79[2-13].天使教皇の間《エル・オーバー》 ── “L・oveR” ④
「その“常識”は、余がラジ・エルに頼んで記させた……嘘だよ」
シ・エルが何もせずとも、広間は時が止まったように静まり返った。
呼吸の音さえ、誰かの罪になる気がした。
そして、誰もが悟る。
この場の全員が、真実の側に立っているとは限らない――という事実を。
透明の王座が、――どくん。
最も神に近いとされる天使教皇もまた、その鼓動の下で沈黙した。
ヒキガ・エルが玉座の感情を察し、代弁ではなく、確認として言葉を差し出す。
「シ・エル殿。それは誠か? ……これは、私自身の質問である」
「あぁ。本当だよ、枢機卿代理殿。証拠を見せようか?」
シ・エルは、手品の種明かしを楽しむ道化のように、わざと一拍だけ間を置く。
その仕草ひとつで、怒りも、呆れも、悲しみも、笑いも、無反応も、諦めも、興味も――各々の心が剥き出しになった。
シ・エルは一歩、前へ。
胸の奥で心拍がひとつ跳ねる。
人差し指で土星型の鐘をそっと撫で、穏やかに頭を垂れた。
「お願いできますか、天使教皇様。
《宇宙叡智と生命根源》を――此処へ」
王座が鼓動を鳴らし、その影でヒキガ・エルが喉を鳴らす。
乾いた空気が、ひときわ濃くなる。
「申請を受理。《許可》」
透明な王座列の上に、月光のような冷たい輝きが降りた。
高天井は夜空に似て深く、星々の図は呼吸をしているかのように微かに瞬く。
薄い霜の張った大理石のように冷たく、音は吸い込まれて戻り、囁きの尾だけを残す。
「条件。《最天使長、三柱の承認》。……信仰力の高い者が挙手を推奨する」
シ・エルが静かに挙手。
機械天使カマ・エルが無音で掌を傾け。
バラキ・エルが肩で息をしてから、面倒そうに指先を上げる。
「《承認》」
天井の虚空がほどけた。
幾何学の光図――《メタトロン・キューブ》が天より降る。
六角の蜂巣が重なったような神聖幾何が、連なり、離れ、また一つに戻る。
その度に空気は薄荷のように冷え、会議場の全員の頬に、目に見えない砂金が触れた。
ラファ・エルが身を乗り出す。
「おおっ! 拙者が確認役に立候補いたすでござる! この目で――」
「座れ」
ウリ・エルの低音が床を渡り、竜の尾が石を撫でたような震えが走る。
「竜は問う。……読めるのか。読んだあと、立っていられるのか」
「おお! ウリ・エル氏が拙者の心配を!? それもまた一興! 廃人になった状態がどうなるのか自ら実験を……!!」
「心配ではない。竜の慈悲だ。廃人になった貴殿の姿を収める鞘を知らぬ」
熱烈な視線のラファ・エルと、冷めた視線のウリ・エル。
その対比だけで、メタトロンの脅威は十分すぎるほど伝わった。
カマ・エルが一歩前へ。
胸郭の内側で微かな駆動音が高鳴る。
「結論。読取権限、限定。生体負荷、高。処理推奨、自機械」
「余からも、カマ・エルを推薦する。お願いできるかな?」
カマ・エルは胸に手を当て、虹彩が薄く発光した。
「【神の奇跡《言葉と領域を超えた深淵》】展開。神経写像、安定化。負荷、引受」
光の糸束が視神経へ流れ込み、会議場の中心に薄い投影が咲く。
彼が見ている“狂気の総量”が、理解可能な形へと変換されていく。
ザドキ・エルが思わず息を漏らす。
「凄い。流石は、カマ・エル。私たちがすれば、脳が焼き切れるというのに」
ガブリ・エルは、月のシスターのように微笑んで、肩越しに囁いた。
「綺麗ねぇ。丁寧な仕事が伺えるわぁ」
けれどカマ・エルは返事をしない。
一歩遅れれば、機械脳が暴発しかねない。その集中だけが、空気を張り詰めさせる。
「禁術《世界平等の死》記述発見。条件列挙――表示」
空間に走る文字列。
だが、並ぶのは誰もが知っている“教会版の常識”ばかり。
バラキ・エルが顎を上げる。
「あのさぁ……結局、書き換えなんて無いんじゃないの?」
シ・エルは土星の鐘を指でなぞった。
澄んだ音がひと粒、そしてもうひと粒。
会議場の空気が、祈りでほんの少しだけ密になる。
「失礼、カマ・エル」
鐘の音が、カマ・エルの信仰力を増大させる。
文字列の間から、薄く“署名”が滲み出た。
小さな輪に蛇のような記号――それは、誰より見慣れた印。
ラファ・エルが目を丸くする。
「おおっ、サイン出現! で、ござ……」
