87[2-21].典安のプロローグ② 典安の兄 ー そして、もう一人の…… ー
典安の兄は、出来た人間だった。
『比べられる』という言葉で、実際に刺さるのは言葉ではなく、空気の方であり、
幼いころから典安は、その空気の中にいた。
兄は出来すぎていて、会う人間すべてが安心するような顔をしていた。
いつも礼儀正しくて、会話の端々に余裕があって、誰かを下げずに場を回せる。
だから、いつも人の輪の中心にいた。
同じ家に生まれたのに、同じものを食べてきたのに。
兄だけが、すべてを「当たり前」のように積み上げていく。
一流大学。
名の知れた企業。
仕事も評価も人望も、スーツの皺ひとつ無いみたいに整っていた。
結婚も、子供も、家庭さえも、良い父親の理想像。
それを見ている典安の胸に、何が溜まっていったのか。
嫉妬、羨望、劣等感。言葉では足りなかった。
兄の話が出るたび、誰も悪意を持っていない顔で、親戚は言った。
「やっぱり、お兄ちゃんはしっかりしてるね」
「弟さんは……ねぇ」
続く言葉は無いのに、典安の中では勝手に補完される。
――弟は……まあ、そういう感じだよねぇ。
典安は、兄を嫌いだったわけではない。
むしろ、嫌いになれないことが、いちばん苦しかった。
両親が亡くなったあとも、兄は典安を支えようとした。
仕事を探す手伝い。生活の相談。金銭の心配。
兄は、すべてを『「兄らしく』やった。
「安、体調は大丈夫か?」
「飯、ちゃんと食ってるか?」
「困ったら言えよ」
言葉だけではない。
典安の生活の穴を埋め、手続きを片づけ、常に『守る側』に立っていた。
それが、典安には痛かった。
支えられているはずなのに、支えられるほど、自分が薄くなる。
兄の優しさが、典安の『足りなさ』を太陽みたいに照らす。
典安は、その手を取れなかった。
取った瞬間、甘えることが当たり前になって、自分が守られるだけの存在になる気がしたからだ。
兄の優しさに救われていた。
同時に、兄の優しさのせいで、自分の小ささがくっきり見えてしまう。
だから典安は、距離を置いた。
最初は少しずつ。連絡の頻度を落として、会う回数を減らして、言い訳を増やした。
しかし……兄は怒らなかった。
怒らないから余計に、逃げ道が塞がる。
逃げ場を仕事に作ったのも、兄が原因の一つになった。
「家族」から逃げるみたいに、仕事の結果を積み上げて、自分だけの城を作ろうとした。
だが、現実は簡単に、格差を見せつけてくる。
大事なプロジェクトだった。典安にとっては、ようやく掴みかけた「自分の番」だった。
だが、競争になった相手の会社に、兄がいた。
打ち合わせの席で、兄はいつも通り落ち着いていた。
周囲の空気が、兄の呼吸に合わせて整っていくのが分かった。
典安は、呼吸がうまくできなくなった。
結果は、惨敗だった。
兄のチームが案件を獲得した。
兄が奪ったわけじゃない。仕事は仕事。
わかっている。
わかっているのに――会議室で資料を閉じるあの瞬間、典安の中で何かが折れた。
典安のプロジェクトは失敗扱いになり、赤字の責任が典安に寄せられた。
上司は守ってくれず、部下の目は冷えた。空気が変わるのが露骨にわかった。
反省会で、社内の会議室の扉が閉まるたび、典安だけが取り残されていく。
兄と並べない。
同じ場所に立てない。
人望も、結果も、家庭も円満な兄。
失敗の責任だけ背負う自分。
並べられたわけじゃない。
典安が、自分で並べた。勝手に比べて、勝手に潰れた。
「やっぱりな」
胸の奥で、誰かが嗤った気がした。
それでも、兄は典安を見捨てなかった。
ある日、兄は食事に誘いに来た。
玄関先に立つ兄は、いつも通りの顔をしていた。
「少し話そう」
「たまには家族ぐるみで、皆で、飯に行こう」
そう言って、兄の子どもが後ろから覗き込む。
小さな手が、典安の服の端をつかもうとした。
典安は、反射でその手を払った。
払ったというより、避けた。触れられたら、何かが壊れる気がした。
兄嫁の顔色が変わる。
姑が声を荒らげた。
横で舅が黙って睨んだ。
「出来損ないのくせに」
「手を差し伸べてやってるのに」
「クズが」
典安は、謝らなかった。
謝る言葉を持っていないわけじゃない。
できないところまで自分が落ちているのを、典安は知っていた。
逃げて、また逃げた。
そして、家でも居場所は薄かった。
妻は疲れ切った顔で、言葉を減らした。
典安も言葉を減らした。何を言っても薄っぺらな会話。
心の通わない、すれ違うだけの言葉。
離婚は、突然ではなかった。
突然だったのは、家の中が空っぽになった静けさの方だった。
静けさに耐え切れず、見る気もないのにテレビの音だけがやけに大きくて、典安は消すこともできずに時間だけが過ぎていった。
数日後。
玄関のインターホンが鳴った。
兄だった。
「安。……いるか?」
