53.人の殻を壊し、天使になれ【ゲット・アウト・フロム・ザ・シェル】
明けない魔夜中が、再びザキヤミを覆う、その瞬間だった。
——教会全体に、異様な気配が走った。
「ッ……この感覚……!」
牢の奥で、ク・エルははっと目を開いた。
気づけば、天使共有の連絡手段であるリンクは、消えていた。
重い鎖に繋がれ、座り込んでいた体がかすかに震える。
鉄格子の向こう、廊下を見張る信徒たちがざわつき始めた。
「おい、様子が変だぞ!」
「ザドキ・エル様が……いや、“主”が現れたらしい! 全員、配置に就け!」
見張りたちは慌ただしく持ち場を離れ、警備が一気に手薄になる。
廊下に生まれた一瞬の隙をついて、影が駆けた。
「今だ、アユラ! ガケマル!」
修道服を着た小柄な少年、破壊の修道士オトキミが声を張り上げる。
アユラはすかさず手を伸ばし、秘術道具で鍵の細工を始めた。
ガケマルは分厚い腕で鉄格子を掴み、静かに、しかし着実にねじ曲げようとする。
ギギギ……ガシャ。
小さな音とともに、扉がわずかに軋んだ。
「よし、あと少し……!」
アユラの指が錠前を素早く操作する。
鉄格子の間から、オトキミが顔を覗かせた。
「ク・エル天使長! 今、助けます!」
だが、ク・エルはかすかに微笑みながら、そっと首を振った。
「……危険です。この牢は特別なもの。簡単には壊れません。それに……」
外から聞こえてくる魔力の轟音。
——ザドキ・エル、サキュ、二つの影がザキヤミに再び闇をもたらそうとしていた。
廊下の奥、鉄格子越しに見える三つの影。
オトキミ、アユラ、ガケマル。
三人は必死に救出を試みながらも、ク・エルを見つめる目は真っ直ぐだった。
「大丈夫ですよ、ク・エル天使長。こんな窮地、慣れっこです。それに……本当に、天使長ですら動けないんすね」
オトキミが静かに呟く。
アユラは真剣な眼差しを向けながら、黙々と魔力装置の鍵をこじ開けようとし、
ガケマルは無言で鉄格子を押し広げようとする。
「オトキミ様。この魔力装置と鍵……プロの泥棒なら三秒で諦めます」
アユラが秘術道具を操りながら小声で言った。
すると隣で、マッチョなガケマルが「ガ、ケ、マ、ル(すぐ壊せる)」と危険な提案をする。
「おいアホか、ガケマル! 入口ごと壊したらク・エル天使長が出られないだろ!」
オトキミが慌てて制止する。
だが、ク・エルは彼らの必死さと優しさに、静かに微笑んでいた。
「……ありがとうございます。でも、どうか、今は『皆さんにしかできないこと』をしてください。私は……大丈夫です」
オトキミはぐっと拳を握り、真剣な目で叫んだ。
「でも、ク・エル天使長は! あの時、ユーサのアニキを助けてくれたじゃないすか! ディアさんも、マリアちゃんも、街のみんなも、俺たちも!」
アユラも続けた。
「俺たちは、あの恩を忘れません。だからこそ、今度は俺たちが貴女を守りたいです」
ガケマルも、寡黙なまま分厚い拳を胸に当ててポーズをとる。
『オ、レ、達、の(恩返しです!)』
ク・エルはしばらく黙っていた。
心に、温かい何かがじわりと広がる。
(……天使になってから……こんなふうに“守られる”なんて……いつ以来でしょうか)
救うことはあっても、救われることはなかった。
だが今、目の前には、自分を救おうとしてくれる者たちがいる。
「……皆さん。本当に……私は、幸せ者ですね。……ありがとうございます」
静かに微笑みながら、ク・エルは首を振った。
「……ですので、私のことより、今できることを——ユーサ・フォレストを、ディア様とマリアちゃんを、助けてください。……私は大丈夫です」
