76[2-10].ディアの記憶:瞳の住人(リヴ・イン・ユア・アイズ)①
長くなったので、分割します。
病室の時計が、夜をゆっくり刻む。
私はベッド柵に額を預けたまま、いつの間にか眠っていた。
耳に残るのは、静かな寝息。あなたの呼吸だけ。
手を重ね、指先で触れ、生きている温もりを確かめる。
《数えきれない出来事を越えて、ほんの少しの歳月が流れた》のだと思う。
それでも、《指先で地図をなぞるみたいに、あなたの全てが分かる》わけじゃない。
― 「……うん。ずっと一緒だよ、ディア」 ー
けれど気づいているよ。
あなたが《不安そうな顔》を隠していることくらい。
私は小さく囁き、まぶたを閉じた。
思考の足音が速くなる。
急ぎ足で、あなたが目覚める明日へと急かすように、胸が駆け回る。
不思議なほど、この胸はいつも《あなたの笑顔》を求めている。
その輪郭に触れるように、眠りが私をもう一度誘い、意識の縁が静かに引いていく。
*
私の記憶。
最初に覚えているのは、七歳までの記憶がなかったこと。
自分の名前が「ディア」だということだけが、細い糸みたいに心に残っていた。
消毒液と薬品の匂い。白い天井。ガラス越しに交わされる白衣の声。
「記憶喪失で、しかも吸血鬼か」
「絶滅危惧種だ。研究対象に切り替えよう。教会の研究機関へ――」
彼らの声は私に向かっていない。書類に向かっていた。
運ばれた先で私は鏡を見た。赤い目の私が、知らない私を見返す。
私に危害を加えようとした手は、なぜか全員、自分で“罰を受けた”。
私への針は滑り、棚は勝手に傾き、負傷する人が増え、時には命を落としかけるほどの人もいた。
それは“呪い”だと言われた。
私は何もしていないのに、周りだけが破壊されていく。
やがて、私は“不吉な赤目”と呼ばれるようになった。
ある夜、私は自分の中で何かが「渇く」音をはっきり聞いた。
喉ではなく、魂の奥から脳へ命令するように。
次の瞬間。
息が白くほどけ、研究室の空気が裂ける。
金属が凍り、ガラスが花みたいに亀裂を咲かせ、白い霜が壁を走った。
私の周りの世界は、一拍で“極寒を超える氷の世界”になった。
白衣も器具も、棚も、戸棚も――すべてが凍りついて、粉々になって崩れた。
我に返ると、両手と口元が真っ赤だった。
私は……人を殺めたのだと思った。
心の底が空洞になり、足が動かなくなる。
その時、崩れかけの扉の向こうで声がした。
「吸血鬼だと聞いていたので、念のため保険を用意しておいて良かった」
「血糊として輸血パックを仕込んだ“木のマネキン”が無ければ、我々が死んでいた。次は獣を用意しておくか?」
「それよりも、研究データが破壊されました。まずは、復旧を急いでください」
目の前の赤は、人の血ではなかった。砕けた木片から、偽の血が垂れていた。
殺人の罪を犯したわけではないと安堵したと同時に。
――私は、はじめて本当の意味で理解した。
記憶がなくても、私は“吸血鬼”だ。
――このとき、無意識に全てを凍てつかせる力
――世界を全てを粉々にしかねない秘術に恐れた。
そこへ、ナザさんが現れた。
「この子は私が保護するよ。元々アタシが倒れていたのを見つけて、診てたんだから」
白衣たちは、厄介者を押し付け合うみたいな沈黙のあとで、その提案を歓迎した。
ナザさんは研究員に向き直り、きっぱりと言った。
「この子の“吸血衝動”は、病院の輸血パックで賄う。血液型によって衝動の抑え方が変わるんだろう? 全部のデータ、今夜中に出しな」
そして私の肩を叩く。
「安心しな。吸血衝動は“病気”と一緒。だから、“薬”を使って上手に付き合っていくみたいにすれば、アンタは誰も傷つけずに暮らせる。アンタ自身の心だって、もう傷つけない。――ほら、行くよ」
少し乱暴で、でも温かい笑い方。私はその笑い方を好きになった。
ナザさんの手には、私の“呪い”は発動しなかった。
害を加えない人と、“呪い”が判断したのだと、あとで思う。
リー孤児院。
本部のストウ・リー孤児院長との面談が終わり、見知らぬ靴音が部屋に入ってきた。
大きなバナナみたいな金髪ツインテール。
ブンちゃんとの出会いが、ここからだった。
「この子、“吸血鬼”なんだっけ? ごめん、眩しいよね? ババアとジジイは、気が利かないNE」
半人魚の彼女はカーテンを勢いよく閉めた。
吸血鬼の私は太陽の下でも生きていける。
けれど長く当たると、糸の端から力がほどけるみたいに、すぐに疲れてしまう。
それでも太陽を嫌いにはなれなかった。
どんな時も照らす、私の天敵。
――でも、私はその天敵に、ずっと憧れていた。
そんな私の性質を調べてくれていたのか、彼女は私を気遣ってくれた。
初めての配慮に戸惑ったのを今でも覚えている。
「YO! 今日からウチが君のお姉ちゃんだYO!」
弾む声が、真正面からわたしの不安に飛び込んできた。
「……ディア、です」
小さな声で名乗ると、ブンちゃんは目を丸くして、ぱっと笑った。
「その髪、超キレイ。ねえ、ちょっと触ってもいい?」
こくり、と頷くと、指先がそっと梳く。
「――よし、任せな。可愛いは最強! ツインテールは最強! お姉ちゃんは最強だからNE!」
椅子に座らされ、左右にリボンが結ばれていく。
小さな手鏡の中。冷たい色の瞳。けれど、頬の影は少し薄い。
見慣れないツインテールの子が、わずかに驚いた顔でこちらを見ていた。
それが――わたし。
「ヤバッ! 超可愛いんですけDO! こんなに可愛い妹とか嬉しすぎィ! 今日からディアは家族なんだから、遠慮しないでNE!」
気づくと、頬を伝っていた。涙の意味が、自分でうまく言えない。
「……ごめんなさい。悲しいわけじゃないのに、嬉しいはずなのに」
「涙はね、流して良いんだYO」
ブンちゃんはわたしの涙の筋を、親指でそっと拭った。
「悲しい時はウチらが拭ってあげる。嬉しい涙なら、もっとたくさん流していいんだYO!
