75[2-9].不思議な国の犬(ワン・ダーランド)
長いので分割しました。
「……何をしているのですか? 貴方は」
ク・エルだった。
いつも通りの丁寧な声に、刃より冷たい温度が乗る。その冷たさは怒りだけではない温度。
背筋の汗が一斉に冷えたのか、カマセの取り巻きが跳ねるように縮こまる。
カマセは足を退けはしたが、顎はまだ上がったまま。自分の高さを確かめるみたいに顎先がわずかに揺れる。
「……ここは復興区画です。泣く子に寄り添い、働く者へ食料と水を運び、歌で心を繋ぐ場所。天使が“恐怖”を持ち込む場ではありません」
「ク・エル天使長。こやつらは教会の恩恵も理解せず、“神に選ばれた天使”に向かう不届き者。教育を施していたところで――」
「ク・エルお姉ちゃん!」
マリアがカマセを遮るように、早口で訴える。
ク・エルに近づき、腕にしがみつく力が精いっぱいで、手が震えていた。
「この人たちがマリアを叩こうとして、オトキミお兄ちゃんが守ってくれたの! それで、オトキミお兄ちゃんをいじめたの!」
「……。」
マリアの言葉で、ク・エルの周囲で沈黙の風が鋭さを増す。
家族が幸せで暮らせる世界を目指すために天使になった彼女にとって、聞き捨てならない言葉。
市民の声が続く。「見ていた」「子どもに手を上げるなんて」
カマセは薄笑いをさらに深くして吐き捨てる。
笑いの形だけが残り、目は笑っていない。
「愚民の言葉に耳を傾けるのですか? “神に選ばれた”天使である我々が優れているのは明白。“弱い者は強い者にひれ伏す”――それが理でしょう」
ク・エルの睫毛が、ほんのわずか震えた。
次の言葉を選ぶ一瞬の静けさ。
「……貴方の“神に選ばれた”という言葉を信じて、ひとつ。
タイオーの最天使長バラキ・エル様は《七つの美徳》を体現し、教会随一の《謙虚》であり、《慎重》に事を運ぶ繊細なお方――私の理解では、そうです。
……そのような素晴らしい天使様の下には、志の良い天使ばかりが働いておられるのだと、思っていました」
カマセの頬が、ぴくりと引きつる。
だがすぐ冷笑で塗りつぶす。
胸の奥、何か小さなものが跳ねたのを、彼は押し込めた。
「フッ。表面上だけで、何もご存知ないとは。政治に、ご興味がないようで残念です。コレだから、ザキヤミの天使は他都市に遅れを取り、市民が大変な目に遭う。――現場の“実権”がどこにあるかも知らぬ者が、天使長とは」
「……何を言っているのですか? 貴方は」
ク・エルの片翼が、音もなく膨張した。
緑の光が羽軸を走り、羽根が幾重にも咲き開く。
光は硬質ではなく、神への信仰力を抱いている。
広場の誰もが、思わず息を呑む。信仰の光は、見惚れるほど清明だった。
子らの目に緑が映り、泣き腫らした跡がほんの少し潤む。
はじめて、カマセの目から色が抜ける。
ク・エルの天使長という肩書きは、伊達ではない。
カマセは、実力で自分が劣っていることを悟り、自尊の床がわずかにきしんだ。
「……“弱い者は強い者にひれ伏す”。それが貴方の理屈なら、言わずとも分かりますよね。
ザキヤミを襲った《最悪魔邪神王の幹部》の強さを。
そして、それに立ち向かった――《オトキミ君たち》の強さを」
名を呼ばれた瞬間、オトキミ、アユラ、ガケマルの顔に、ふっと明かりが灯り、胸の奥で固まっていたものが少し溶ける。
「……タイオーの担当者には、私から正式に申し伝えます。……ここは、貴方たちの場ではありません」
言葉の圧は一段深くなり、場を戻すための重みが増す。
「……貴方たちは、ご自分の力を発揮できる《持ち場》へお戻りなさい」
「チッ。……了解いたしました。我々は我々の力を存分に発揮できる場所へ戻ります」
渋々踵を返す。
取り巻きが忌々しげに地を蹴り、視界から消えた。
足音が角でちぎれ、風だけが残る。
マリアの胸元の【黒曜石】は、何事もなかったかのように光を吸い、ふたたび静かに沈黙した。
