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「どうぞ。」
穏やかな優しい声が聞こえて、重厚な扉が開いていく。色とりどりの綺麗な草花に彩られたテラスには、穏やかな光が差し込んでいた。
たくさんの色の中に一際輝くのは、シンプルだが細やかな刺繍の施された真っ白い生地の美しいドレスだった。
可愛らしい色合いで盛られたアフタヌーンティーセットを前に、持ち上げていたティーカップを上品に置いて、金の柔らかい長髪の女性が振り返った。
ネルは一瞬、息ができなくなった。
『ママ………!?』
それは〝音葉〟の母親にそっくりだった。
ネルは首を振り、現実を見つめ直した。
『違う。あの人はネルの母親。
そして、わたしは……ネル。』
ネルは走っていって、フィリアに抱きついた。
「お母様!お久しぶりです。」
「久しぶりね、わたしの可愛いネル。」
フィリアが優しくネルの頭を撫でる。
ツェンが静かに歩み寄って、膝に床をついた。
「お初にお目にかかります。先日ネル様の専属騎士に就任いたしました、ツェンと申します。ご挨拶が遅れ申し訳ございませんでした。」
「まあ、とんでもございませんわ。こちらこそお呼びするのが遅くなり、失礼いたしました。」
フィリアは立ち上がると、ドレスの裾を持ちあげ、淑やかに頭を下げた。所作があまりに美しく、見惚れてしまう。
「初めまして。ネルの母にして第一皇后、フィリア・アイリスと申します。貴方のお母様と同じように、気楽に接してください。」
『『とりあえず、疑われている訳ではなさそう』』
ネルとツェンはひとまず胸を撫で下ろした。
「少し2人とお話ししたいの、下がってくれる?」
そこで、フィリアが使用人たちに声をかけた。2人で目配せをする。
「フィリア様。まだ就任したばかりのボクだけですと警備も不安ですし、今日は皆さまにもいていただいた方がいいかと。」
「そうです、お母様。お兄様が就任したばかりで時政も不安定ですし、ツェンだけでは…」
ネルたちはエクスと共に、この場を乗り切るためにいくつか作戦を立てていた。
〝その1、使用人を下がらせないこと。〟
優しいフィリアはもし入れ替わりを指摘するとしたら、使用人たちを下がらせて3人の時に話すだろう。だからそれを逆手に取って、なるべく3人にならないようにするのだ。
「ふふ、優しいのね。安心していいわ、こう見えてわたしもネルも強いのよ?ねえ、ネル。」
しかし、フィリアは優しくそう答えた。
「でも、お母様……」
「いいわ。ほら、下がってちょうだい。」
フィリアはそう言って、使用人たちを下がらせてしまった。
『お母様、物腰は柔らかいのに、強引に押し通すところがあるんだよね……』
ツェンたちは泣く泣く、使用人を見送る。作戦1は失敗だ。
「お母様、あのね!ツェンってば甘いものが大嫌いらしいのよ。あんなに美味しいものが食べられないなんて、人生損してると思いませんか?