オトキミ、アユラ、ガケマルは、数秒眼を見て、力強く頷いた。
「はい! 必ず助けます!!」
三人は、再び牢の外へ駆け出していった。
廊下の奥、希望を背に進む三つの背中。
ク・エルは、その光景を静かに見送り、独り牢に残された。
鉄格子の中。
冷たい鎖の感触を確かめながら、ク・エルは呟いた。
「……さて、シ・エル様は、休めと仰いましたが……。困りましたね、こう何もできないと」
——その時、胸に蘇った記憶。
ー『困った時に、過去に戻りたいと思うこともあるけど、過去には戻れない。でも、そんな時は“初心に戻ってみる”と良いよ』ー
それは、かつて『時を司る』天使としてシ・エルから掛けられた言葉だった。
「……初心。……私が天使になった理由……」
ク・エルは静かに瞼を閉じた。
——自分が、まだ天使になる前だった頃。
「……リア……貴女達に誓った神への約束は、今でも……」
暗闇の中、自分の原点へと——意識を沈めていく。
静かに閉じた瞼の奥で、過去の情景が蘇る。
◇ ◇ ◇
ク・エルが生まれ育ったのは、緑豊かな小さな村だった。
田畑は黄金に波打ち、季節ごとに豊かな実りをもたらす大地。
土地は肥え、作物も豊富で、村人たちは自給自足しながらも、外国とも取引を行っていた。
娯楽はほとんどなかったが、ク・エルは満ち足りていた。
母と共に過ごす日々。
稲刈りを手伝い、草を刈り、土にまみれて汗を流す。
父は町へ出稼ぎに出ていて、ほとんど家にはいなかったが、
母の温かさが、ク・エルにとって何よりの支えだった。
——だが、その幸せはある日、突然終わりを迎える。
久方ぶりに帰ってきた父は、もう“父”ではなかった。
その瞳は虚ろで、顔に笑みはない。
胸の奥からぞっとするような気配が滲んでいた。
その夜、村に災厄が降りかかった。
父は【暴食の悪魔】に憑かれていた。
村の食料も、作物も、村人の命すらも、すべて貪り尽くす狂気。
悪魔に支配された父は、もはや家族を認識することすらなく、ただ欲望のままに村を蹂躙した。
逃げ惑う村人たち。
火に包まれる麦畑。
崩れ落ちる家屋。
そして、襲いかかる父の前に、母が立ちはだかった。
「逃げ……なさい……!」
母の叫び声と、血の匂い。
庇うようにして倒れた母の体。
ク・エルはただ、無我夢中で走った。
胸元には、母が最後に託してくれた、小さな無色透明のペンダント——。
ー 「いつか、困った時が来たら、この石で神に祈りなさい。教会の天使様よりいただいた加護付きよ」 ー
そう言われて受け取った、大切なものだった。
握り締めたまま。
逃げた。
ただ、逃げた。
愛していた村も、家も、人も、すべてを失った。
——その後のク・エルの人生は、逃亡だった。
村を襲った悪魔に支配された少女として、教会に異端認定され、追われる身となった。
飢え、寒さ、孤独。
森の中、洞窟の中、打ち捨てられた納屋。
食べ物も、水もなく、誰にも頼れない日々。
それでも、母の教えを胸に、ク・エルは祈り続けた。
ー 『子供は親の宝物。だから、幸せになりなさい』 ー
その言葉だけを心の支えに、ただ生き延びた。
——そして、運命の日。
餓死寸前で倒れたク・エルを、救ってくれた者たちがいた。
寡黙な男と、その娘、リア。
男は、病で妻を亡くし、幼いリアを一人で育てていた。
リアは天真爛漫で、初めて出会ったク・エルに、すぐに「お姉ちゃん」と懐いた。
彼らの家に迎え入れられ、ク・エルは初めて、「家族」の温もりを知った。
「どうして、私なんかを助けてくれたの?」