扉越しに兄の声がする。
典安の胃が、きゅっと縮んだ。
「安。……覚えてるか?」
兄は昔話を始めた。
話す声は、押しつけがましくない。
あの頃こんなことがあった。こんなときもあった。
楽しかったこと。くだらなくて笑ったこと。悲しかったこと。
子どもの頃のこと。親に怒られたこと。
どうでもいいようで、どうでもよくない、生活の手触りの話。
典安は返事をしなかった。
返事をしなかったのに、兄は続ける。
続ける声が、少しだけ乱れた。
「……安。いきなり、変な話していいか」
返事はしない。
でも兄は、返事がないことを責めない。責めないまま、続ける。
「俺さ……安には、夢を追いかけてほしかったんだ」
そこで、兄は小さく笑った。
笑ったというより、自分を誤魔化すみたいな音だった。
「俺と……『比べられる』の、嫌だったよな」
典安の指先に、冷たいものが走る。
優しい声で触れられるほど、逃げ道がなくなる。
「……嫌味に聞こえたらごめん。
俺がやってることってさ、一流大学だとか、有名な会社だとか、家庭だとか――」
兄は一度言葉を切った。
「結局、世間が『正解』って呼ぶやつを、無難に並べただけなんだよ。
立派に見えるかもしれないけど……俺だって、本当は夢があった」
典安は、俯いていた顔を上げた。
「でも、諦めた。
『普通』を手放すのが、怖くてさ。……だから俺は、そっちを選んだ」
兄の声は、そこで少しだけ低くなった。
「だから安には、俺の真似をしてほしくなかった」
真似という言葉が刺さり、抜けない感覚。
「……安にも、本当はあったんじゃないのか。
好きだったこと。やりたかったこと。
誰にも言わなかっただけでさ」
典安の胸の奥が、ざらりと音を立てた。
「間違ってたら、ごめん。
俺の思い違いであってほしいんだけど――」
そこで、兄の声が一段だけ柔らかくなる。
「親父たちのこともあって。
それに……愛ちゃんと真理ちゃんのこともあってさ」
典安の息が、そこで止まった。
「……俺にこれ以上心配かけさせたくないから、
夢、諦めたんじゃないのか?」
当たっていた。
言葉にできなかったことまで――兄は見抜いていた。
典安の胃が縮む。
反論の準備ではなく、ただ崩れないように踏ん張るための痛みだった。
「人が輝ける場所って、皆同じじゃないと思うんだ。
俺は、『普通』の場所でしか生きられなかった。
でも安は……『違う』場所で、輝けると思ってる」
そして最後だけ、子どもの頃みたいな声で言った。
「……今からでも、考え直してみないか」
扉の向こうが静かになる。
返事を待っている沈黙が、いちばん優しいのに、いちばん重かった。
兄は、最後に小さく自嘲した。
「……ごめん。
……俺さ、安の夢を応援してやれるほど、立派な兄じゃなかったな。」
「……最後に会話したの、いつだっけ?」
少し間が空いて、兄は続ける。
「言葉は、通じ合うためにあると思ってるのにさ。
もっと早く、それを伝えれば良かったって、後悔してる」
兄の声は、静かに震えていた。
「過去に戻りたいよな」
兄は、静かに言った。
「でも、戻れないからこそ、今を変えるしかないと思うんだよ」
典安は、返事ができなかった。
声が出てこないのに、涙が出ていた。もう壊れていた。
喉が鳴ったのに、声だけが出てこない。
「本当にもう……かえれないのか?」
兄の問いは、昔の時間と、これからの人生を同じ言葉で呼び戻すみたいだった。
戻りたいのに戻れない。
変えたいのに変えられない。
そのどちらも、もう自分には無理だと典安は思っていた。
――自分を信じることすら、できなくなっていた。
兄は、最後に少しだけ笑った。
「いらないおせっかいかもしれないけど……俺は、どんなことがあっても味方だよ」
「……」
「俺は、お兄ちゃんだからさ」
扉の向こうで、足音が遠ざかった。
典安は、その背中を想像するだけで胸の奥が痛んだ。
しばらくその場から動けなかった。
扉の冷たさが、手のひらに移る。
その夜、典安は夢を見た。
兄が、昔の顔でそこにいた。
親父たちが生きていた頃の、やけに眩しい時間。
兄は笑って言う。
「安が辛い時、泣きたくなった時、負けた時は、俺が代わってやる」
「だって家族じゃないか」
「親父たちが死んでも、俺が安を守る」
「俺はお兄ちゃんだから」
兄は言って、手を伸ばす。
「どんなことがあっても、迎えに行くから。だから安も――」
そこで目が覚めた。
暗い天井があった。現実の匂いがした。
口の中が乾いて、喉の奥が痛い。
流れた涙が止まらないまま、枕を濡らしていた。
涙を拭いて、典安はベッドに座ったまま考えた。
兄の言葉が、胸の中に残っていた。
残っているのに、指がすり抜けるみたいに掴めない。
両親に言われた言葉が、突然よみがえった。
「お前なんか産まなければ良かった」
あれは、ひどい言葉だ。
