第一話 冷酷な夫
――私の夫は、私に関心がない。
「ご勝手に、と、伝えたはずですが」
サイラス・スウィンタートン卿は第一騎士団の『氷の副長』と呼ばれている。スウィンタートン公爵家当主であり、この国随一の氷魔法と細剣の使い手。
その上、とんでもない美貌の持ち主で、星のように輝く銀髪と、ミステリアスな深い青の瞳は宮廷女性たちの心を掴んで離さない。整った鼻筋と口元はギリシャ神話の神々のよう。鋭い眼光は敵とみなした相手に容赦なく残忍で、しかしその冷酷さすら彼の人気の元であった。
「私を煩わせないでいただけますか、シア」
しかしその美しさも何もかも全て、シアにとっては「恐ろしさ」にしか見えない。
シアはその言葉に震えながら答えた。
「……はい、」
ここ、サイラス・スウィンタートン卿の執務室はその性格を表す通り物の少ないシンプルな空間だ。スウィンタートン公爵邸の広大な庭を見渡すことのできる最も良い位置にしつらえられた場所。だが、シアが入ることを許されることはほとんどない。
それどころか、シアはこの家に嫁いでもう3年になるが、夫のはずのサイラスとまともに意思疎通ができた記憶はない。
やっぱりこうか。シアは視線を落として夫の執務室を出た。
スウィンタートン公爵邸の廊下には毛足の長く柔らかい絨毯が敷かれている。それらはまるで一歩一歩に絡みつき、シアの足取りを石像のように重くした。
今日は、双子の弟が久々に来ないかと言うので、出かける許可を取りに来ただけなのに。
一応、妻として夫に一言、伝えておこうと思っただけだったのに。
氷の副長は、どこまでも妻のシアに無関心で、煩わしいとすら思っているのだ。
(「だいたい、ご勝手にって、いつ言ってたっていうのよ」)
まさかとは思うが、3年前、シアがこの家にやってきた瞬間に放った
『あなたは私の妻ですが、あなたに何か期待つもりはありません。どうぞご勝手になさってください』
というあの冷たい一言のことを言っているのだろうか。まさかまさか。
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「ほんと、何を考えているのか、まったく分からないのよ」
ぽすん、と、シアは古ぼけたソファに沈み込んだ。何だかわからない液体をこぼした跡もあり、穴も空いていて、クッション性もいまいち失われている。だがしかし、シアにとってこのソファは、スウィンタートン家のふかふか超高級ソファよりもずっと居心地が良いのだった。
「僕に聞かれたって、全然分からないよ。姉さんのご夫君だろう?」
3年ぶりに会った弟、アーロは全く以前と変わらない様子でシアを迎え入れてくれた。弟アーロは魔道具の研究者だ。シアを迎え入れたこの施設だってまともに寝るところもないアーロの研究施設だった。
なぜならもう、シアたちの実家、エーメリー子爵家は3年前に滅んでしまったから。
「『夫』だなんて。この3年、ほとんど会話らしい会話もできてないのよ」
帰ってくるなり愚痴全開の姉の様子をみて、話を聴きながら研究を進めることにしたらしい。こういった弟の態度には慣れっこなシアは、彼が研究を始めながらも耳はこちらに傾けてくれることをよく知っている。
「同じ政略結婚だったというのに、父さんと母さんはどうやって仲良くなっていたのかしら」
「シア姉さんは色々と特殊だから。父さんと母さんのようにはいかないだろうさ」
弟は肩をすくめながら、なにか薬品を混ぜ合わせている。
研究に夢中でシアの話なんてまともに聞く気がないのだろう。
シアとアーロは、よく似た一卵性双生児。男女の一卵性双生児は本来珍しいけれど、これは魔力によるもので、貴族にはよくある話だ。
「まぁほんと何度も言ってるけど、僕から見てもよくわからないよ。姉さんを妻にほしいって突然来たと思えば、館に放置だもの」
「私、すっかり自信をなくしてしまったわ。このままではお世継ぎを作ることだって」
