70[2-4].天使教皇の間《エル・オーバー》 ── “L・oveR” ②
シ・エル側の話が長いかもですが、もう少し続きます。
七つの光輪が、音もなく回転を緩めていく。
白と金の無重力空間――《エル・オーバー》。
中心に据えられた透明の王座は、水面の鼓動のように淡く脈打ち、光は波紋となって広がった。
「―― ―― ――」
それは“声”ではない。
“意志”が空気の層を震わせ、天井も地も曖昧な純白の世界に降りてくる。
光と影の境が存在しない、天使教皇の間。
七本の柱が円を描き、その前に七名の最天使長が沈黙して座す。
波動の合間、紺の法衣をまとった“カエル人間”が一歩前へ出る。湿った水晶の瞳が光輪を映し、喉がひゅ、と鳴った。
「御言葉を拝受――」
枢機卿、ヒキガ・エルが宣言する。
「天使教皇様より。
――全員、よくぞここに集まった。顔を上げ、始めよ。」
低く垂れていた視線が一斉に持ち上がる。張りつめた沈黙は、重い鎖が外れるみたいにほぐれていった。
「七都市の最天使長、参集に感謝を。ここは叱責の場ではなく、議の場である。
本日の議題――
一、各都市における悪魔襲撃の報告と被害状況。
二、必要な人事・処分・褒賞の審議。
三、教会内の実態。
四、今後の事について各自の意見を述べよ――以上。」
ヒキガ・エルは続ける。
「先んじて、今回の危機における功績
――ガーサのシ・エル、並びに《セブンス・ヘブン》の迅速な行動により、
市民保護率は歴史的高水準を記録。天使教皇は、これを讃える。」
空間の密度がわずかに変わる。
シ・エルは喉奥で笑い、いつもの軽さで受けた。
「ありがたきお言葉頂戴いたしました、天使教皇様。
余は、天使教皇様の代わりに、皆の力を預かり動いただけ。
称賛されるのは……部下達です。余ではなく、部下のおかげです。」
柔らかい声音が、むしろ議場の重みを際立たせた。
そして議事は自然と、シ・エルの呼吸に合わせて流れ出す。
――主導権が、軽やかに、しかし確実に、彼へと傾いていくことを全員が肌で感じていた。
*
「では、四――今後の議題について、各自の意見を述べよ。」
ヒキガ・エルが一歩退く。その刹那、沈黙が落ちる。
「……シ・エルの功績は確かだ。」
第二柱《慈悲》、ウリ・エルがゆっくり立つ。背後に竜影の気配がたゆたい、白い空間に目に見えぬひびが入る。
「だが、確認すべきは他にある。――ザドキ・エル。」
視線が自然に集束する。
黒髪の少女を伏せるように守る女天使――ザドキ・エル。
“神の正義”の名を戴き、つい先日まで第三柱《節制》としてここに立つはずだった者。
「確認しておきたい。」
ウリ・エルは竜紋のバンダナを指で正し、冷たい声にかすかな慈しみを滲ませた。
「竜は聞いた。汝、ザドキ・エルは、最悪魔邪神王インク・B・アークの配下――サキュ・B・アークに“侵食”されておったとな。……いつからだ?」
白薔薇の飾りを弄びながら、バラキ・エルが少年めいた声で継ぐ。
「そうだね……。どのタイミングで“支配”が始まったのか。ここに入れるという事実は《エル・オーバー》の検疫にも関わる。言葉を慎重に、正確に聞かせて欲しいかな」
静寂。
ザドキ・エルはゆっくり顔を上げる。悔恨と矜持が同じ瞳に宿る。
「……私は、天使となる前――まだ少女の頃。
両親が“悪魔人”の疑いをかけられ、私が無実を証明しようと動いた折、
……目をつけられ、ほんの僅かな裂け目から“入られた”のだと思います。」
空気が微かにざわめく。
――天使教皇、鏡界の検疫をすり抜けた、という事実。
「あはは。記憶違いとかはないのかな? ザドキ・エル? 純粋な言葉は、ときに刃より物騒よ」
ガブリ・エルが苦笑を向ける。ザドキ・エルは申し訳なさそうに瞼を伏せた。
「はぁ……それってさぁ……」
バラキ・エルがため息をつき、視線で分析役を促す。
カマ・エルの冷機が低く起動する。
「CAー。CAー。最重要問題。天使教皇様の《エル・オーバー》は悪魔に対して無力――仮説提起……」
言い切る前に、裂帛の叱責が落ちた。
「!!? 無礼者どもがっ!!!!」
ヒキガ・エルの怒声。法衣の裾が震え、喉が詰まる。
「最天使長ごときが!! 天使教皇様の威光に疑念を呈するとは何たる――」
ドン――音なき衝撃。
圧が落ち、空間がたわむ。
ウリ・エルの竜気が低く唸り、ヒキガ・エルの膝が床を掠めた。
「その発言は、天使教皇様の声か?
