10
その後。大分遅くなってしまったけれど王女殿下の元へ行った。今日はもう無しかなと思っていた自分のことを彼女の侍女は待っていた。何時間待っていたんだろう。部屋に入ると王女殿下がいる。自分に気付くと近付いてきた。初めて声をかけてくれた日のように、彼女から。
「お疲れ様でした。今日は長かったですね」
「そう…ですね。お待たせしました」
「いいえ」
と、彼女は笑った。やけに楽しそうだ。そう思うけれど何か変。立ったまま、いつも同席する侍女の気配もそういえば消えている。遅くなったからか。挨拶だけしてもう辞した方が良いかなと思った自分に彼女は言った。
「私に何か言うことはないですか?」
「え?」
と、ああ。そうか。
「こんな夜分遅くに申し訳ありません」
そう言って頭を下げたら彼女はまた笑う。
「違います。もっと別のことです」
「別のこと?」
何かあったかな。
「いえ…。特に」
正直にそう答えたら彼女は少し驚いた顔をした。けれど寂しそうに笑って頷いた。
「…そうですか。では私から言います。今までずっとありがとうございました。貴方とお話しするのはとても楽しかったです」
平民に向かって、ほんの数十分の逢引きには相応しくない程の気持ちを彼女は口にした。そして別れの言葉。どこかに行くのかと想像した自分に彼女は言う。
「どうかお元気で」
「…ありがとうございます。王女殿下も」
でも、彼女の事情を自分が知る資格はない。その言葉を受け止めて、同じ気持ちを返したら彼女の笑顔が落ちるように無くなった。
…すん。と、その顔を隠した彼女の足元に涙が零れ落ちる。泣いてる。ぽろぽろと幾粒もの涙が落ちていく。
「…王女殿下?」
顔を見ようと覗き込んだら彼女がしがみついてきた。思わず受け止めたその体が震えている。震えるほど泣いている。どうしたんだろう。とにかく落ち着いて貰わないと。とんとんと背中を叩くと次第に落ち着いてきたようだ。さて。
「…どうされました?」
と、呟いた。何があったんだ? 笑っていたりいきなり泣き出したり情緒がおかしい。そんな自分にしゃっくり混じりの声が聞こえてくる。
「笑顔で見送れなくてごめんなさい」
「え?」
「今日で最後なんでしょう? ここに来るの」
何でその事を? そうだったけれどそうでなくなった事実を知っている彼女を不思議に思う。
「お兄様に聞きました」
と彼女は言う。
「今日、あんまりにため息をついてらっしゃったからどうしたのか聞いたら教えてくれました。貴方からどうしても快い返事が貰えないって」
ああ。その事か。ん? それで別れの挨拶をしてくれたの?
「また来ますよ」
だから単刀直入にそう言った。顔を上げた王女が涙目を丸くする。う。…可愛いな。この子も自分と同じ成分で作られてるとは思えん。
「…え?」
「これからは今までよりも頻繁に来ます」
時期が来れば毎日でも来る。幾らでも会える。だからそんな我慢をしなくていい。せめて自分の前では。
この子もそうだ。いや、この子こそ何の忖度もない繋がりを必要としている。自分が彼女の助けになれればそれもここにいる意味になる。
「…え? どういうことですか? …お兄様の提案を受け…?」
「はい」
「…嘘。だってもう絶対に無理だってお兄様が…」
ですね。殿下の見通しは間違っていません。さすが俺の上司。
「気が変わりました」
「…じゃあ、また会えますか?」
「会えますよ」
…ふええ…。と、幼い子が泣くような声を漏らしてまた抱き着いてきた彼女をよしよしと抱き締める。自分にできることなんてたかがしれている。けれど自分だからできることもある。それを見逃さないように精一杯努めよう。改めてそんなことを思った。
「って訳で他意は無い。全然無い」
詳細に説明なんてできる筈もない部長は、城に行った時に偶然会ってお茶に誘って貰ったとだけ話してそう言った。
…他意は無いって…。
それを聞いて全員が王女を見る。見上げる目が普通じゃない。完全にほの字じゃん。ええー? 嘘ぉー。もしかして本当に気付いてないのー?
どうすんの? 殿下。
え? どうしよう。
と、その視線はあっちこっちに飛び交ったり重なったりするけれども当人は全く気付かない。もう。と、小さなため息をついてこう言った。
「ここは外の目もあるから気を付けて下さい」
「はい」
よしよし。いい子ですね。と頷く部長。…ん? お兄ちゃん? そういう感覚なの? そんなことを思いながらやり取りを皆で凝視。
「それで、今日は何で来られたんです?」
「皆さんに卒業おめでとうございますって言いに」
そーかそーか。と頷く部長。いやいやいやいや。お前に言いに来たんだって。お前に会いに来たんだって。うちらなんてどうでも良いって。と周囲は首を振っているけれどやっぱり気付く様子なし。
本当にどうすんの? 殿下。
どうしよう。
何の解決もしないまま、やがてそこはお開きになった。