そう言いかければ、弟の方からパリンと何かが割れる音がした。
「アーロ、散らかすばかりではなく、きちんと片付けなくっては」
見ると、アーロの手元の机に、割れたフラスコグラスが転がっていた。アーロは研究者だと言うのに、すぐに割るしすぐに爆発する。片付けるシアがいなくなった後、彼がそれらをどうしていたのかは、この研究室の惨状を見ればすぐにわかることだった。
「そんな場合じゃないだろう姉さん。まさかとは思うし、実の姉のそーゆー話ってものすごく聞きたくないけれど、まさか閨まで別だって言うんじゃないだろう?」
「あら、それは一緒よ、アーロ」
シアがそう答えると、弟はホッと息をついた。
「よ、よかったよ……」
「でもサイラス様、執務室でお休みになるのよ。全然寝室に帰ってこないの」
「それは別っていうんじゃないか」
アーロは眉をしかめてみせる。
「まさか3年間1度も?」
「3年間、1度もよ。アーロ、掃除道具はこっちだったかしら?」
シアは肩をすくめて、ソファから飛び降りた。仕方がない、弟のため久々に片づけをしてあげようじゃないか。
「姉さん、子供が作れないって家の中の立場とか、まずいんじゃ」
「ええ、もちろん。義家族がいなくて助かったわ……その代わり、メイドや執事はみんなわたしを女主人として認めてくれないみたいだけれど」
「うわー……まじ?」
シアは、部屋の隅にあった未使用の雑巾を見つけ出す。たしかこれは、シアが結婚前に置いて行ったものの一部だ。大量につくっておいてあげたつもりだったけれど、一体どこへやったのやら。
「あら? この花……」
ふわ、とかぎ慣れた香りを感じて、シアは視線を変えた。白いかわいらしい花が花瓶に生けてあった。
「(北の大陸の月光草だわ! たしかこの間、本で読んだ……)」
シアは思わず白い花に手を伸ばす。花弁は小さく目立たない野草の一種だが、甘い香りの強い花だ。
「(……かわいい……)」
つん、つつこうとしたそのとたん、その花はまぶしく光った。
「――え?」
「姉さん!」
アーロの叫び声がする。振り返ろうとするも、シアの意識は一瞬で崩れおちた。
「アーロ……」
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は、と気付くと、シアは寝心地の悪いソファに寝かされていた。
アーロの研究室のソファだ、そう、さっきまでシアが座っていた。でもこんなに脚を座ってもなお余裕のあるほどこのソファは大きかっただろうか。
「ん……」
シアが目を覚ましたのに気付いたのか、アーロのペリドットの瞳がシアの顔を覗き込んできた。
「ねえさん……? 姉さんだよね?」
シアは視点をようやく弟に合わせる。
「あーお……?」
喉から飛び出た声は、なんだか聞きなれない声だった。不思議に思いながらも、上半身を起こそうとして、こてんと転がる。
「あ〜う?(なんだったのかしら?)」
「いや、常識からしてありえないんだけど。状況からして、そうとしか考えられなくて……もしそうだとしたら……ああ〜やっぱり言葉、喋れないよねぇ」
「う?」
アーロがシアの前に手鏡を差し出す。そこに映っていたのは、見知らぬ赤ん坊だった。
まるまるぷっくらした頬や腕、2等身と見間違えるほどの小さな体。髪はまだ短くよく見えないが、シアたちの白銀によく似ているように見える。
そして、シアと同じ薄赤の瞳。
本当に、ずいぶんシアに似ている。シアたちに妹がいたらこんな感じかしら、なんて。
「片手を上げてみて……?」
弟に言われて、はっと鏡を見る。関節がうまく動かず、肘から先しか上に上がらなかったが、シアが右手をあげれば、鏡の中の赤子も同じ手をあげる。シアが左手を上げれば、赤子も左手をあげた。
「あう!?(えええ!?)」
認めがたいことだが、もしかして……。
ギギギ、とシアは首を弟の方向に向けた。
私……、赤ん坊になっちゃったの!?