……それとも、貴様自身の声か?」
冷光が走る。
「枢機卿の皮を被ったカエル畜生ごときが、“最天使長ごとき”……だと?
貴様はミカ・エルの代理である事を忘れた脳味噌らしいな」
静かな怒気は刃より鋭く、竜の気配がオーラとなって膨張する。
そこへ白薔薇の少年が、一歩、微笑で踏み出す。
「あのさぁ……慎重に言葉を選んだ方が良いよ、ヒキガ・エル。」
助け舟と思って向けられた視線の先で、バラキ・エルの瞳は氷点下。
「小生たちが聞きたいのは君の感情じゃない。天使教皇様の意志だよね?
君は“声が聞こえるだけ”のミカ・エルの代理。……勘違いは“傲慢”だねぇ」
柔らかな声音のまま、白い獅子が唸るような圧を撒く。
「CAー,CA-。蛇に睨まれた蛙――修正。竜と獅子に睨まれる蛙。
生存率、天文学的に微小。助言無意味。時間有限。我関せず」
カマ・エルは無機質に切り捨て、視線を手元の仕事へと戻す。
「“最天使長ごとき”、なのだろう? 枢機卿代理。
それはここにいる全員への言葉だ。
……悔い改めるならば、慈悲として水竜の餌になるか?」
ウリ・エルの背後で竜影が膨れ、誰もがカエルの不運を哀れむ。
ただ一人、空気の向きを変える者がいた。
「おや? どうしたんだい、ウリ・エル。
ミカ・エルに認められている枢機卿代理殿に、“嫉妬”しているのかい?」
シ・エルの軽口に、空気がぱち、と弾ける。
「……シ・エル。貴殿に“憤怒”が奪われたように、竜には“嫉妬”が無い。
……どういう意味だ?」
圧がシ・エルに向き直る。
「ん? 大事な同士の“失われた感情”が戻ったのかと思って、嬉しくなってね。違ったのかい?」
ぽかん、と豆鉄砲を食らった鳩の顔をしたウリ・エル。
ウリ・エル以外の頬が、わずかに緩む。
「竜に向けた冗談としては、言葉が過ぎたぞ」
空気が再び硬直するより早く、シ・エルは胸に手を当て、迷いなく頭を垂れた。
「すまない。同志が感情を取り戻したのではと喜び、つい確認した。竜の賢者に無作法だった。許して欲しい」
ウリ・エルの睫毛が微かに震え、息が落ちる。
「……竜は、貴殿の慈悲を確かめた。こちらこそ言を荒げた。許せ」
以後、彼は沈黙。バラキ・エルも様子見に転じる。
「……慈悲は、時に刃にもなる。バラキ・エル、その刃に“鞘”を」
「あのさぁ……先に刃を抜いたのは、枢機卿代理殿……向こうだけどね。了解」
バラキ・エルが肩をすくめる。ヒキガ・エルの喉が再びひゅ、と鳴った。
「CA-CA-……心理パターン解析:代理負荷/防衛反応。
本来の枢機卿ミカ・エル=聖戦負傷により長期離脱。
現代理:ヒキガ・エル。出力不足に伴う発言衝突リスク増大」
カマ・エルの平板な報告に、シ・エルが目を細めた。
「皆、承知の通り――ヒキガ・エルは代理だ。
本来の枢機卿ミカ・エルに我々は恩がある。
だから“彼個人”の瑕疵は、これまで目をつぶってきた。……彼は彼で、充分に頑張っている」
ヒキガ・エルが驚いたように顔を上げる。
圧がすこしだけ緩んだ、その隙間に月のシスターが降りる。
「まぁまぁ、皆。本当のことを言っちゃ可哀想よ。
妾の【ボイス】や、カマ・エルの【インナー・コア】での解析で“波”を読めばわかるけど、
ヒキガ・エルは、ちゃんと頑張っとるんじゃから」
無邪気で致命的に正直な庇い。ヒキガ・エルの肩が、さらに落ちる。
ガブリ・エルの言葉の事実が、一番彼の存在意義に刃を向けた。
