京極龍子
京極龍子が秀吉の側室になったのは、夫・武田元明が本能寺の変の後、明智光秀側に就き丹羽長秀・羽柴秀吉の連合軍に討たれたからです。
寡婦になった龍子を秀吉が側室に迎えたのです。
京極龍子以前の側室は南殿しか記録に残っていません。
たくさん女性との浮名を流していたのでしょうけれども、側室として迎えたのは南殿一人だったのかもしれませんし、ただ単に記録に残っていなかったからかもしれません。
秀吉は京極龍子を側室に迎えてから、次々と側室を迎えます。
その中で、京極龍子は経産婦であったので、子宝を期待されたのかもしれません。
美しい女性だっただけではなかったのかもしれないと思います。
京極龍子は、夫と幼い息子を殺した秀吉の寵愛を受けたのです。
「龍子様、我が夫が無理をしたこと分かっておりまする。
なれど、お許しいただきたいのです。
貴女様はお子を3人も産んでおられます。
私は夫のために子を産めなかった………。
お願いでございまする。
秀吉の子を産んでくださいませ。
たった一つの秀吉の願いなのでござりまする。
石松丸秀勝を失ってから、養子にした子に秀勝と名付けているのでございま
す。」
「寧々様、私は打ち取られた武将の妻でございまする。
夫が打ち取られた後は、何をされても致し方ないことと存じまする。
それよりも、誠にござりまするか?
下の息子を……寧々様が助命嘆願してくださったと漏れ聞いておりまする。」
「真のことにござりまする。兄・木下 家定の子として育てることに決まりまし
た。」
「おぉ………。ありがとうござりまする。ありがとうござりまする。」
「卑怯だとお思い下され。お子を人質にして側室に迎えること……。」
「いいえ、いいえ。命を助けて頂くだけでも、この上ない喜びでございまする。
寧々様、側室に迎えられたこと……この龍子、恨みなどしておりませぬ。」
「龍子様……ありがとうござりまする。」
「寧々様……。あの子のことを何卒お願い申し上げまする。」
「承知いたしました。どうかご案じなさいませぬように。」
美しい龍子を秀吉はどこにでも連れて行きました。
小田原城や名護屋城に秀吉は戦の時でも連れて行ったのです。
戦の時に、秀吉は淀殿一人を連れて行きました。
すると、龍子が付いて来たのです。
「龍子、何故、ここにおるのじゃ。」
「はい。北政所様のご差配にござりまする。」
「何? 寧々が……。」
「はい。北政所様が龍子に行くようにと仰せになられました。
故に、殿下の御傍に参りました。」
「そ……そうか……寧々が、のう……。」
「来てはならぬと仰せでござりましょうか?」
「否、そんなことは言わぬ。……龍子、大儀である。」
「は………。」
「う……なんだ……今宵は茶々を傍に置くが、明日の夜はそなたが……のう。」
「御意にござりまする。」
龍子と淀殿(茶々)の側室同士の競い合いは、続くのでした。
龍子は大坂城の西の丸に屋敷を与えられたことから西の丸殿(西丸殿)、次いで伏見城に移ったことから松の丸殿(松丸殿)、あるいは京極殿(京極様)などと呼ばれました。
秀吉の死後、兄・京極高次の住む大津城に身を寄せました。
慶長5年の関ヶ原の戦いに先立ち、大津城が大坂方の諸将に攻められた時には、本丸にいたことが、筑紫古文書所収の「関原御合戦之時大津城攻め之覚」に記されています。
戦後は寿芳院と号して出家し、西洞院に居を構えました。
慶長9年8月2日には高台院杉原氏や豪姫と豊国神社に参詣し、湯立の祈祷を大原の巫女に依頼しています。
大坂夏の陣の後は、淀殿の侍女(菊)を保護し、また六条河原で処刑された秀頼の息子・国松の遺体を引き取り、誓願寺に埋葬しました。
寛永11年(1634年)9月1日に京都西洞院の邸で亡くなりました。
「戦は嫌じゃ。
男子に生まれると、幼くても赤子であっても、敗れた将の子に生まれたら、その
命を奪われる。私の息子もそうであった。
国松殿……可哀想に……京の六条河原で処刑など……豊臣の夜が終わったと知ら
しめるためとはいえ……酷過ぎる。
あの時と同じじゃ……。我が夫だけではなく、我が子を失ったあの日と……。
国松殿……もう怖くありませんよ。そなたの傍にはお父上がおられまする。
もう怖いことは何一つありませんからね。もう…終わりましたからね。」
秀吉の寵愛を受け、淀殿とその寵愛を競った龍子でしたが、秀頼の息子の遺体を引き取ったりするなど、美しいだけではなく優しい女性だったと思われます。
淀殿との寵愛を競ったエピソードは、これから後のお話に致します。