それからね、小さい妹と弟が1人ずついて、3人兄弟の長男なんですって。両親はもういなくて、2人の兄弟を養うために……」
〝その2、こちらから話題を振ること。〟
フィリアが話を切り出せないほど、こちらから話し続けること。その際、ツェンにネルとはかけ離れたイメージを植え付けられるとなお良し。
ネルは3人で考えたツェンという人間のストーリーを、必死に話し続けた。
「あらあら。ツェンってば、そうなのね。
ところで…」
しかし、フィリアは柔らかくもしっかりと、話題を強引に切り込んできた。
「ツェンは、ネルの秘密を聞いた?」
『ネルの秘密?入れ替わりのこと……?それともなにか他の……』
最終手段〝その3、テラスに大量の虫を放ち、お茶会を強制終了させる。〟を発動させるかどうか。ツェンを伺い見ると、大丈夫というように微笑み返された。
「はい。伺いました。」
「そうなのね。ふふ、やっぱり。ネルってば、本当にツェンのことを信頼しているのね。この子ってばすっごく可愛いから、驚いたでしょう。」
『あっ、もしかして。』ネルは、はたと気がついた。『ネルが、男の子なのに、女の子のフリをしているという話……。』
「少し、年寄りの昔話に付き合ってくれるかしら。」
そう言ってフィリアは穏やかに話し始めた。
アイリス王国は海に面することで食糧資源に富み、貿易に栄え、強大な国家として何代にもわたって栄光を極めていた。自国の貴族だけでなく、周りの小国家からも次々と后が嫁いできて、王の子息が10を降ることはなかった。そして、各々の母国の命運を背負った苛烈な後継者争いが耐えなかった。
皇位継承権は王の男児であれば誰にでも等しく与えられていた。とある場合を除いて。
第一皇后に男児が生まれた場合だ。アイリス王国では第一皇后に他国ではなく、自国の貴族の娘を据えていて、そこに男児が生まれたら無条件で即位させるのだった。
しかし、第一皇后に生まれた男児がこれまで成人を迎えられたことは一度もなかった。すぐに政敵に殺されてしまうからだ。
フィリアが産まれたばかりの赤子を抱き止め、それが男児と分かったとき、第一皇后としては誇り、喜ぶべきだった。しかし、ただの一人の母親として、胸に抱いた小さな儚い命が、何にも邪魔されずに光を浴びてすくすくと成長して、元気に育っていく姿をどうしようもなく願ってしまった。
生きていてくれたら、ただそれだけでいい。そんなちっぽけな願いすら、届かないのだろうか。
その場で、ネルを女の子として育てていくことに決めた。秘密を知っているのは少なければ少ないほどいい。乳母であるエクスの母とエクス、そしてフィリアを除いて、出産に関わった全ての人々の記憶をルルに改竄してもらった。
幸いなことにネルはとても可愛かったので、オムツさえ履いてしまえば誰にも男児だと疑われなかった。
そういう訳で秘密を知っているのは4人。これまでたったの4人で、ずっとネルを守ってきたのだった。
『ツェンってそんな大変な立場だったの…?
入れ替わりがバレたら死ぬ状況でこんなに能天気なのは、元々男ってことがバレたら死ぬ状況で生きてきたからなんだ。』
「ネルにはたくさん、辛い思いや苦しい思いをさせてきたかもしれないわ。でも、私はあの日の自分の選択を後悔したことは一度もない。」
フィリアは、真っ直ぐにツェンを見据えた。
「生きて。ただ、生きていてくれたら、それだけでいいのよ。私の一生に一つだけの大切な願い事を、聞き届けてくれるかしら。」
ツェンはぐっと唇をかみしめて、それから片膝を地面について頭を深く下げた。
「誓います。必ず、ネルを護ると。」
それから、ぐっと拳を握りしめ、続けた。
「ただ、不躾ながら一言ばかり申し上げることをお許しください。ネル姫は、フィリア様に感謝していますよ。ここまで守ってくださったことも、今日という日があることも……」
ツェンは少し言葉を区切って、それから言った。
「貴方の子に生まれて幸せだと、そう話してくれましたから。」
「ふふ、それ以上に嬉しい言葉はないわね。」
瞳を微かに濡らして、フィリアは笑った。
『ツェン……』
ネルは2人の様子に、胸を打たれていた。そして告げる。
「お母様、私も。必ずやこのいただいた命、守り抜いてみせますから。」
『入れ替わりがバレてツェンが死んだら、フィリア様はすごく悲しむだろう。ツェンにとってそれは、何より辛いことに違いない。』
フィリアはそれを聞いて、おかしそうに笑った。
「なーに、貴方まで。ふふ、きっとそうしてちょうだいね。」
お茶会はそうして無事に終わった。ツェンと共に、テラスを後にする。
「ツェン!」フィリアがその背中に向かって、叫ぶ。「自分で決めたことなら、必ず貫きなさい。」
フィリアの言葉に、ツェンは微笑んだ。
「はぁあああああ……」
「ネル、よくやったね!さすが、完璧だったよ。」
『なんとか無事に終わった……』
ネルは長い長い、ため息をついた。とてつもないプレッシャーだった。それに、お姫様モードはなかなかに疲れる。
「そういえば、フィリア様と最後、何を話していたの?」
ツェンは少し間を空けてから「秘密だよ。」と笑った。
そんな2人を、観察する影が1つ。
「怪しい……。あの子、やっぱり……」