73[2-7].天使教皇の間《エル・オーバー》 ── “L・oveR” ②
透明の王座が、ひと息だけ鼓動をやめた。
冷えた光が柱を這い、影が糸のようにのびる。
張りつめた空気が、皮膚の表で、ぱちり、と弾けた。
進行役のヒキガ・エルが、乾いた喉をひゅ、と鳴らし――告げる。
「……裁可。……《不許可》」
音のない波が、議場を走った。ざわめきは小さい。だが確実に広がる。
告げた本人も一瞬目を瞬かせ、慌てて言葉を継いだ。
「天使教皇様のご意思は《不許可》にて候。
ザドキ・エルの【秘宝石】よりサキュ・B・アークを《解放》する件、許されず」
いくつもの肩から、同時に力が抜ける。
ただ一人、シ・エルだけが、透明の王座へ真正面から深く頭を垂れた。
「天使教皇様。御裁可、謹んで拝受いたします。――理由を賜りたく存じます」
ヒキガ・エルが王座に一礼し、淡々と代弁する。
「伝達する。
《解放》は最悪魔邪神王インキュ・B・アークを、ここ《天使教皇の間》へ“呼び水”として招く恐れあり。
根拠――この度の各都市同時襲撃において、イフ・エルが拘束した“黒冠位悪魔”の器に、悪魔王が突如《出現》。シ・エル殿らと《会話》を行った記録による」
飲み込んだ息を、誰も吐けない。
カマ・エルが機械の瞳を一度だけ瞬らせ、低く言う。
「記録、確認済。間接経由の通話、成立。リスク、否定不可」
ウリ・エルの背で竜影が喉を鳴らした。
「ふむ。竜は理解した。宮の座標を王自らに示す愚は避ける――理に適う」
白薔薇の少年、バラキ・エルが肩をすくめる。
「ふぅ……そうだよ。いきなりラスボス戦は危険だ。小生も同意だね。敵に“住所”を教える趣味は、ないし」
ガブリ・エルは月光を抱く指を組み、祈りの余韻を漂わせたまま頷く。
「確かにそうじゃな。早とちりしたわ。妾も賛成じゃ。王座は天使の《核》。……ごめんね、ザドキ・エル」
視線が向けられ、ザドキ・エルはやっと息を吐いた。
「……ありがとう、皆。正直、不安だった。今の私は天使の力がほとんど無いから。冷静な御判断をいただいた天使教皇様に、感謝します」
彼女は震える声で、空白の王座に首を垂れる。
彼女の正義は、常に天使教皇にあった。信頼と畏敬が、静かに眼差しに満ちる。
ヒキガ・エルが安堵の息をひとつ。
「以上が《不許可》の理由。また、教皇様より《セブンスヘブンの働きへの賞賛》あり」
自然に、幾つもの視線がシ・エルへ集まる。
彼は喉奥でだけ笑い、静かに礼を取った。
「有り難きお言葉」
一拍。
彼は顔を上げ、空気の重心をわずかにずらす声で続けた。
「無礼を承知で――褒賞に代わる三つの願いを請う」
場の温度が、きゅ、と締まる。
ヒキガ・エルは挟みかけ、思い直して王座へ伺いを立てた。
「――発言、許可」
シ・エルは、ゆるやかに口を開く。
「第一。ザドキ・エルの《天使追放》を撤回していただけますでしょうか?」
空気がかすかに波立つ。
「各都市悪魔襲撃事件を、一番最初にガーサで解決した折、余はヒキガ・エル経由で天使教皇様の指令を拝受した。
だが、ザドキ・エルは“悪魔側のスパイ”ではない。侵食された被害者だった。侵したのは、最悪魔邪神王の幹部サキュ・B・アーク。
そして今、彼女は人間に戻り、【秘宝石】はなお彼女を《天使》として認めている」
胸元の石へ、視線が吸い寄せられる。最天使長の頃と変わらぬ光。事実は、光の方が雄弁だ。
「是非、天使教皇様。最も神に近い――【最神】の女王天使様。彼女に《償いの機会》と《慈悲》を賜りたく存じます」
「……シ・エル」
シ・エルは、見えない王座に向けて深々と頭を下げた。あたかも失態を自らの責に引き受けるかのように。
その所作が、ザドキ・エルの胸に静かに刺さる。
ガブリ・エルが祈りの指をほどき、柔らかく頷く。
「妾は賛成じゃ。侵食に気づけなんだのは、責めより救いの領分じゃ」