「あのさぁ……ウリ・エル。純粋な言葉が一番の刃になってるんだけど」
「竜は……その刃の鞘は……知らぬ」
先程まで、責め立てていたウリ・エル達がヒキガ・エルを哀れに思い、それ以上は口にしなかった。
シ・エルはやわらかく笑い直す。
「ガブリ・エルは悪気がない。ーーそしてヒキガ・エル。
君はミカ・エルのためにも、余達のためにも尽力してくれている。
感謝している。だからこれまで通り、天使教皇様の“声”を届けることに専念して欲しい」
ヒキガ・エルは震える掌を胸に当てる。胸骨の奥で、ようやく音が整った。
「……なるほどね」
バラキ・エルの瞳に閃き。ほかの最天使長も同じ合点に至る。
――以後、口を挟むな。余が何を言っても。
そういう合図であることに、ヒキガ・エルだけが気づいていない。
力量の差は明白だった。
「――では、天使教皇様の御声に再び耳を。ヒキガ・エル、進行を」
深い一礼。所定の位置へ。
カマ・エルの機械瞳が一度だけ明滅する。
「CA-CA-……議題二。教会内浸食。脱線により未決事項=多。
本領域が“悪魔にとって脅威でない可能性”――仮説残存。
さらに重大懸念:内部スパイ。最天使長階層にも潜伏確率」
誰もが思い、誰も口にしなかった言葉を、シ・エルがさらりと受けた。
「ありがとう、カマ・エル。つまり“ここにいる誰か”が蝕まれている可能性――だね」
空間が、わずかに揺れる。
白薔薇をつまんだバラキ・エルの指が止まる。
「……“策”がありそうな言い方だね、シ・エル」
「おや、カマ・エルより早い。さすがだ、バラキ・エル」
笑みの裏に剣を隠し、シ・エルは王座へ向き直る。
「提案が二つあります。――天使教皇様、よろしいでしょうか」
透明の王座が静かに脈打つ。
ヒキガ・エルが目を伏せ、頷く。
「御許可、降りた」
「感謝いたします。ひとつ目――」
シ・エルが一本の指を立てる。
「デイ神社の神主、ジル・D・レイの神秘術**《シャイニング・レイ》**を、ここにいる全員で“浴びる”。神への“信仰の光”が影を炙り出すかどうか、試す価値がある。っと思うんだけど、どうかな?」
七つの光輪の一つが、ほんのわずかに揺れた。
誰も気づかない微振動――ただ、シ・エルだけが瞬き一つ分、そちらに視線を滑らせる。
「妾は賛成じゃ。異教徒に友もいるが、彼は頼りになると聞いている。試せるものは試しましょう」
ガブリ・エルは即答。
「反対はしない。竜は光を恐れぬ。むしろ裏切り者に、竜の慈悲をくれてやろう」
ウリ・エルは重く頷く。
「……あのさぁ、本気かい?」
バラキ・エルは眉間を寄せた。
「何を恐れる? 疑いを晴らす手段が異教徒由来であれ、エル教会の神々は慈悲深い」
「“スパイ防止に反対するのはスパイ”ってよく言うけど……え? バラキ・エル、妾は信じてたのに……」
「あのさぁ……慎重になろうよ、って言いたいだけなんだ。小生は」
バラキ・エルの口調は穏やかだが、視線は鋭い。
「CA-CA-……統計的妥当性=高。効率的。実施推奨。……ただし不安要素=多数」
カマ・エルは中立に演算を置く。
「カマ・エルの言う通り。
ジルという人物を全面的に信じられるか不明だし、“悪魔祓い”が小生たち天使への牙かもしれない。
最悪なケースは、自分以外が全員“悪魔”だったら? ――勝てる気、しないよね?」
「CAー,CA-。補足:最悪事態(全滅)からの立て直し計画も要検討。追加情報を要求」
慎重な針は、結局いつもバラキ・エルに戻る。
