために」
アンジェラは微笑を絶やさぬまま、窓の外へ視線を送った。
その眼差しの先に、未だ戻らぬ“公爵夫人”の影はなかった。
その頃、スウィンタートン邸では――。
ふたたび赤ん坊の姿へと戻ったシアは、柔らかな揺りかごの中で目を覚ました。 夜の再会を思い返しながら、小さな手を握りしめる。
(言いすぎたかもしれない……)
胸の奥にざらりとした不安が広がっていた。怒りをこらえながら伝えた言葉たちが、サイラスをどう傷つけたのか、自分でも正直わからない。
ごくり、と喉が鳴ったとき。 扉がノックされる音もなく、静かに開いた。
「……おはよう、シャーリー」
サイラスだった。
いつもの冷ややかな印象はなく、どこか柔らかい表情を浮かべている。
シアが目を瞬かせる間に、彼は優雅に歩み寄り、そっとシアを抱き上げた。
「あぐ?」
思わず小さな声が漏れる。
その声に、サイラスは目を細めてにこりと微笑んだ。
そのまま、何の説明もなく廊下を進み、執務室へと向かっていく。
(なに? なにこれ、どういうつもり……?)
椅子に腰を下ろしたサイラスは、まるで当然のようにシアを膝に乗せ、そのまま執務机に向かった。
ペンを走らせ、書類をめくり、次々に判を押していく。
(え、まさかこのまま仕事する気……!?)
驚きと困惑でいっぱいのシアをよそに、サイラスは淡々と業務をこなしていく。
そこへ執事のニックがやってきた。
「……さすがにそれはどうかと。お嬢様の体にもよろしくありません」
サイラスは一瞬、返答に詰まったように黙り込んだ。 何か言い訳を考えているらしい。
「この子がここにいたいと望んだ」
「赤子にそこまでの意志表示は……いえ、なんでもありません」
呆れ混じりの溜息を吐きながら、ニックは退出していった。
その直前、シアはサイラスの横顔をじっと見つめていた。
(なんなの……この状況……。怒ってないの? 本当に?)
ペンを走らせながらも、サイラスは時折、膝の上のシアの体を片手でそっと支えたり、小さな指に自分の指先を重ねてきたりと、さりげない仕草を見せていた。
(やさしい……けど、よくわからない……。三年も何も言ってくれなかったくせに)
胸の奥に残るとげのような感情が、完全には消えていない。
だけどその反面、こうして抱きしめられることに安心してしまっている自分が、腹立たしくて悔しかった。
(もう……私、どうすればいいのよ)
そう思いながらも、シアはじっとサイラスの横顔を見つめ続けた。
真剣な眼差しで書類に目を通し、黙々と筆を走らせる姿。
まるでそこに“赤子”が乗っていることなど当然のことかのような、無言の自然さ。
(……もしかして、この人。想定以上に、気持ちを言葉に出すのが下手……?)
ふと、そんな予感が胸をよぎった。 
(……まさか、ね)
小さく身じろぎすると、サイラスが一瞥をくれた。そしてまたすぐに、書類に視線を戻す。
どこまでも落ち着き払っているようで、逆に何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
そこへ、執務室の扉がノックされた。
「副長、王宮より急ぎの文書です」
部下が差し出したそれを受け取ったサイラスは、封を切り、しばし黙読した。
静かな沈黙。
だが次の瞬間、彼の指がわずかに震えた。
シアが見上げると、サイラスの表情は無感情の仮面をまとっていた。
彼は低く呟く。
「……アンジェラ・G・アイリス殿下が、王妃の命により、我が邸に“訪問”されるそうだ」