涙は女の武器だからね。涙を味方にするのが、最強の女としての生き方YO!」
少し離れたところで腕を組むナザさんが、口の端だけで笑う。
「たまには良い事言うじゃない。ブン」
「“たまには”ってどういう事だYO! ババア! ディア、こんなババアみたいに冷たく、しわくちゃになっちゃダメだYO! お姉ちゃんに優しくしてNE!」
「残念なことに、アンタもいずれ、そのしわくちゃなババアになるのよ。年寄りは大事にしな」
二人のやりとりに、初めて笑いが溢れた。
憎まれ口でも言葉の奥底にある愛に触れた、背中を支えられた気がした。
――この日、わたしは知った。わたしは、ひとりじゃない。
*
それから、時は流れて。
私はやがてナザ病院の薬師になった。
花と薬草に触れていると、記憶の底にある両親に触れていた気がした。
薬草の匂い、小瓶の光、花弁の柔らかな抵抗。何かを取り戻せそうと日々を過ごしていたが思い出せることはなく、特に変化はなかった。
でも、十四歳になる頃には、鏡の中の子は“子ども”の輪郭を脱いでいた。
年齢には似合わないほど大人びた見た目。
豊満な胸のせいで制服の胸元はいつも布地が足りなくて、釦に指先が迷う。
女たちの目に、うっすらとした嫉妬の影が差し、
男たちの視線には、下心と嫌な重さが混じる。
廊下を歩くだけで、囁きが追いかけてくる――“不吉な赤目”。
そのたびに、ブンちゃんの言葉を胸で反芻する。
「女の敵は女。……“嫉妬”は悪魔になるくらいヤバいから、覚えといて。
アンタの味方は“誠実”だけ。不誠実はスルーでOK。
男の敵は“自分の弱さを認めない心”。
それを認められる男は“人に感謝を忘れない”、優しくて強い“誠実”な人。
ディアを守ってくれる人は、きっとそんな人だYO。いつか会えるから。
大丈夫。覚えときNA。最強のお姉ちゃんの教えだYO。
――とりあえず今は笑って、流しときNA」
わたしは笑い方を覚えた。
ナザさんに教わった薬草の香りで心を落ち着かせ、
ブンちゃんに結んでもらったツインテールを、鏡の前で自分でも結べるようになった。
それは小さな護符。
結び目をきゅっと引くたびに、あの日の声がよみがえる。
ー 「可愛いは最強。ツインテールは最強。お姉ちゃんは最強だから、ウチに任せな。家族なんだから」 ー
見つめ返すのではなく、前だけを見る方法で。
……けれど、この“不吉な赤い目の呪い”からは逃げられなかった。
容姿に群がる視線、下心と妬み、邪気のある接近が《不吉と呪い》に変わり。
誰かが負傷し、また命がこぼれかけた。
ある日、私は貴族の館へ呼ばれた。
薬師としてではなく、絶滅危惧種の吸血鬼として。
扉が閉じ、イヤらしい言葉が鍵に変わる。
行為を迫った家主は呪いによって崩れ落ち、館はたちまち炎に包まれた。
それが原因で、殺害・放火の容疑で私は追われた。私は大雨の夜に転がり出る。
関わった人たちが次々に不吉な目に遭う現実に、もう私の人生は誰にも触れないほうがいいのだと、湖に身を投げた。
水は深く、冷たく、静かだった。
――なのに、目を覚ますと、私は湖の外にいた。
死ぬことすらできない“呪い”の力に、絶望した。
どうして、私は生まれたのだろう。記憶の中にあるはずの両親に問いかけた。
けれど、答えは帰ってこなかった。
大雨の中、ただ奈落の底を見るように地面を見つめていた。
その時だった。
雲間から射す温度に似た温かさ。
雨が止んだのだと思っていたけど雨音はして、傘の影が私を包んだ。
「大丈夫ですか?」
《見上げれば、色あせない輝きの光が溢れた》。
顔を上げた瞬間、雨がやんだ。
初めて、あなたと出会った日。
あなたは、太陽みたいだと思った。
冷えていた世界が、ほんの少し温度を取り戻す。
私はうまく話せず、あなたの優しさで心の氷が溶け始めた。