ウリ・エルの竜影も低く鳴く。
「竜も賛成だ。《慈悲》を願う」
カマ・エルは機械の声で整理する。
「CA-CAー。賛否、中立位置。利点:最天使長空席の代替探索、負担軽減。長期データ収集継続。個体成長、期待。
不利益:悪魔側の策動、侵食残存の極微可能性――否定不能」
ラファ・エルは身を乗り出し、声が跳ねる。
「んんー!! 拙者、研究的には即日お預かりしたいが……むむ、今は復権に賛成でござる!!!」
賛成派の意見が多く目立つ中、差し込むような鋭い声が細々と上がる。
「小生は……条件付きで。即決より《監査下の復権》、あるいは一時的な《行動制限》を。皆、情に流されすぎだよ」
白薔薇を指先で弄びながら、バラキ・エルは視線を上げない。
「ザドキ・エル。もし立場が逆なら、小生は即死刑だったでしょう? ――これは、甘い方の判断だ。悪く思わないでくれ」
ザドキ・エルは、かつての横暴を省みるように視線を落とし、そして小さく頷いた。
そして、白薔薇の天使の優しさに触れたように、やや微笑んだ。
「 ―― ―― 」
「え!?……あ、天使教皇様、お言葉を拝受。……《許可》」
王座の微かな振動を拾い、ヒキガ・エルが驚きを帯びた声で代弁する。
誰より驚いたのは、ザドキ・エル自身だった。
「寛大なお心とご許可、感謝いたします、天使教皇様!」
彼女は跪き、涙とともに首を垂れる。最も崇敬する座へ、騎士のように改めて忠誠を捧げる。
「そして……ありがとう、シ・エル。皆。今の私に何ができるか分からないが――必ず、期待に《応えられる》よう務める」
ヒキガ・エルが姿勢を正し、王座の意を伝える。
「――《第二の願い》を。と、天使教皇様より拝受」
シ・エルがうなずき、視線を円卓へと広げる。
「第二。半仮面の規定について――天使は素顔を晒さぬ、その《半仮面》。結論から申す。
教会《全員》、原則“外し、素顔を晒す”ことの許可を」
どよめきが、波紋のように広がる。
ヒキガ・エルの喉が、またひゅ、と跳ねた。
「し、シ・エル殿!? 全員――!!?」
シ・エルは王座以外の同志を見渡し、指を一本ずつ折り、穏やかに、しかし淀みなく列挙した。
「利点は多い。ひとつ、《民の恐怖》を減らす。敵も味方も顔を隠す世界は、疑心を増やすだけ。
ひとつ、《悪魔との差異》を可視化する。悪魔の【灰化粧】は“隠す術”。ならば我らは《見せる側》で立てばいい。
ひとつ、《偽装》の抑止。仮面は今や悪魔の利。擬態を許す道具を、こちらから……破壊する」
ここで一度、シ・エルの視線がザドキ・エルへ触れる。
彼女は迷いを一呼吸で押しやり、言った。
「……私は賛成。私自身、【灰化粧】に覆われ仮面を付けていた記憶がない。つまり、知らぬ間に侵食されることがある。拒む者は、本能で拒む――そんな反応が、私にはあった」
実体験の重みが、場の傾きを変える。
カマ・エルが反射的に挙手。
「効率、良。賛成。N=1だが一次情報、貴重。匿名は逸脱を助長。侵入者露呈率、上昇。尊厳回復にも資す」
ガブリ・エルは口角をやわらげる。
「“潔白、純粋”の誓いを顔に宿すのは、妾の好みじゃ」
ラファ・エルは椅子を鳴らして前のめり。
「拙者も賛成でござる!! 半仮面は眼鏡に干渉して不便至極! 心理・犯罪学的検証、たぎっておる!!」
バラキ・エルは薔薇を弄らず、正面からシ・エルを見据える。
「小生は賛成寄りだけど……全員一律は乱暴だね。個の事情もあるし、潜在スパイの規模が読めない今、一斉晒しは市民の危険を招く。段階を踏もう」
ウリ・エルの竜が尾で床をとん、と打つ。
「竜も懸念。顔は“的”にもなる。育ちや種族の事情で晒せぬ者もいる。《慈悲》としての差を用意せよ」
シ・エルは掌を下げ、場の呼吸をそろえた。
「では《強制》は撤回。――代わりに《免罰規定》を。
