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「嬉しそうですね。」
「人生で初めてお前に勝ったんだ。嬉しいに決まってるでしょ。」
エクスは差し伸べられた手を取って立ち上がる。すると、ツェンはにやぁと悪戯な笑顔を浮かべる。
「なんですか?」
「まさか、お前がネルの応援にあんなに動揺するなんてな」
『あれが応援に聞こえるなんて、どうかしてる』とエクスは呆れながら「言葉ではなく、音に驚いただけですよ。急に叫ぶんですから。」
「ふ〜ん。」
ツェンが分かったような分かってないような返事をする。そしてネルに気がつき、子犬のように駆けていった。
「ネル!ボクの活躍見てた?」
ネルはこくりと頷いた。エクスを認めた途端、慌ててこちらに駆け寄ってくる。
「あの……、ごめん、なさい。」
目も合わせないネルに呆れながらも、エクスはふっと息をついた。
「いい。おかげで助かった。」
それだけ言って、その場を立ち去る。
『コイツが言葉だけでなく、ちゃんとアイツを大切に思っていることも分かったし。ひとまず、認めてやるか。』
その背中を、ネルは呆けて見ていた。一方ツェンは、2人の様子を見て、感心している。
『ネルがエクスを応援して、それにエクスがあんなに動揺するなんて。ボクの知らない間に随分と仲良くなったんだな。』
が、どこか胸がもや……とする。
『なんだろう、この気持ち。
子どもが巣立った母親の気持ちか?でもネルもエクスもボクの子どもじゃないし。』
考えてみるも、結局よく分からないままだった。
こうして無事、ネルは姫として、ツェンは騎士としての生活が始まった。
お姫様の生活は、豪華で煌びやかだったが、一つ一つに格式があった。この世界の一般常識すら知らないネルにとっては、日常生活すら非日常だった。
食事すらままならないのだ。
細長い金縁のテーブルに、朝からホテルのコース料理級のご飯がずらりと並んでいる。使用人たちが一列に並んで監視されていて、食べても食べても新しいものが出てくる。
元々のネルは大食いだったらしく、朝ごはんを食べる習慣すらなく少食のネルが気持ち悪くなるまで食べても、「今日は減りが悪いですね。体調がお悪いのでしょうか……」と心配される。
おまけに甘党でスイーツが大好きだった元ネルのために、お食事の後にはたくさんのデザートが出てくる始末だ。辛党で甘いものが苦手なネルには大変な苦行だった。真っ青な顔になって食堂から出てくることも度々であった。
もちろん、大変なのは食事だけではなかった。朝のお祈り、刺繍や手工業、乗馬に詩の朗読、夕方の祈り……。毎日、各分野の専門家の家庭教師からの授業の時間もあった。知らないことばかりで、タダでさえ勉強が苦手なネルの頭からぷすぷすと黒煙が噴き出すのだ。
「こんなに何も知らないとは……。元のネルは何かと優秀でしたし、突然の変化に家庭教師も怪しむのではないでしょうか。」
エクスの言葉に、ツェンが苦く笑う。
「う〜ん、確かにそうだね。どうしようか。
……そうだ。全員気に入らないと言って辞めさせてしまおうよ!」
『は??』
「代わりの家庭教師はどうします?新しい者を探しますか。」
『エクスもなんで、このとんでもない案を普通に受け入れてるの。』
「ネルの技量だと、誰が家庭教師をやったって怪しく思うだろうからね……。」
ネルは段々と、居た堪れなくなってくる。ツェンが思いついた、というように言った。
「うん、ボクとエクスでやろう。」
「ああ、それはいいかもしれませんね。
しごき甲斐がありそうです。」
エクスがこちらを見て、にこりと笑った。相変わらず目が笑っていない。きっと、正式にいじめる理由ができたと思って喜んでいるに違いなかった。
かくして、ネルは心を痛めながらも一流の家庭教師を全員クビにして、ツェンとエクスを家庭教師に据えることになった。しかしエクスは意外にも、剣術や乗馬などの運動系以外はまるで駄目な脳筋タイプらしい。
そういう訳で、ほぼ全ての科目をツェンからマンツーマンで教わることになったのだった。
