大政所(仲)
豊臣秀吉の母・仲は大政所と呼ばれるようになっても、尾張弁のままでした。
息子、秀吉の下に秀長、そして娘の智(日秀尼)と朝日姫。
四人の子に恵まれました。
最初の夫・木下弥右衛門との間の子が智(日秀尼)と秀吉です。
夫の死後、二番目の夫になったのは織田信秀に仕えた同朋衆と伝わる竹阿弥です。
その竹阿弥との間の子が秀長と朝日姫です。
秀吉は天下人になりました。
仲にとって想定外だったと思います。
秀吉が長浜城主になった頃、夫・竹阿弥が亡くなって、秀吉に引き取られました。
それ以降、秀吉の居城に住んだのです。
長浜城から嫁の寧々と共に暮らしました。
寧々の方が身分が高い家の女性でしたので、姑の仲ですが、「秀吉なんぞに、よう嫁いでくださった。」という思いが強かったのです。
秀吉が側室を作る度に、息子を叱りつけました。
「寧々さんは、ええ嫁だわ。どえりゃあええ嫁だわ。」
「おっかぁ……。」
「おみゃあは……秀長と違うて……たわけだがや。」
「おっかぁ……。」
「寧々さん、えらそうだわ。
おみゃあ、と一緒になって可哀想だがや。」
大坂城に入ってから、大政所と呼ばれるようになってから、側室を迎えることが増えて、大政所は秀吉をしかりつけることが増えたのです。
天正14年(1586年)9月、妹の朝日姫を家康の正室として岡崎城に下すことを秀吉は決めたのです。
徳川家康が秀吉に教順の意思を示しながらも上洛して秀吉との謁見をしなかったからです。
「なんで朝日を……。朝日は佐治殿の妻だわ……何を考えとるんじゃ。秀吉!」
「佐治日向守とは、離縁させた……。」
「なんでじゃ。夫婦仲、ええ、あの二人を……離縁?
おみゃあはぁ! 」
「おっかぁ……叩け。叩け。気ぃが済むまで叩け!」
「秀吉!」
「朝日には徳川家康のとこへ行って貰うんじゃ。」
「徳川家康……。」
「そうじゃ。そうせなならんのじゃ。この秀吉と家康を繋ぐためなんじゃ。
戦をしとうない。朝日には悪いと思うとるんじゃ………。」
「たわけがぁ………。」
「佐治日向には500石を捨扶持として与えた。詫びのつもりなんじゃ。」
「……たわけ……たわけ……。朝日が可哀想じゃ………。」
朝日姫は4月に大坂城を出て聚楽第に入り、5月に浅野長政・富田知信・津田四郎左衛門・滝川儀太夫等を従えて150名余の花嫁行列は京を出発し、途中、信雄の家臣・織田長益と滝川雄利がさらに加わって、11日、三河西野に達し、14日に浜松に至って、家康の正室(継室)として徳川家に嫁いだのです。
この時、家康45歳、朝日姫44歳でした。
朝日姫は駿河府中(駿府)に居を構え、駿河御前と呼ばれました。
まだ一向に上洛の気配を見せない家康に業を煮やした秀吉は、家康に害意が無いことを示すために大政所を送ることにして、大政所を朝日姫の見舞いを口実にして岡崎に送りました。
関白の母子が共に人質として送られて来たので、家康と徳川家中も上洛に応じざるを得ず、ついに重い腰を上げました。
家康は上洛して秀吉との和議が成立しました。
駿府城で大政所と朝日姫が泣いて抱き合って再会を喜ぶ姿を確認して、徳川家康は二人を母子だと確信した上での上洛だったと言われています。
この家康の上洛、秀吉との謁見の後、約1ヶ月後に大政所は大坂城に戻ることが出来ました。
その後、天正18年(1590年)、朝日姫が正月に亡くなって床に就く時間が増えました。
天正19年1月22日(1591年2月15日)、秀長は郡山城内で病死しました。
秀長に先立たれた後に文禄・慶長の役が始まると、大政所は名護屋城の秀吉の身を案じて渡海をやめるように懇願しましたので、秀吉もそれを無下にできずに周囲の勧めもあって1年延期を発表しました。
しかし天正20年(1592年)7月になると、大政所の病状は悪化しました。
関白・豊臣秀次(智の長男)は秀吉を落胆させまいと報告を躊躇い、各種祈祷を行わせましたが、最早、回復は困難な状況でした。
秀次がついに重篤であると報告し、秀吉は慌てて帰京しました。
その名護屋を出立した日(7月22日または前日の21日)に仲は聚楽第で死去しました。享年77歳でした。
母・大政所の死は秀吉にとって大きな衝撃でした。
大坂に戻った秀吉は、既に亡くなったと死を知らされ、あまりの衝撃にその場で卒倒したと言われています。
若い頃に苦労した母を大切に思っていたのでしょう。
大政所は娘・朝日姫、それから息子・秀長の死が辛かったのだと思います。
その度に体調を崩していることが記録に残っています。
大政所は母としての喜びも悲しみも経て、思ったかもしれません。
「秀吉、おみゃあ、天下人なんぞにならんでも良かっただわ。
寧々さん、えらそうやったがや。
朝日……徳川さんに見向きもして貰えん嫁やったがや。
佐治日向さんやったら、良かっただわ。
秀長も……
おみゃあ、足軽のままで良かっただわ。」
そう思っていたかもしれません。