ク・エルが問うと、男は少し照れたように笑った。
「……娘が、“助けたい”って言ったからだよ」
リアは、にぱっと笑ってク・エルの手をぎゅっと握った。
「お姉ちゃん、守るからね!」
それは、涙が出るほど嬉しかった。
「家族はね、幸せにならなくちゃいけないんだよ!」
ー 『子供は親の宝物。だから、幸せになりなさい』 ー
リアの言葉と笑顔に、母の姿が重なる。
ク・エルもまた、心の底から、この家族を守りたいと思った。
——この家族と一緒に、幸せに生きたいと、願った。
だが——幸せな日々は、長くは続かなかった。
父が、再び現れたのだ。
【暴食の悪魔】に支配された父が、ク・エルを追って、村を嗅ぎつけた。
男はリアを庇い、ク・エルを庇い、立ち向かった。
「早く逃げろ……!」
「お姉ちゃん、逃げて! 絶対、死んじゃダメだよ!」
だが——人間の力では、悪魔の支配には敵わなかった。
リアも、男も、ク・エルの目の前で命を奪われた。
目の前で、二度目の大切なものを、失った。
そして、絶望の淵で、ク・エルもまた、父に刃を向けられた。
「このガキを殺せば……俺は助かる……! 教会に根回しして、指名手配にして良かったぜ!!」
胸を貫かれたク・エル。
流れる血より、貫かれた胸よりも痛い思いをする事になる。
父は、ク・エルを娘ではなく、自分の“生贄”として【悪魔】に差し出そうとした。
そこに、親子の愛も、絆も、何もなかった。
——絶望。
「神さま……私が生まれたのが……間違いなら、教えてください……」
生死を彷徨う中、血に濡れた指で、最後に握りしめたペンダント。
その瞬間——
色の無いペンダントが、鮮やかなエメラルド色に輝いた。
ーー『君は、何も間違っていない』ーー
暖かな声が、胸の中に響いた。
ーー『間違っているのは、この世界だ。この世界(悪夢)を……』ーー
ペンダントは、神の【秘宝石】へと変化し、
ク・エルの背には、緑色の片翼が生えた。
ーー『その手で、【破壊しよう】』ーー
全身に満ちる力。
神は祈りを捧げた者に相応の奇跡と信仰力、そして神の奇跡を授ける。
母の形見だった草刈りで使っていた棒が、巨大な大鎌へと変貌する。
そして、ク・エルは立ち上がった。
——【暴食の悪魔】を、討ち滅ぼすために。
倒れた父の亡骸に、もはや憎しみはなかった。
ただ、哀れみと静かな祈りだけがあった。
そして、ク・エルは、横たわるリアたちに向かって、
神の奇跡【再生女神の抱擁】を使った。
彼女たちの傷は塞がれ、眠るような安らかな姿を取り戻した。
だが、命は戻らない。
ー 「家族はね、幸せにならなくちゃいけないんだよ!」 ー
リアが夢見た、家族で幸せに暮らす世界。
ク・エルは、彼女たちの手を取りながら、静かに涙を流した。
ーー『夢は夢のまま、変わることはない。魂を通して、実現させよう』ーー
涙の世界で、何も見えない意識の中で、神の声が聞こえた。
——親子が、幸せに暮らせる世界を作るために。
それが、彼女の天使となった理由だった。
◇ ◇ ◇
幾日も、冷たい牢の中で、ク・エルはただ膝を抱えて座っていた。
【暴食の悪魔】を倒した少女。
しかし、教会は彼女を異端とみなし、恐れ、封じた。
彼女もそれに対して抵抗はしなかった。
それは、救いたかったはずの命を守れなかった。
それどころか、自らの存在が災厄を招いたとさえ思えた彼女なりの贖罪。
祈りも、涙も、とうに枯れ果てていた。
そんな時だった。
牢屋の向こう、足音が響く。
「なりません! まだ誰も通すな、という指示が……!! 危険です!」
