加賀殿(摩阿姫)
最初の側室は南殿という名前で呼ばれている女性でした。
秀吉が長浜城の城主だった頃の側室です。
男の子と女の子を産んだとされていますが、しっかりした資料はありません。
ただ、産んだとされる男の子・石松丸秀勝が存在していたことと、その死は確かなようです。
南殿は石松丸秀勝の死の後に亡くなっており、大坂城には入っていません。
大坂城で数多居る側室のほとんどが身分の高い人の妻だったか、娘か……でした。
その中で前田利家の三女・摩阿は、最初から側室ではなかったのです。
秀吉と寧々の養女として迎えられました。
同じ前田利家の四女・豪姫とは違っていました。
豪姫は2歳で養女として迎えられましたので、最後まで娘でした。
摩阿は、養女だったのに側室になったのです。
その胸中や如何に……。
「養父上様、如何なされました?」
「摩阿、そなたは愛らしい。」
「養父上様?」
「そなたを迎えたいのじゃ。」
「迎えるとは……?」
「側室に、な。」
「側室………。」
「今宵から、そなたは秀吉の側室じゃ。良いな。」
「摩阿は……。」
「うん? 何じゃ……。」
「前田の父は如何に……?」
「利家か……承知しておるわ。」
「前田の父が……。」
「さぁ、こちらへ参れ。摩阿。」
「……はい。」
「そなたは身体が弱いからのう。他家へ嫁すことは叶わん。
故に秀吉の側室とすると決めたのじゃ。」
「……はい。」
「我に身を委ねよ。良いな。」
「はい。」
「そなたは側室になったなら、我が奥のこと任せようと思うておる。
寧々とも話を決めて参ったのじゃ。」
「養母上様とも……。」
「摩阿よ。もう、養父上とも養母上とも呼ぶことは許されぬと心得よ。
良いな。そなたは秀吉が妻の一人故。」
「はい。」
摩阿姫は秀吉の側室の一人になりました。
そして、大坂城では「加賀殿」と呼ばれたのです。
大坂城での加賀殿の秀吉の妻としての仕事がありました。
それは奥向きの財政管理でした。
奥で使うお金の管理を委ねられたのです。
加賀殿の実父が前田利家であったことが大きかったのかもしれません。
加賀殿の秀吉への気持ちは複雑だったのかもしれません。
「お方様、泣き止まれませ。
昨夜は……お身体がお辛かったのではありませんか?
お方様……。」
「何故じゃ……。
あのようなこと、父上と呼んでいたお方と…嫌じゃ。もう嫌……。」
「お方様、それは許されませぬ。
お気を確かになさいませ。
加賀においでの殿様の御為。」
「前田の……為さねばならぬのか……。」
「左様にござりまする。」
「相分かった。なれど、今しばらくは泣かせてたもれ。」
「承知いたしました。」
身体が弱い加賀殿のために秀吉は有馬の湯への湯治に出かけさせたりしたのです。
伏見城が完成すると、加賀殿は伏見城内に新築された前田邸へ預けられたのです。
父親の邸宅に居を構えたことは、他の側室には例をみないことでした。
これは秀吉が加賀殿との逢瀬を楽しみながら利家と密談できることを意味し、政治的な意味があったと思われます。
「摩阿………。」
「父上様………。」
「加賀殿と呼ばねばならぬ、な。」
「いいえ、父上様と二人の時だけは何卒、摩阿と呼んでくださいませ。」
「摩阿、すまぬ。そなたを側室にと殿下に言われたおり、儂は断れなんだ。」
「父上様……。良いのです。これが摩阿の定めでございます故。」
「摩阿、すまぬ。」
「父上様……。」
「この屋敷で、まつにも会わせようぞ。」
「母上様に! 嬉しゅうございます。」
「その日を待って居よ。」
「はい。」
慶長3年(1598年)3月に秀吉が催した醍醐の花見では5番目の輿にその名があります。
一首「あかず見む幾春ごとに咲きそふる 深雪の山の花のさかりを」と詠んでいます。
この後、秀吉の存命中に側室を辞めました。
身体が弱かったことが理由だったのかもしれません。
その後、摩阿姫は、権大納言・万里小路充房の側室となって男子を産ましたが、のち充房とは離縁し、息子を連れて金沢に戻りました。
離縁の前にある事件が起きました。
それは、元和5年(1619年)に江戸幕府が後水尾天皇の側近である公家6名を処罰した事件です。最も重い責任を問われた権大納言・万里小路充房入道の名を採って万里小路事件とも称する事件で、およつ御寮人事件と呼ばれています。
最も重い責任を問われたので摩阿姫とその息子を金沢へ帰したと言われています。
秀吉の側室になったのは14歳でした。
それから、20年後に亡くなりました。
慶長10年(1605年)10月13日、摩阿 享年、34歳。