――緊張の糸が、ふっと解ける。
張り詰めていた肩が一斉に落ち、誰かの長い息が、周囲の吐息を誘った。
「ク・エルお姉ちゃん! ありがとう!!」
真っ先にマリアが、続いて市民の頭が次々と下がる。
ク・エルの肩が、ほんの少しだけ緩む。
「ありがとうございました、ク・エル天使長。助かりました」
オトキミが深く頭を下げると、ク・エルは小さく首を傾げた。
「……何故、抵抗なさらなかったのですか?」
「あ、いや……事を荒立てたら、市民の人たちが巻き込まれるかもって。俺ひとり、見逃してもらえればって」
ク・エルの睫毛が一瞬だけ揺れる。
驚きは最小の仕草で、しかし確かに表れた。胸の内に、淡い尊敬が灯る。
「結局どうにもできなくて。……やっぱり俺、弱いから。《シ・エル最天使長から依頼された》のに……マリアちゃん達を、守り切れなかったです。助けてくれて、ありがとうございます」
迷いなく、オトキミの口元は子どもたちの前でも崩さない。
自分の“弱さ”を理解して、それを曝け出す勇気に子どもたちの心はオトキミを尊敬の眼差しで見る。
アユラとガケマルも、それ以上に深く頭を下げる。
「オトキミ様のご判断、間違いではありません。ク・エル天使長、ありがとうございました」
「感、謝(そして、助かりました。ごめんなさい)」
言葉は短いが、拳の力が解けている。
ク・エルは感謝される空気が痒いのか、話題を変えようとオトキミの方を見る。
「……ズー家は三代目が亡くなったと聞いています。オトキミ君は――」
「はい。三代目の“友達”って処理にされましたけど……本当は、“双子の弟”です。シ・エル最天使長が兄から【神秘術】を授かった事実を隠すために、俺の命が狙われないように、と改ざんしてくれたんです。……――内緒ですよ」
「……シ・エル様の知らない情報を、また知りました」
ク・エルは、教会の記録と違う真実に言葉を失う。こめかみに微かな痛みが走る。
しかし、知らなかった“穴”が、オトキミの言葉で、ふさがる。
「兄は優秀で人気者で、凄かった。俺なんかよりずっと。……だから、さっきの天使様みたいに……認めてもらうのは難しいですよね。俺の力がつくまでは、まだズー家には戻らない。いや、戻れないぐらいダメな奴なんで、俺……」
自嘲の笑みは薄い。けれど、目はどこかで前を見ている。
「そんなことないよ!!」
小さな体から大きな声。皆が振り向く。
「パパが、いってたよ!」
ー 『ラーメンですら嫌いな人がいる。
世の中の人みんなに好かれるのはむずかしい。
だから、自分を好きって言ってくれる人を大事にしよう!』 ー
マリアの言葉にオトキミの俯いた視線が上がる。
「マリア、パパのラーメンだいしゅき! オトキミお兄ちゃんのどうぶつも、だいしゅき!!」
空気がふっと軽くなる。笑いと頷きが、オトキミの周りで連鎖する。
オトキミはマリアに微笑み、みんなの顔を見回す。目の端に熱が刺したが、拭わない。
「マリアちゃん、ありがとう。元気出たよ。……そうだね、ラーメンだって嫌いな人がいるんだ。全員に認めてもらうのは難しいよね。……自分を大事にしてくれる人を――大事にするよ」
ク・エルが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……私は、貴方が“強い”と思っていますよ」
彼女の笑みは滅多に形にならないが、今は形を取った。
「……召喚獣は、戦闘でしか役に立たない――そう思っていました。……けれど貴方は、戦わずに街を支えている。大人にも子どもにも好かれる音楽を奏でる者を貴方以外、私は知りません。……これは誇るべき“強さ”です」
「ありがとうございます。ク・エル天使長。実は、俺の召喚獣の使い方は、ユーサのアニキが気づいてくれたんです」
「……ユーサ・フォレストが?」
ク・エルが、驚きながらマリアに視線を移す。