「静かに」
ウリ・エルの声に、ラファ・エルは慌てて口を押さえた。
バラキ・エルが肩をすくめ、息を吐く。
「あのさぁ……ご丁寧に犯人が自分のサインって、どういう了見だい? シ・エル?」
シ・エルは、悪戯が見つかった子どものように目尻だけで笑った。
「敵を欺くには、味方から。――そして、味方を守るために嘘を使うこともある。
改竄したの事実だけど。真条件は、ここには書かれていない」
透明の王座が、低く一度、鼓動する。
天使教皇は言葉を発しない。だが沈黙が、怒りの圧として背筋を撫でた。
ヒキガ・エルの代弁がなくとも、誰にでも伝わる種類の沈黙だった。
ガブリ・エルが両手を胸に重ね、柔らかい声で言う。
「ねぇ……《 少しだけ。あなたの『声』を。少しの真実を見せて 》」
【神の奇跡】
ガブリ・エルは神からの声を聞き、神の啓示とは違う真実を聞く事ができる。
彼女の視線がシ・エルを撫で、空気に小さな鈴の音がひとつ。
「うん。今の言葉は、嘘じゃないのねぇ」
シ・エルは卓を見渡し、淡く――しかし断固として頷いた。そして、自分の頭を指差した。
「禁術の真条件は、今は余だけが、知っている」
バラキ・エルが頬杖をつく。
「用意周到なのは良いけどさぁ……それって結局、悪魔だけじゃなくて、小生たちもシ・エルに踊らされるって話だよね? まぁ、一番安全な隠し場所ではあるけど」
「結論。秘匿、妥当……グッ!!」
カマ・エルが即答しかけ、喉の奥で駆動が跳ねた。
やや焦げ臭いが漂い、わずかに音が狂う。
「大丈夫なのぉ? カマ・エル?」
ガブリ・エルが心配そうに見つめる。
「……無論。熱量、九十七パーセント。一次冷却時間、推奨」
シ・エルは視線を落とし、静かに言う。
「そうだね。いくら君でも、あれだけの力を使ったんだ。暫く休んでいいよ。――後は余たちが話をする」
カマ・エルは機械目を閉じ、体内の冷却風を流し始めた。
旋風の音が、会議場の静寂を細く切る。
ラファ・エルが、カマ・エルからホログラム帳を受け取り、指でぱたぱたと弄ぶ。
「おお、カマ・エル氏の議事録は見やすいでござるな!! ……そういえば、流れてしまったでござるが、教会に潜む悪魔の件はどうするでござるか?」
ヒキガ・エルが喉を鳴らす。
「議題を転換。《内部潜伏》。寄進者、政治、連鎖、崩壊恐れあり。解決策を述べよ」
シ・エルは間髪を容れず繋ぐ。
「それに関しては、もう一度。炙り出しをやろう。
ジル氏の神秘術を使い、悪魔のみを消す。――再提案だ。
ジル氏曰く。数ヶ月、秘力を蓄えれば教会全体に照射可能だと、余は聞いているよ」
ウリ・エルが低く問う。
「竜は問う。数ヶ月とはどのぐらいだ? 悪魔は待ってくれぬぞ」
シ・エルは首を横に振る。
「こればかりは彼次第だ。どうすれば早く秘力が貯まるのか、できるだけの策は行うつもりだ。ただ言えることは、余が責任を持って調整する」
ザドキ・エルが間に入り、声を柔らかくする。
「皆には信じられないかもしれないけど……ジル卿は、信用していい。私からもお願いしたい」
その“信用”という言葉が、会議場に小さな波紋を落とす。
今まで自分も含め誰にも厳しかったザドキ・エルを見ていたバラキ・エルは、まだ距離を置く目をしていたが、否定の言葉は飲み込んだ。
「―― ――」
「申請を受理。《許可》」
天使教皇の裁可が落ちる。
反対の声は上がらない。上げられないという空気が勝った。
シ・エルが順番を掲げた。
「巡回順は……
ザキヤミ→タイオー→キサナガ→コガシマ→モトマク→オカフク→ガーサ。
秘力の蓄積に合わせて、スケジュールを調整しよう。まずはザキヤミから」
ガブリ・エルは掌を合わせ、月明かりの祈りのように囁く。
「なんだか、胸が鳴るわぁ。きれいだけど……こわいわぁ」
ヒキガ・エルが、簡潔に結ぶ。
「意見の収束。裁可、《可》。可能な限り早急な対応を願う。と天使教皇様は申しておられる」
透明の王座が二度、鼓動を打つ。
…………………………
その時、どこにもいない“声”が、どこにもない場所で芽吹いた。
音は持たず、温度も持たない。けれど確かに意志だけがあった。
――この計画を、止めねば。
――まず、ユーサとジルを。
影は誰の耳にも触れぬまま、底へ沈んでいった。




