豪姫
大坂城には前田利家の娘がもう一人居ました。
名前は豪姫です。
2歳から秀吉と寧々夫婦の養女になり、子宝に恵まれない夫婦から愛されて育ちました。
前田利家の三女・摩阿姫と違って、四女・豪姫は側室に迎えられることなく過ごせました。
そして、養父・秀吉は言うのです。
「豪、そなたには三国一の婿を、この父が探してやる。
三国一の婿でなければならぬからのう。
この秀吉の娘、豪の婿は三国一でなければならぬ。三国一の婿じゃ!」
「はい。」
その三国一の婿とは、宇喜田秀家でした。
宇喜田秀家は秀吉の猶子でした。
猶子になったのは、秀家の父がその死の床で秀吉に頼んだからです。
「何卒、何卒、我が息子を武将にお育て願えないであろうか。
このまま、この嫡男を残し逝くのは忍び難い。
後見を秀吉殿にお願いできないであろうか……。」
「直家殿、ご嫡男を残す心残り……。
身共にも分かり申す。
この秀吉にお任せ有れ。必ずや、立派な武将に育ててみしょうぞ。」
「秀吉殿……。有難きお言葉。深謝申し上げる。」
「八郎。」
「はい。」
「これよりは、秀吉殿を父と慕い、しっかり務めよ。」
「はい。」
「八郎殿は聡い子じゃな。善き武将となれるぞ!」
「はい。」
「おお~~っ、その返事も良い。」
「秀吉殿……何卒、何卒、お願い申す。」
「相分かった。直家殿、安堵されよ。」
「八郎……。」
「はい。父上。」
「この日の秀吉殿の御心、忘れるでない。」
「はい。」
「八郎……。」
「はい。」
「しっかり……な。」
「……はい。」
この後、天正10年(1582年)1月21日には羽柴秀吉が宇喜多氏の重臣を連れて織田信長の居城である安土城に登城し、直家の嫡男である八郎の家督継承を信長に承認させました。
そして、八郎は秀吉の猶子になりました。
八郎は秀吉から秀の一字を賜り、秀家と名乗ったのです。
秀家は豪姫と同じように秀吉と寧々夫婦の愛を受けて育ちました。
天正16年(1588年)、秀吉の愛情を受けて育った秀家と豪姫の婚儀が整い、二人は夫婦になりました。
豪姫は夫に付き従い、備前国(現・岡山県)岡山城へ行きました。
大坂城を出たのでした。
「豪、そなた、大坂城を出て備前へ行くこと
さぞ寂しかろう。すまぬが、耐えてくれ。」
「何を仰います。私は秀家様の妻にございまする。
秀家様の御傍近くに居させて下さいませ。」
「豪……。大事にする。」
「嬉しゅうござりまする。」
秀家の胸の中で頬を赤く染めながら、豪は秀家の妻になった喜びを感じていました。
豪姫は嫁した後、「備前御方」と呼ばれ、文禄2年には「南御方」と改称しました。
また、秀高・秀継・理松院(山崎長卿・富田重家室)らを産みました。
正室として、母として、幸せな日々を送っていた豪姫の、その幸せは長く続かなかったのです。
慶長5年(1600年)、秀家が関ヶ原の戦いで石田三成ら西軍方に属していたため、戦後に宇喜多氏は改易。秀家は薩摩に潜伏し島津氏に匿われました。
しかし慶長7年(1602年)、島津氏が徳川家康に降ったため、秀家は助命を条件に引き渡され、息子2人と共に慶長11年(1606年)に八丈島に流罪とされました。
この時の助命嘆願は、豪姫の実家である前田家が行ったのです。
豪姫は夫と息子の流刑地に物資を送り続けました。
「秀家様、お変わりなくお過ごしでござりましょうか。
豪は、秀家様にお会いしたいのでござりまする。
如何お暮しか……案じておりまする。
秀高、秀継……風邪などひいてはおらぬか。
身体を厭いなされ。
そなたらにお父上のこと頼みまする。
そなたらに会いたい。
今の母の望みです。
行くことが叶うならば、直ぐにでも会いに行きたいのです。
お父上のこと頼みまする。
傍に居ることが叶わぬこの母の分も……。
孝養を尽くしなされ。」
「あの日……関ヶ原への出陣の前……
私は『ご武運を……』と送り出した。
武将の妻としての務めであった。
武将の母としても当然のことであった。
なれど……戦が無ければ、と思うてしまう。
戦のない世であれば………
死ぬ男はおらんのであろう。
泣く女もおらんのであろうな。
泣く女は、この戦で終わりにしてほしいものじゃ。」
豪姫は寛永11年5月23日(1634年)6月18日に亡くなりました。享年61歳でした。
夫の秀家は明暦元年(1655年)11月20日に亡くなりました。享年84歳でした。
妻・豪姫の死を遠い流刑地で知ることになりました。
そして、長男・秀高は慶安元年(1648年)8月18日、父に先立って亡くなりました。享年58歳でした。
次男・秀継は明暦3年(1657年)3月6日に亡くなりました。享年60歳でした。
秀継は父・秀家を看取ったのです。
猶子は、実親子ではない二者が親子関係を結んだときの子です。
秀家の場合は、秀吉が他の氏族との関係強化を狙ったものであり、養子とは違い相続はありません。