《半仮面を外し素顔を晒しても、罰則は科さない》と明文化を。外すか否かは各天使の意思に委ねる。
余の部下にも、生まれの事情ゆえ誰にも晒せぬ者――ル・エル――がいる。そうした心も尊重したい。
そもそも《なぜ外してはいけないのか》という疑念は、不信を孕む。ならば《外してもいい》という線を、我らから示そう」
バラキ・エルの睫毛が、ため息とともにゆれる。
「……なるほど。最初に大きく出て、譲歩で受け入れやすくする。交渉の基本だね」
ヒキガ・エルが王座へ向き直る。
「諮問。《半仮面免罰》《各自の選択尊重》――」
「 ―― ―― 」
「……裁可。《可》。任務上の着脱指定は、各指揮官の裁量とする」
「感謝いたす。――では、手始めに外そうか」
シ・エルが最初に、ためらいなく仮面の留め具を外す。
金具が触れ合う、小さな音が連なった。布の擦れが重なる。
ザドキ・エルも従い、他の面々も次々と外す。
はじめて見る素顔。固い眼差し、驚き、安堵のえくぼ。
呼吸が、わずかに軽くなった。
「長い付き合いになるけど、皆の顔を見るのは初めてだね。とても、素敵な表情だ。改めて、余は皆がスパイとは思っていない」
カマ・エルが淡々と補足する。
「CA-CAー。【灰化粧】は目視判別、困難。重度の衝撃で崩壊確認。閾値データ、未整備」
「なにぃ! では拙者は【灰化粧】の基の確保に全力を注ぐ!」
ラファ・エルの声に、二つ三つ、小さな笑いが零れ、緊張に綻びが入る。
ヒキガ・エルが、進行の糸を拾い直す。
「……《第三の願い》は?」
シ・エルは“全員”を、撫でるように見回し、言葉を区切った。
「第三。《ユーサ・フォレスト》を、余の《特別天使(特使)》として任命する許可を賜りたい。
教会外の者だが、今回の件で誰よりも働いた。権限と保護、連絡経路を与え、余の指揮下で用いることを認めてほしい」
ざわめきが重なり、風になる。
ザドキ・エルを“悪魔から人へ”戻した、理屈外れの若者。
誰もが知りたい。だが、詳細は誰も知らされていない中核。
「所在はク・エルが確認中――おっと。噂をすれば、だ」
七つの光輪のひとつが、ほとんど見えないほど微かに揺れた。
セブンスヘブンだけが共有する《リンク》が、合図のいらない報せを落とす。
ク・エルの声はシ・エルだけに届き、彼は短く頷く。
「ありがとう、ク・エル。……やはり。
《仮死》状態か――無防備だね。現場で殺されたら終わり。至急、手はず通りに守りを。
場所は《ナザ病院》。奥方ディアさんと……《神秘術:ダイヤモンド・ヴァージン》を使える娘、マリアちゃんも同室だね」
椅子の脚が石を擦る。遅れて、誰かが息を呑む。
《ダイヤモンド・ヴァージン》。創造神の系譜のみが扱う――そう“教会の常識”となった名。
禁術【世界平等の死】の“条件のひとつ”として、長らく祭壇に載せられてきた。
バラキ・エルは額に手を当て、露骨に困った顔をした。
「あのさぁ……言わない方が良かったんじゃない? さっき“スパイがいるかも”って話してたよね?」
シ・エルは素直に首を横へ振る。
「余は、ここにスパイがいるとは一言も言っていない。君たちは同志だ。信じている」
呆れと苦笑が、議場をひと回りする。
「あのさぁ……はぁ……、君の部下に同情するよ」
「あはは。さっきからク・エルに滅茶苦茶怒られている。素敵な《憤怒》だ」
カマ・エルが事務の口調で締める。
「情報漏洩リスク、指摘。《位置》《同室者》《術名》――公開範囲、過大。創造神の生まれ変わり、依代は少女“マリア”。ーー伝説の聖母と……同名」
ラファ・エルは勢いのまま前のめり。
「依代がナザ病院に!? シ・エル氏、拙者の研究チームを即時――」
「感謝する、ラファ・エル。だが今回は、余に任せてほしい。《絶対》だ」
ウリ・エルの竜影が目を細め、低く問う。