「ありがとう、二人とも。その件は余が責任を持つ」
シ・エルが請け負った、その時――白衣がばさりとひるがえった。
「シ・エル氏! つまりこういうことですな!!」
第六柱《分別》、ラファ・エルが両腕いっぱいの薬瓶と標本管を抱えて戻ってくる。
白衣のポケットからペンやスパチュラ、ピンセット、謎のUSBキーまで零れ落ちた。
「……発言が無いと思えば、会議中に持ち場を離れる。貴殿、それでも“分別”か?」
ウリ・エルが額を押さえる。
「左様! 拙者、研究以外は“無欲”。分別は……ついて、おり、やす!!」
あちこちからため息が落ちる。
「下級・通常・上級・冠位――悪魔のサンプルでござる!」
ラファ・エルが指を鳴らすと、標本管の黒影が“目覚め”――
「A A A A――ッ!!」
次の瞬間、灰となって散った。
《エル・オーバー》は悪魔に対して致死環境――視覚的に証明される。
「ありがとう、ラファ・エル」
「いやいやいや、なんのこれしき!! そのジル氏の神秘術、第一号は拙者で! よろしくお願いしますぞぉ!!」
シ・エルが微笑むと、ラファ・エルは全身で喜びを表現した。
「CA-CA-……結論更新。本領域=悪魔一般へ高致死性。ただし“悪魔王幹部”ないし“憑依・潜伏レベル”へ無効化確率98%、可能性高」
「補足、かたじけない! ならば幹部をここへ――いや、探しに行きますぞ!! たぎる!!」
暴走しそうな背を、シ・エルが言葉で押さえる。
「ありがとう、二人とも。――そして、二つ目の提案だ」
視線が静かにザドキ・エルへ。彼女は短く目を細め、“覚悟”をする。
「ザドキ・エルの【秘宝石】に封じられたサキュ・B・アークを――ここで一時的に解放する。
天使教皇様の鏡界が“上位脅威”にどこまで作用するか、検証したい」
七つの柱が同時に震え、空間が凍る。
「――本気で言っているのか」
ウリ・エルの声は海溝の底へ沈む。
「君はさ……本当にそういうところあるよね、シ・エル」
バラキ・エルは額を押さえ、笑みだけを表に残す。目は笑っていない。
「賛否を問う。いま、ここで」
シ・エルは微笑を崩さない。
隣でザドキ・エルが小さく苦笑し、冷や汗を浮かべる。
――本当にやったか、この男は。
「待て」
カマ・エルの演算が一気に加速する。
「CA-CA-……危険度評価:極大。だが、ここでしか得られぬ“真値”があることも事実」
重々しい機械の呼吸音が、議場の底で鳴る。
「妾はザドキ・エルに寄り添うことに賛成じゃ。
“汚れ”を責めるより、“純粋”な心で真実を包む。妾のやり方は、それだけよ」
ガブリ・エルの声は、月光のように明るくザドキ・エルの背中を押す。
「……竜は、覚悟を問う。汝は、己を“鏡”に晒すか」
ウリ・エルの問いに、ザドキ・エルははっきり頷いた。
「――晒します。いや……晒す。ここで終わらせたい」
ザドキ・エルは少女ではなく、最天使長だった器を取り戻すように言い直した。
「はぁ……わかったよ。天使の加護……祝福が崩れないように小生が守るよ。……慎重に動いてね」
白薔薇に祈りを込めながら、バラキ・エルが線を引く。
「ありがとう、皆。感謝するよ。……それでは、天使教皇様。ご決断を」
シ・エルの声は静かで強い。
ーーゆっくりと、王座が脈打った。
テンポが悪いのは承知の上で、一旦全部書きます。
僕の好きな人が言っていた「神様は、喋らない方が良い」を再現。