でも――ひどい言葉を言わせるような生き方をしてきたのも、自分だった。
親への反抗。世間や社会への不満。不良だった自分。
ずっと目を背けてきた。
仕事で取り返すと言い訳して、家庭を放置し、結果も失い、最後に残ったのは言い訳だけだった。
大人になった今ならわかる。
人に対する感謝の心を失っていた。
親孝行なんて派手なことじゃなくてよかった。
ただ顔を見せるだけでも、「ありがとう」と感謝を言うだけでも、積み重ねられたはずだった。
それができなかった。
その痛みが、兄を通して、再び刺さってくる。
あの時の痛みは、今でも消えていない。
典安は思った。
次に兄に会ったら、謝ろう。
次に会えたら、逃げないで話そう。
もう遅いかもしれないけど。
妻……愛にも、やり直せないだろうか。
分からない。でも、外に出るだけでもいい。
変わる、とまでは言えなくても、止まってる自分を動かしたい。
そう思って、典安は立ち上がった。
――その時だった。
インターホンが鳴った。
典安の心臓が跳ねた。
兄がまた来てくれたのかもしれない。
そう思ってしまった自分が、少しだけ情けなくて、少しだけ救われた気がした。
玄関へ向かう足が、勝手に速くなる。
靴も揃えないまま、扉の前に立つ。
鍵を開ける指が、少し震える。
扉を開けた。
そこに立っていたのは、兄ではなかった。
元妻――愛の兄。
典安にとっての義兄だった。
義兄は笑っていなかった。
笑っていないのに、目だけが嘲笑うみたいに冷たい。
典安は、身体の奥が固まっていくのを感じた。
「お前のような出来損ないが、妹の旦那だったという事すら虫唾が走る」
典安の口が動いた。
だが、声はうまく出ない。
「仕事にも失敗したんだってな。家族を放置して、仕事に明け暮れた結果がこれか?」
反射的に、典安が口にしたのは、言い訳だった。
だが、その言い訳はひとつ残らず自分を奈落へ突き落とす。
「お……お義兄さん、違うんです」
違わない。
違わないから、声が小さくなる。
「違う? 何がだ」
義兄は一歩だけ近づいた。距離が詰まった分、空気が重くなる。
「お前に兄と言われる筋合いはない。反吐が出る」
「妹を不幸にしたお前は家族じゃない」
「お前みたいなクズ男は惨めにくたばれ」
「二度と妹に近づくな!!」
正論だった。
正論が、典安の心を殴った。
義兄は、さらに畳みかけた。
怒鳴っているのに、言っていることが正しすぎて、典安の逃げ場を潰していく。
「やり直したい? ふざけるな!!」
「今まで愛を傷つけておいて、何がやり直したいだ!!」
「時間は戻らないんだよ!!」
「お前に何ができる? お前はもう愛の夫じゃない。赤の他人なんだよ!」
典安の口が開き、閉じる。
言葉を探して、何も出てこない。
そして、義兄は『最後の一撃』みたいに言った。
「やり直せるかどうかは、今までお前が愛を大事にしていればできた話だ!!」
反論できないのは、正しいから。
「お前には、チャンスなんてないんだよ!!」
典安がやってきたことが、そのまま目の前に、並べられたから。
「……」
何か言い返そうとして、言葉が見つからないんじゃない。
言い返せる立場が、もう残っていなかった。
義兄の目は、典安を人間として見ていない。
ただの汚れ。処分すべきもの。
そういう目だった。
典安は、そこでやっと気づいた。
自分は変わろうとした。謝ろうとした。
――しかし、その一歩が、遅すぎた。
義兄の足音が遠ざかる。
静かになったはずの玄関だけが、やけに狭い。
外の気配だけが残って、家の中が他人の家みたいに冷える。
典安は、鍵をかけることも忘れて、そこに立っていた。
立っていた――はずだった。
足に力が入らなかった。
膝が笑ったのではない。笑う余裕すらない。
ただ、身体が終わりを受け入れるみたいに、前へ崩れた。
鈍い音。
玄関の床が、頬に冷たい。
その拍子に、視界の端が開いた。
奥のほう。廊下の突き当たりに、置き去りにされたものが見えた。
真理の学生靴だった。
高校の入学のときに買った、サイズも分からないまま、勝手に買ってきて。
愛が怒って、真理が呆れた顔をして、受け取った、あの靴。
靴は綺麗だった。
綺麗なのは、大事にしていたからではない。
必要ないから、奥へ追いやられた。
その置き方が、まるで、自分と同じだと思った。
――「最後に会話したの、いつだっけ?」
それは、兄だけではない。
妻にも、娘にも、同じ事が言えた。
涙は出た。
でも、すぐに止まった。
泣き続けるほどの水分も、もう残っていないみたいだった。
喉の奥が焼けて、息が荒くなるだけで、目は乾いていく。
義兄の言葉だけが、乾いたまま耳の奥に残っていた。
ー やり直せるかどうかは、今までお前が愛を大事にしていればできた話だ!! ー
典安は、転んだまま。
起き上がることもなく、倒れたまま、ただ息だけをしていた。