「竜は問う。……何故、今ここで晒す?」
シ・エルは王座ではなく、円卓の全員を見た。声はやわらかいが、芯は鋭い。
「余が責任をもって護る。《最天使長の契約》により同士討ちは禁じられている。
だが――もし誰かがユーサ達に手を出すなら、その瞬間《悪魔側へ与する敵》と見なし、余は正当防衛を行う。【最天使長同士の戦い】だとしてもだ」
【最天使長同士の戦い】という言葉が、木目をひとつ、はぜさせる。
「遠慮なく……ね」
仮面が無くなり素顔を晒したことで、シ・エルは今まで隠していた本当の顔を見せるように笑った。
バラキ・エルが半眼で横目を寄越す。
「あのさぁ……さっき信じてるって言ってたよね?」
「信じているとも。だからこその、余なりの《慎重》さだよ、バラキ・エル」
その刹那――七つの光輪のひとつが、きしり、と微かに軋む。
見えない“視線”が、どこかから差し込んだ気配。
シ・エルは何事もない顔で、笑みだけを整えた。
カマ・エルが端的に補足する。
「数理予告。シ・エルとの交戦は《被害指数:億超え》。抑止効果、極大。破綻時の後始末コストも、極大」
ガブリ・エルは肩をすくめ、ため息を薄い笑みに変える。
「妾の目には、時間を止める天使へ戦を挑む愚か者はおらぬと映るがの」
「拙者は純粋に興味ありでござる! 最天使長同士の戦闘!! 学術的意義、甚大! 万一勃発の折は、真っ先に連絡をキボンヌ!!!」
「座れ、ラファ・エル。研究の芽は別で育てよ」
ウリ・エルが竜の眼でそっと制した。
白薔薇の少年は、指先で花弁を立てたまま静かに言う。
「事実確認も兼ねて。――シ・エルの信仰力は群を抜く。時間停止に限らず、多分、複数の奇跡の使い手。……誰がシ・エルに歯向かうの?」
竜が、ぱちり、と薄い瞬きをする。
「行き過ぎた《謙遜》は罪にもなるぞ、バラキ・エル。汝もまた、強い」
バラキ・エルは、気まずそうな顔をして沈黙した。
ヒキガ・エルは額に汗を浮かべつつも、進行の歩幅を乱さない。
「……意見、収束。
天使教皇様、
《第一願》追放撤回の裁可、確認済。
《第二願》半仮面免罰の運用可否。
《第三願》特別天使任命の特例許可――裁可を」
「 ―― ―― 」
「……裁可。《可》。条件は《民と教会に益あるかぎり》」
透明の王座が、低くひとつ、脈を打った。
安堵と緊張が半々で胸に入り、二拍後、静けさが戻る。
沈黙を破ったのは、やはり白薔薇の天使。
「あのさぁ……でも、最優先で守るのはユーサ・フォレストじゃなくて、創造神の生まれ変わりの娘でしょ? 《禁術》の条件なんだよね? 悪魔側にその娘が奪われたら、世界の終わりだよ?」
「だからこそ、皆に。全力で守ろう。余からもお願いしたい」
呆れた視線が一斉にシ・エルへ――そして、すぐにカマ・エルへ集まる。
「禁術【世界平等の死】。条件の一つ《創造神アーク・A・ディアの生まれ変わり》。出典、故《神の秘密・知恵の天使:ラジ・エル》の記録。教会内、一般常識」
そこで、シ・エルは笑った。
嬉しそうに――少しだけ、いやらしく。不気味さを一滴、混ぜて。
「……ああ、そうだ。大事なことを一つ、言い忘れていた」
一拍。透明の王座の心臓が、次の鼓動を待つ静けさ。
「その“常識”は、余がラジ・エルに頼んで記させた……《嘘》だよ」
能力を振るわずとも、広間は《時が止まったように》静まり返る。
誰も瞬きを忘れ、光の粒だけがゆっくり漂った。
王座が、遅れて――どくん――と脈を打つ。
その余韻の中で、シ・エルは微笑む。
民のためか。教会のためか。世界のためか。
あるいは、その全てのために――彼は、盤面を平然とひっくり返す。
そして誰もが悟る。
この場の全員が《真実》の側に立っているとは限らない、という事実を。
王座が、再び――どくん。
それは。最も神に近いとされる、天使教皇も同じだった。




