57.地図に無い場所へ【ウィル】
——扉に触れたその瞬間、光の粒が舞い上がり、ザドキ・エルの視界が溶けるように転じていく。
次に感じたのは、信じられないほど柔らかな感触の大地だった。
草ではない。足元には、無数の光を湛えた花弁たち——淡い輝きと共に敷き詰められた幻想の花畑。
まるで世界そのものが優しさで編まれているかのように、柔らかく香り立つ。
空を仰ぐと、夜。
だがそこには、月虹——七色の光の橋が夜空に弧を描いていた。
星々が寄り添うように瞬き、時さえ止まっているような静寂。
「……ここは……」
漏れた声は、驚きというより、彼女の望んだ安泰の場所への祈りに近かった。
音もなく咲き乱れる花々の中で、ザドキ・エルはただ一人、まっすぐに道を踏みしめていく。
その歩みにあわせて、草花が静かに揺れ、彼女を歓迎しているかのように道を拓いた。
——まるで、生まれ変わる道を導かれるように。
「……どこ?……」
まるで夢の中のようだった。
けれど、これは夢ではない。幻でもない。 すべてが、あまりに鮮明すぎる夢のような場所。
そのときだった。
「迷わず、よく来たね」
その声に、ザドキ・エルの背筋が伸びる。
彼女の視線の先。
花で編まれた椅子に、ひとりの女性が静かに腰掛けていた。
長く流れる銀の髪。白磁のように滑らかな肌。
睫毛も眉も、目元も、すべてが淡い銀に染まり、ひとつの命のように調和していた。
その姿はあまりに静謐で、あまりに美しくて。
——『人」ではない。
そう、ザドキ・エルは本能で理解した。
この人物の前では、天使でさえひれ伏すだろう。
罪も、過去も、痛みも、すべて見透かされているかのような静かな威厳。
そしてその上で、暖かく包み込むような眼差し。
「……まさか……貴女様は……神で、ございますか……?」
声が震えた。名前も、肩書きも聞かずとも、彼女の中に生まれた確信。
それは恐怖ではない。真実に対する、畏れと感謝の混ざった敬意だった。
女性は微笑んだだけだった。
そして静かに、頷くかのように視線を返す。
それ以上、名乗りはしない。
だがそれだけで、充分だった。
——この方は、すべてを知っておられる。
そう、ザドキ・エルは直感した。
名も、罪も、光も闇も、始まりも終わりも。
自分の人生の全てを見通している存在。
そして、ザドキ・エルはその場で膝をついた。
崩れ落ちるように。
涙があふれる。
胸の内を形にせずにはいられなかった。
「……わたくしは……過ちを犯しました……」
悪魔に支配された両親を救うために、自分が集めた証拠が、かえって処刑の火に油を注いだあの日。
母が、最後に叫んだ——「あんたなんか、産まなければよかった」
それが呪いのように、彼女の全人生を縛ってきた。
懺悔。
そして——嗚咽。
だが、花の椅子に座る神は、立ち上がり、そっとザドキ・エルの額に手をかざした。
「その記憶、本当に正しかったのかな?」
女神のような声が、静かに問いかける。
そして、彼女の指先が額に触れた瞬間——世界が反転した。
——視界が映し出したのは、過去。
両親が火刑に処されるあの日。
燃え盛る杭。
崩れた足元。
叫ぶ自分。
そして——母親が、最後に言った言葉。
ー 「辛い思いをさせて……ごめんね……」 「……幸せに、生きて……」 ー
その声は、涙に濡れていた。
それは、少女が、あの時聞こえた“呪いの言葉”ではなかった。
ー 「……こんな母親で、ごめんね……」 「後悔しないように、生きて……」 ー
そして、次の言葉。
ー 「……愛してる……」 ー
最後に、母は懐かしい名前を呼んだ。
——天使になる前の、本当の名。懐かしい名前。
(……ああ……そうだった……私の名前……)
涙が、止まらなかった。
