64.相手のためを想った【優しい嘘】なら——それは、誠実
少しだけ、叡智な表現がありますが、愛しているからこそ……という表現です。
マリアは眠った。ユーサの腕の中で。
彼の胸元に顔をうずめた小さな身体が、ようやく見つけた安らぎの証。
安心したように、満ち足りたように、彼女は息を吐き、そっと目を閉じた。
父の腕の中。そこは、彼女が一番安全だと信じている場所だった。
マリアが眠ったからこそ、ユーサたちは帰ることを決めた。帰るべき場所に。
そして、静けさに包まれた家の扉が閉まり、家族を迎え入れる。
ユーサはマリアを寝室へと運び、やさしく毛布をかける。
小さな寝息がリズムよく聞こえる頃、そっと部屋を出て、リビングへ戻った。
「あなた。お茶、いる?」
ディアの声が柔らかく響く。微笑んだその顔に、疲れが滲んでいるはずなのに、どこか少女のような照れがあった。
「うん。いただこうかな」
テーブルの上には、二つのティーカップ。
美しい花模様の縁取りが施された白磁の器が、静かに湯気を立てている。
——二つのカップ。
その光景に、ユーサの胸がかすかに揺れた。
かつて前世、典安だった頃。向かい合ったティーカップの横にあったのは、離婚届。
「もう一緒に笑えない」と突きつけられた書類を前に、彼は何も言えなかった。言葉はあったのに、声が出なかった。
ようやく“向き合おう”と買いに行ったペアカップも、触れた手が震えたせいで落として割った。あの時、彼は痛いほど知ったのだ。
——壊れた器は、戻らない。
けれど今、目の前にある器には、ディアが注いだ温もりが湛えられていた。
そっと口に運ぶその横顔。おいしそうに微笑む妻の姿。
「……どうしたの? あなた。冷めちゃうよ?」
「……あ、ああ。ありがとう、ディア。いただきます」
一口。ふわりと鼻腔をくすぐる淡い香り。
その味わいは、決して強くない。それでも、胸の奥にやさしく染み渡る。
(……これが、ほしかったんだ)
前世で手に入らなかった、静かな幸福。ようやく届いた“当たり前”の奇跡。
ただ、飲み進めるうちに、ユーサはある違和感を覚えた。
身体の芯が、不思議と熱を帯びていく。
重たかった疲れがすうっと引いていく感覚。
まるで、男としての血の巡りが良くなったかのような——
(これ……まさか)
ユーサが気づいたときには、ディアがカップを見ながら、小さく笑っていた。
それは確信を秘めた微笑で、けれど何も言わず、お茶を飲み干した。
沈黙が流れる。
二人でただ、今という時間を味わっていた。
やがて、火照った顔のディアがふと口を開く。
「ねぇ、あなた。もうちょっと飲みたいな」
「ん? ああ、わかった。今度は僕が注ぐよ」
立ち上がろうとしたその瞬間——
「……あなた」
ディアが唐突に抱きついてきた。
「ディア!?」
ティーポットをそっと置いて、ユーサは彼女の身体を受け止める。
肌越しに伝わる熱と鼓動。彼女の息が、浅く、熱を帯びていた。
「もう……我慢できないの。あなたの血が、欲しい……」
その声は、切なさと衝動が交じった囁きだった。
「……うん。いいよ」
ユーサは迷わず、彼女の背を撫で、首筋を差し出す。
そしてディアは、愛おしげに、慎重に、その牙を埋めた。
彼女の種族は、吸血鬼。
赤い瞳を“不吉”と恐れられ、血を欲する体質に“忌み”を押しつけられた存在。
けれどユーサだけは、その赤を「宝石のように美しい」と言い、
誰もが逃げたその性質を、「僕の血だけを吸えばいい」と笑って肯定した。
それが、ディアを救った。
「……あの、ディア。立ったままだと、少し……」
「あっ……ご、ごめんなさい。あなた……久しぶりだったから……」
頬を染め、恥じらうその姿に、ユーサは微笑んで頷いた。
二人は静かにマリアのいない寝室へと向かう。
。。。。。。。
ディアは、そっと着物を脱いだ。
布が滑り落ちる音さえ、夜に溶けていく。
彼女の胸元があらわになった。
豊かすぎるその胸を、彼女はかつて“異形”だとさえ思っていた。
男の視線を集め、女の陰口を囁かれた若き日。
けれど、今。その裸を許すのは、ユーサただ一人。
その胸を隠すことなく、誇るでもなく、ただ“在る”ことを許された空間。
「ねぇ、あなた……」
ディアはそっと、ユーサをベッドへ押し倒し、彼の上に覆いかぶさる。
「二人目が……欲しいな」
妖艶な声音と視線。けれどそこにあるのは、欲ではなく、おねだりだった。
「……マリアが産まれてから、久しぶりだし。……いいよね?」
ユーサの心に、何か熱いものが灯る。
男としての衝動——しかしそれ以上に、家族としての“続き”を紡ごうとする強い想いが湧き上がっていた。
ユーサは言葉にせず、頷いた。
そして、ただディアの赤い瞳を見つめ、固まっていた。
「……あなた?」
「……やっぱり、ディアの瞳は、宝石みたいに綺麗だなって思って」
その言葉に、ディアの動きが止まり、ぽろりと涙が零れた。
「!? ごめん、ディア!! ……別にしたくないってわけじゃなくて……!」
慌てるユーサ。
だが、その涙の意味は違っていた。
「……やっぱり、あなた、だ……」
その声は震えていた。
「あなたの中に、別の“あなた”がいた。
もしかしたら、今ここにいるのは……私の知らない誰かかもしれないって。だから、怖かった……」
ディアは、一度だけ瞳を閉じて、何かを決心した瞳として開いた。
「ねぇ、あなた。生き返った理由は……聞かない。でも……これだけは、教えて?」
ユーサの鼓動が跳ねた。
『これからも……ずっと、一緒にいられるんだよね?』
ユーサは、その問いに、即答できなかった。
ー 『六つの召命を完遂した後、君には死んでもらう』 ー
ユーサの脳裏に蘇る、神の声。
ー 『物事がうまく進むための【優しい嘘】は、悪ではない。
見せかけの温もりじゃなく、本当に相手のためを想った嘘なら——それは、誠実だ』 ー
ユーサはゆっくりと、ディアを見つめて微笑んだ。
「……うん。ずっと一緒だよ、ディア」
ディアは、ほんの一瞬だけ大きく目を見開いて、そして微笑んだ。
「……よかった」
震えた声だが、その笑顔は、どこまでも優しかった。
その真っ直ぐな笑顔を見ると、【優しい嘘】を剥がしてしまいそうになるユーサ。
胸を貫かれた感覚に耐えられず、彼は顔が見えないように彼女を抱きしめた。
「これからも……ずっと……一緒だよ……」
耳元で囁いたのどちらだったのだろうか。
わからなくなるほどに、二人は静かに体を重ねた。
そこから先は、欲望ではなく、愛を確かめ合うための儀式だった。
ただの夫婦の営みではない。
それは、身体だけではなく、魂と魂を触れ合わせた。
愛の言葉よりも、深く長く。
——優しい嘘を添えた、ふたりだけのぬくもり。
ユーサは、ふと窓の外を見た。
——そこに、彼の願いを叶える【月虹】は、浮かんでいなかった。
第1章も残りあと1〜2話です。
過去のプロットを見たら、この話は2022年3月に第13話として入っていました。
そのぐらい、予想以上に登場人物達が動いてしまいました。
そして、【優しい嘘】の意味。ずっと書きたかった話です。