ネルが家庭教師を全員辞めさせて、新しく登用した騎士に代わりをさせている、という話は、噂好きが多い王宮に瞬く間に広がっていった。
一体どんな騎士なのかしらと覗きに来たメイドたちが、ツェンの容姿を見て黄色い声を上げることも少なくなかった。
「カワイイは飽きるほど言われたけど、カッコイイって騒がれたことはなかったから新鮮だよ。悪い気はしないね。」
ツェンは日々、とても機嫌が良さそうだった。
「楽しそうでなによりです。」とエクスが言う。それからネルの顔をじっと見て言った。「ネルも男装したら同じようになるんですかね。」
「わたしだと、そうはならないんじゃないかな。ツェンは……、オーラがあるから。」
「確かに。貴方は庶民感が溢れ出てますよね。」
「ネルは小動物って感じだよね。」
『ツェンのはいいとして、エクスのはただの悪口なんだよね。でも、ツェンから溢れ出るキラキラしたオーラはなんだろう。対してわたしのこの庶民感……。』
ツェンと共に生き延びるためには、オーラごと変えないといけないかもしれない。そんなことができるのか、先行きが不安である。
コンコン、と部屋がノックされる。どうぞと告げると、執事が入ってきて頭を下げた。
「第一皇后フィリア様が、ネル様にお会いしたいとのことです。」
『第一皇后が!?』
「次の三日月の日、ぜひとも最近噂のイケメン騎士様を連れてお二人でお茶の時間にどうぞ、と。」
執事が下がっていく。
『第一皇后が、いったい何の用だろう。』
「お母様……。」
ツェンが呟く。それから自分の言葉にハッとして、慌てて続ける。
「第一皇后っていうのは、ネルの実のお母様なんだ。とても愛情深くて、気立もよく、国中の誰もが振り返るほどの美人。皇帝の寵愛も一心に受けているのに奢りもしない。素晴らしい方なんだよ!!」
ツェンが得意げにそう言った。
『ネルの実の母親!?それって……』ネルは思わず呟いた。「バレずに終わらせられるかな……」
「もう、バレてるんじゃないでしょうか。」
「え?」
「ネルとツェンが名指しで呼ばれているのがその証拠です。」
エクスの指摘に、沈黙が降りた。
「で、でも。フィリア様のことだから心配して、愛娘の新しい騎士をこの目で見たいと思ったのかも。」
「それもなきにしもあらずですが、疑っていて確認するために呼んだ可能性も……」
エクスはネルとツェンの縋るような視線に気がつくと、言葉を区切るように咳払いをした。
「一番はバレないことが大切ですが、明言されなければいいんですよ。仮にバレたとしても、名前を呼ばれなければなんとかなります。
色々なケースを想定して、プランを練っておきましょう。」
「なんだか、秘密任務っぽくなってきてワクワクするね!」
ツェンは一転して目を輝かせた。
「ですが!一番はバレないこと、そして疑われていたとしてもそれを払拭するほどに演じ切ることです。幸いなことに、あと一週間あります。」
エクスはネルをビシッと指差した。
「基本教養を身につけるのはもちろんのこと、その庶民感を捨てて、もっとネルらしく振る舞えるようになってください。」
ネルはエクスの言葉をストレートに食らう。エクスは続いてツェンを指差す。
「貴方はその溢れ出るオーラをなんとかしてください。」
「うん、頑張るよ。」
ツェンがニコッと笑うと、ペカーッと後光が見えた。対してネルからは、どよんとした空気が漂う。
「ほら、言った側から出てますよ。」
かくして地獄の猛特訓が始まった。
そしてついに、お茶会の日がやってきた。
ネルはこの日のためにお茶会のマナーだけでなく、ネルらしく〝偉そうに〟〝自信満々に〟振る舞うよう仕込まれてきていた。
背筋を伸ばして、表情は溌剌とした笑顔。
「うん、少しはお姫様らしくなったね。ちょっと無理してる感じもあるけど……。」
ツェンがネルの様子を見て、優しく微笑んだ。その笑顔は、ぴかぴか輝いている。ツェンのオーラは……、抑えきれなかったようだった。
しかし、できることは全てやった。あとは、やれるだけやってみよう。
扉をノックする。どうぞという声が聞こえて、扉が開いていく。