朝日姫
母・大政所の具合が悪いと聞いた朝日姫は駿府城から聚楽第へ向かいました。
輿に揺れていると、思い出すのです。
徳川家康の元へ嫁いだ日のことを………。
「佐治日向守様……。」
そっと、前夫の名前を呼びました。
急に兄・秀吉に呼ばれて大坂城へ入ってから、もう二度と会うことが出来なくなった前夫です。
朝日姫は徳川家康にとって「居ても居なくても良い妻」でした。
その寵愛は側室たちに注がれており、徳川家康が朝日姫の元を訪れたのは婚儀の日の夜だけでした。
「にいさ……なんで、わっちを離縁させたのやか。
わっちは佐治日向守様が良かっただわ。
駿府へなんやら帰りとうない…… 帰りとうない……。」
兄・秀吉は、妹・朝日姫を徳川家康に嫁がせることによって、徳川家康を上洛させて謁見させることために夫が居る妹を離縁させて嫁がせたのです。
離縁を夫・佐治日向守は断れません。
「私がこの命令を拒んだならば、それは天下人民の苦しみを思わないのと同じ。しかし、妻を取り返されて、その後、どうして、他人に顔向けできようか」と言いました。
そして、佐治日向守は命を絶ちました。
もう、どんなに会いたくても会えないのです。
絶望のまま朝日姫は駿府城へ行きました。
徳川家康とは形式上は夫婦でしたが、人質であることには変わりませんでした。
聚楽第に着き、母に会いました。
涙しか出ませんでした。
「おっかぁ……わっちだで、朝日だわ。」
「朝日…… ほんに、朝日だわ。」
「おっか…………。」
二人共に泣いていました。
その日から朝日姫は聚楽第に住みました。
朝日姫に会ってから、大政所は回復しました。
それでも、朝日姫は駿府城へは帰りませんでした。
駿府城へ帰らぬままに天正17年(1589年)11月には病気に罹りました。
最期に朝日姫の手を取ったのは、母の大政所でした。
母に看取られて最期を迎えたのです。
「朝日……朝日……逝くな。
子が親より早う……逝くな。
逝くでないがや。……朝日……。」
「おっかぁ……わっちを待って……佐治日向守様が、待って……。
佐治日向守様、わっち……お傍に……。」
「朝日……。朝日……。」
そして、そのまま、天正18年(1590年)1月14日、亡くなりました。享年48歳でした。
その人生の後半は、幸せとは程遠いものでした。