「危険? 何を言っているんだ君は? 彼女の力を見ていないのかい?」
牢屋の外で、男たちのやりとりが交わされる。
「あの【暴食の悪魔】を退治したほどの力ですよ! 危険以外の何があるというんですか!」
「余が言っているのは、彼女が授かった【神の奇跡】のことだ。
『最高』に優しい力だと思わないかい?」
耳を塞いでいたク・エルは、その言葉にそっと顔を上げた。
制止する門番を軽くあしらい、ひとりの男が歩み寄ってきた。
蒼と黒のコーンロウヘア。
片翼の天使の羽と、不釣り合いな軍服コート。
宝石のように透き通った眼差し。
軽やかで、しかし底知れぬ重みを纏った天使——
「やぁ、余はシ・エルというんだけど」
男は牢の前で膝をつき、柵越しに静かに微笑んだ。
「君、神の声が聞こえたよね?」
ク・エルはかすかに顔を上げた。
泥と血に汚れた少女の顔に、シ・エルは一片の嫌悪も見せなかった。
「……何て聞こえた?」
かすかな声で、ク・エルは答えた。
「……“君は間違っていない。間違っているのは世界だ”……」
その言葉を聞いた瞬間、シ・エルの唇に深い笑みが広がった。
「……“この世界(悪夢)を……その手で、【破壊しよう】”……と」
ク・エルは、胸元にかけたエメラルドのペンダント【秘宝石】に目を落とした。
「——なるほど。やっぱり、君は選ばれたんだね」
シ・エルは懐から、サファイアとオニキスの【秘宝石】を取り出す。
どこにでもある美しい宝石ではなかった。
ク・エルの持つものと同じ、神に選ばれた者だけが持つ【秘宝石】の光。
「続けて、破壊神様はこう言わなかったかい?」
牢の柵ごしに、シ・エルは静かに口にした。
『——【人の殻を壊し、天使になれ(ゲット・アウト・フロム・ザ・シェル)】』
その言葉が、牢の中の空気を震わせた。
——破壊された村も。
——守れなかった親子も。
——取り戻せない痛みも。
それでも——
ク・エルの胸の奥に、失われかけた“情熱”がふたたび灯った。
「君が得た神の奇跡を見たよ」
シ・エルは、静かに語った。
「傷ついた者を、間違ったままにはしない優しい奇跡だ。
最高に優しい神の奇跡だよ。
君はきっと、誰よりも優しい天使になれる」
教会の誰もが、彼女を恐れ、否定した。
だが、彼だけは違った。
「余は、回復の奇跡は使えない。
だから、先に君にお願いしたい」
シ・エルは手を伸ばし、そっと告げた。
「君自身を、もう二度と傷つけないで欲しい」
——涙がこぼれた。
「そして、これからは、余が君を守る。
誰にも、君を傷つけさせない」
信じていた大人たちに裏切られた。
信じていた神に見捨てられたと思っていた。
でも、この天使だけは、違った。
「君が抱える“悲しみの境界線”を取り払うなら——」
「——余たち【セブンス・ヘブン】は、君を歓迎するよ」
そう言って、シ・エルは手を差し出した。
戸惑いながらも、ク・エルはその手を取った。
運命の出会いだった。
——こうして、
少女ク・エルは、「人の殻を壊し、天使」となったのだ。
◇ ◇ ◇
そして、現在。
あの時と同じ牢屋の中。
ゆっくりと目を開けて冷たく錆びた鎖を見下ろしながら、ク・エルは静かに呟いた。
『——【人の殻を壊し、天使になれ(ゲット・アウト・フロム・ザ・シェル)】』
かつて与えられた使命。
忘れたことなど、一度もなかった。
ただ今、確かに初心を思い出しただけだ。
闇の中、彼女は再び——天使となる。
それは、彼女自身の存在意義だった。
長いので半分にしました。
ク・エルがディアに聞いた
「貴女にとって子供とは何か」の意味はこの話につながります




