55. 闇魔さえも映らない世界(ニュー・ワールド)
サキュの指先が、宙を舞った。
まるで雑草が刈り取られるかのように、鋭く、一瞬。
「AAA——A——!!!?」
声にならない断末魔。
その指先は地に落ちる間もなく、誰かのブーツによって無造作に踏み砕かれた。
「……昨日ぶりですね。サキュ・B・アーク」
低く、静かに、だが確かに威圧をもって響く声。
漆黒の大鎌を肩に担ぎ、緑の片翼をたなびかせるその天使——
ク・エルが、サキュを見下ろしていた。
「ク……ク・エル……!? な、なんで!? あんたは、牢屋に……!」
震えるサキュの瞳。
ザキヤミの天使長・ク・エルは、確かにサキュの策略で異端牢に封じられていたはずだった。
だが、彼女は今ここにいる——誰よりも強く、美しく、冷然と。
「……あら、あの牢屋。あなたがご手配くださったんですね」
ク・エルは微笑んだ。だが、その声色は凍てつくような怒りを秘めていた。
「……可愛いドブネズミさんがいましたよ。素敵なお部屋でした。
ご配慮、ありがとうございます。おかげで、たっぷり休めました」
漆黒の大鎌が、光を反射して妖しくきらめく。
その刃先は、まっすぐにサキュを見据えていた。
「__ッ!? 聖戦の時は、天使に毛が生えたばかりのメスガキが! 逃げてばかりいたクソ雑魚が!!」
サキュの苦し紛れの罵声が、怒鳴り散らされる。
「……そうです。まだ天使になりたてで、何もできませんでした」
ク・エルは否定しなかった。
「……天使になっても、逃げて、逃げてばかり……そんな人生でした」
だが、そこにあったのは悔恨ではなく、過去を“受け入れた”者の凛とした声。
「……けど、“次に備えて逃げることは悪ではない”って、私は教えてもらいました」
その瞬間——天上の映像リンクに映るシ・エルが、ふと柔らかく微笑む。
「……【暴食】の悪魔を倒して、天使になったあの日から——
私は、苦しみも、悲しみも、哀れみも、全部……
噛み締めるんじゃなく、飲み込んで、食べ尽くして、生きてきました」
ク・エルの背に広がる片翼が、神の祝福により巨大化していく。
天に向かって唸るような風が巻き起こる。
その信仰力は、既にサキュの魔力をはるかに凌駕していた。
「な……この力……!?」
サキュの顔から血の気が引く。
自分が閉じ込めたはずの少女。
だがその少女は、もう“子供”ではなかった。
「……あなたは、いつまで過去に生きているのですか?」
ク・エルの言葉は、断罪の鐘のように響いた。
「……だから勝てなかったんですよ。ユーサ・フォレストに」
その一言が、サキュの自尊心を抉った。
怒りと屈辱、そして——
「__ッヒ!!」
初めて漏れた“恐怖”の声。
サキュは、大鎌を前にしたその場から、空へと逃げ出した。
「……夢を叶えるために。……親子が幸せに暮らせる、悪い魔のない新たな世界を作るために……!」
ク・エルの翼が、研ぎ澄まされた刃のように風を集めながら広がる。
「《……私はもう夢の中にはいない。空の向こうへ……》」
「《神の奇跡》」
緑の風が彼女の体を包み、彼女を祝福する滑走路を描く。
風の奔流が、神の翼となって彼女を押し上げる。
逃げるサキュの前——
一瞬で現れたク・エルの姿が、空を切り裂いた。
「《闇魔さえも映らない世界》」
大鎌に纏った風の刃が、真一文字に振り抜かれる。
「A……A……ああああああッ!!!」
サキュの悲鳴と共に、空が閃光に包まれる。
「……これ以上、聞くに耐えません」
ク・エルの瞳に、一片の迷いもなかった。
断罪の天使は、最後の審判を下す。
「……ザドキ・エル最天使長。