その響きは、ザドキ・エルの心を一瞬で溶かした。
炎の中で朽ちるその記憶は、決して呪いなどではなかった。
それは、娘を愛した母の最後の祈りだった。
懐かしいその音に、ザドキ・エルの胸が痛む。
やがて、視界が元に戻る。 エデンの花園。
「……今のは……?」
涙が止まらず、震える声で問うザドキ・エルに、椅子に座る神は、ただ静かに頷いた。
「本当の記憶だよ。君の記憶は“幻”に書き換えられていた」
——今まで見ていた、あれは“幻”だった。
悪魔に寄生された両親。
自分を操るために見せられていた、呪いの“幻”。
ずっと忘れていた。両親の愛。真実。
否。
忘れさせられていた。
過去は、歪められていた。
今までの記憶は、悪魔——サキュ・B・アークによって書き換えられていた。
両親から少女へ寄生する直前。
呪いのような“幻”を見せ、自責の念に囚わせた——それが、ザドキ・エルの原罪の正体。
「君のせいじゃない。君は、悪魔に弄ばれた被害者だったんだ」
そう告げる女神の声が、心に沁みた。
けれど——
ザドキ・エルは、震える指先を見つめながら呟いた。
「……それでも私は……多くの人を……裁きました……」
その罪は、消えない。
「そうだね……。確かに、犯した罪が消えるわけではない……」
しかし、女神は穏やかに微笑み、首を横に振る。
「だからこそ——今から“やり直そう”」
厳しさと優しさを秘めた声。
「——『後悔しないように生きて』。それが、君の母の願いだったよね?」
ザドキ・エルは、両手で顔を覆い、そして——涙を拭う。
目を開いた時、そこには新たな決意が宿っていた。
「……はい……やり直したい……生き直したいです……」
その瞬間、エデンの空がひときわ輝いた。
月虹が、ほんの少しだけ、色を変えた気がした。
「では、ザドキ・エル。君にしかできない、君だけの【召命】を授けよう」
◯ ◇ ⬜︎
【召命】を聞き終えたザドキ・エルは、深く息を吸い、再び涙をぬぐった。
あふれる感情を押しとどめるのではなく、きちんと流して、きちんと終わらせるために。
そして、ゆっくりと一歩、光に満ちた花の道を踏み出す。
昨日までの自分に、静かに別れを告げるように。
歩くたびに、エデンの夜が少しずつ晴れてゆく。
濃紺の空にかかっていた月虹が、朝焼けのようにやさしく溶けて消えてゆく。
それはまるで、この世とあの世の境界が少しずつ薄れていくかのようだった。
あの世から現世へ。
生まれ変わるように、彼女は歩き出した。
ふと、『本当の名前』を呼ばれた気がして、彼女は後ろを振り返る。
そこには、彼女の両親がいた。
焼かれ、裁かれたはずのふたりが、今は穏やかな顔で、彼女に手を振っていた。
言葉はなかった。
けれど、その笑顔がすべてを伝えていた。
——こちらに来るのは、まだ早いよ。
——生きて。後悔のないように。
——幸せになって。
叶わなかったはずの、優しい別れ。
けれど今、この場所だけが許してくれた奇跡のひととき。
ザドキ・エルは、決して涙をこぼさず、ふたりに背を向ける。
強く、真っ直ぐに歩き出した。
その背が光に溶けてゆく頃、両親の姿もまた、風のように消えていった。
それが幻だったのか、本物だったのか。
誰にも分からない。
ただ一人、見送る者を除いて。
白銀の髪を揺らし、花の椅子に腰かけたままのエデンの主——ジャンヌ。
誰もいなくなった楽園の花園で、
ジャンヌは、ほんの一瞬、唇の端を持ち上げた。
それは、穏やかな慈愛の微笑みにも見えた。
けれど、どこか——言葉にできない、静かな“含み”を孕んでいた。
まるで、何かを知っているかのように。
あるいは、何かを仕掛けたかのように。
——その意味を知るのは、神だけ。