マリアは自分の父親を褒められて嬉しいのか、誇らしげに笑った。頬にさっきまでの涙の跡が光る。
「……きっかけはどうあれ、それでも、私が貴方たちくらいの頃は、逃げてばかりの臆病者でした」
「ク・エル天使長が……? 想像できないです」
「……はい。時間はかかりましたが、シ・エル様のおかげで――今の私があります」
“逃げた背中の冷たさ”を、彼女はまだ覚えている。その記憶が、いま前へ押す力になっている。
シ・エルの名が出ると、オトキミの顔がぱっと明るくなる。肩がひとつ分、軽くなった。
「……だから、自信を持ってください。貴方は、シ・エル様から《マリアちゃんを任された》ユーサ・フォレストの仲間です」
視線がマリアのペンダントに埋め込まれたシ・エルが渡した【黒曜石】に集まる。
「そうですよね!」オトキミが勢いよく立ち上がり、胸を叩く。音に自分で勇気づけられる。
「最高の“神の天使様”に救ってもらって、今は重要任務を任されてるんです、俺たち! 《新しい召喚獣》で、即戦力になるって証明します!」
「ねえ、オトキミお兄ちゃん。こんどは、どんなどうぶつ?」
「フッフッフ……新しい召喚獣は――《玉》を……舐める犬だ」
一拍。
大人たちの顔が一斉に引き攣る。
ク・エルの表情も固まった。
アユラの眉がきゅっと上がる。
「オトキミ様、いたいけな子ども達に、変なことを教えたら――今月はラーメン抜き、にいたします」
「ソ、レ、以、上、イケナイ(ラーメン抜きは断固拒否!!)」
ガケマルががっしりとオトキミの肩を掴む。掌の熱が“ブレーキ”を引くように力を入れる。
「痛い痛い! この筋肉バカ!! ……アユちゃん、違うんだ、コレは《玉》――た、タマを……そう! 悪魔の《魂》を舐めることで強くなる犬! その名も――【不思議な国の犬】!!」
「たましい!」「なめるとつよくなるの!?」
子ども達だけが目を輝かせ、笑いが弾ける。
張り詰めていた場が、完全に“日常”の側へ戻っていく。
ク・エルは小さくため息を紛らせながらも、口元だけは柔らかく折った。
「……説明の仕方に、気をつけてください」
兎歌姫が耳を揺らし、キチュネが短く応える。
輪は再び歌へ戻り、猫忍者が炊き出しの香りを運び、風に伸びていった。
鍋の蓋がかすかに鳴り、午後の日差しが地面の欠けをなぞる。
。。。。。。。。。。。。。。
――同じ頃、ザキヤミの外縁の街。
橙の紋章の三人が、苛立ち紛れに石段を下る。靴底が砂を噛む音が尖っている。
「チッ……田舎の泥で、俺様の靴が汚れる」
「カマセ様、あの雑魚ども、後でやっちゃいましょうよ。本当、いい気になりやがって」
「カマセ様の方が“強い”のに。戦場を知らない見せ物芸人がよ」
「それもあるが、あのク・エルとかいう天使長だな。俺様に恥をかかせや……」
「? カマセ様??」
角を曲がった先、灯りの消えた祠の前で、ふっと光が瞬く。
柑子色――夕焼けの欠片みたいな薄い光。空気が一瞬だけ甘くなる。
ーー 「……傲慢だね」 ーー
耳朶の内側で、褒めるように声が笑った。
次の瞬間、橙は黒へと落ち、三人の影の底へスッと染み込む。
肌の内側を冷たい指がなぞる感覚が、同時に走った。
紋章の白薔薇が、風もないのにざわめいた。
花弁の刺繍が生き物のように見えたのは、光の加減のせいか。
オレンジ色を孕んだ黒い霧が、三人を包む。
遠く、子ども達の歌はまだ続く。
鍋の湯気が空に溶け、金槌の音がまた二度、三度。
ーー 「……もっと、見せてごらん。君たちの《正しさ(プライド)》を」 ーー
それを掻き消すほど小さな悪魔の囁きが、路地の底で連なった。
音は小さいのに、彼らの耳の奥で、いつまでも残った。
まだ第二章の1/10ぐらいですが、やっと本題に入る序章に近づきます。
そして、この話、触れるのが難しい内容が入ってます。
僕が今、大好きな人に、無理はしないで欲しい
と伝えるために。