この悪魔を“食べ尽くします”」
刹那、大鎌が唸りを上げる。
彫られた“ハエ”の意匠が、禍々しい緑の光を放った。
サキュの体が、【死の灰】に変わり始める。
「あ……あ……ア……!」
それは悪魔としての存在そのものが、信仰の力で“浄化”される証。
……そして——
サキュ・B・アークの絶叫が、風と共に消えていく。
セブンスヘブンの天使共有の映像により、ザキヤミの一部を任されている天使長ク・エルの実力が各都市に知れ渡る。
実力のある者であれば、サキュが五体満足でも圧倒的な戦力差がわかるほどの信仰力と神の奇跡。
「ク・エル天使長に昨日勝ったという、ユーサ・フォレストは、もっと強いということなのか?」
教会の信徒達が呟く。教会に潜む悪魔も、全力の彼女に見つかれば死を意味する事を知る。
そして、ク・エルの実力を証明してくれた、サキュの漆黒の体は灰となり地に落ちた。
その【死の灰】が誰かの【秘宝石】により吸収されていく。
「……終わりにしましょう、ザドキ・エル最天使長」
ザドキ・エルの【秘宝石】だった。
天使になったと証明するための宝石。
ク・エルはそっと、ザドキ・エルの手を取り、ザドキ・エルに【秘宝石】握らせて、手を重ねた。
そして、共にサキュの【死の灰】を吸い上げた。
ザドキ・エルが悪魔に支配された過去を、共に背負うように。
「ク・エル……? なぜ……私に……?」
ザドキ・エルの瞳には、もはや敵意はない。
あるのは、ただ理解できぬ“優しさ”への問いだった。
ク・エルは微笑む。
「……シ・エル様から、聞きました。あなたが、天使になった理由を。 ……家族と幸せに暮らせる世界を望んでいたと。 だから、私は思ったのです……」
その瞳は、涙を宿しながらも、真っ直ぐだった。
「……あなたも、私の“夢”を叶えるための、一人なのだと」
ザドキ・エルの頬を、一筋の涙が伝う。
ザキヤミが誇る『最優』の称号を持つ天使、ク・エル。
ザドキ・エルは、力なく笑いながら、呟いた。
「ク・エル……あなたの方が、最天使長の器だね……」
そして、静かに目を閉じた。
「だから、お願い……ク・エル。あなたの刃で……私を……。
今まで私が“裁いてきた者たち”と同じように……」
因果応報。過去は消えない。
背負いきれない数々の罪。
死を罰として、ザドキ・エルは償いの決意をした。
一瞬、悩みながら彼女の決意を改めたかったク・エル。しかし、彼女の決意を無下にできず、黙ったまま大鎌に手を伸ばそうとした。
だが——
「ク・エルおねえちゃん! まって!!」
その声が、重たい空気を裂いた。
「……マリアちゃん……?」
ク・エルの躊躇いをかき消すように。
小さな体で、両手を広げてク・エルの前に立ちはだかる。
その背後には、ディアが、肩を貸しながらユーサを支えていた。
「ク・エル天使長、待ってください。夫が……何か、言いたいそうです」
「……ユーサ・フォレストが?」
ク・エルは目を見開き、ゆっくりとユーサに視線を移す。
「ありがとう、ディア。マリア……間に合ったね」
苦しげな呼吸の中、ユーサは左手を差し出した。 その手から、青と黒の光が静かに揺れる。
「ザドキ・エル……。
貴女がもし、“やり直す”決意を持っているのなら……。
どうか、その手で“次の扉”を開いてください」
光はやがて、彼女を包む神秘へと変わっていく。
ー 「 涙が晴れれば、歩き出せるから 」 ー
——《神秘術》
《地図に無い場所へ(ウィル)》——
ユーサが呪文を唱えた、その瞬間。
ザドキ・エルにしか見えない“扉”が、静かに開いた。
涙を拭うように、その青と黒の光は彼女を包み込む。




