48.罪悪に満ちた慟哭(ギルティ・クライ)②
重苦しい闇の中で、再び黒鞭が唸りを上げた。
悪魔ザドキエルの一撃は、確かにマリアを狙っていた。
しかし、次の瞬間、信じがたい光景が広がる。
――ズガンッ!!
石畳が閃光と共に砕け、黒鞭は地を裂いて地面へと突き刺さる。
だが、その軌道は逸れていた。
まるで、『何か』が彼女を『守った』かのように。
「UUUGA……っ! AAAAAA!!」
悪魔ザドキエルが頭を抱え、膝をついたまま呻き声を上げる。
巨大なその身体は震え、内側から壊れていくような異様な苦悶に包まれていた。
「マリア、大丈夫?」
ユーサはすぐに娘を抱き寄せた。
「うん……だいじょうぶ。でも……」
怯えたままのマリアの視線は、ザドキエルの方に向けられていた。
「……悪魔さん、くるしそうなの……」
その声は、小さくも澄んでいて、まっすぐだった。
「ユーサっさん。……さっきも、同じことがあったっす」
ギアドが低く呟く。
「この子が俺を庇った時も、悪魔の攻撃が、それたんすよ」
「本当かい?」
「はい、本当です」
そう答えたのは、ギアドの隣にいた少女。ジルの神秘術シャイニング・レイに救われた、あの子供だった。
「えっと……君は?」
「ケイです」
あどけなさの奥に、大人びたまなざしを宿したその少女は、静かに頷いた。
「私の時も……悪魔が『罪のある者、罪のない者……』って、呟いて苦しんでました」
「罪の……ある? ない……?」
ユーサは何かに引っかかるように、眉を寄せる。
そのとき――
「あなた。いまも、呟いてるわ……」
鋭い聴覚を持つディアが、そっと言った。
ユーサが顔を上げると、ザドキエルの唇が確かに震えていた。
「……罪のある者……罪のない者……AAAッ!!」
その断続的な呻きは、まるで神への訴えのように響いた。
「何やってんのよコイツ! しっかりしなさい!!」
焦ったサキュの声が割り込む。だが、ザドキエルの身体はもう、サキュの制御を拒んでいた。
__その時。マリアがぽつりと呟いた。
「パパ……あの悪魔さん、じゃない。天使さんの声が……きこえるの」
その言葉に、ユーサは息を呑んだ。
マリアの目に映るもの。それは『ただの悪魔』ではなかった。
彼女は、何か本質的なものを見抜いていた。
「AAAAAAAAAAAAAAAーー!!!!」
悪魔ザドキエルが両腕を振り回し、黒煙と瓦礫が吹き荒れる闇の空間に、咆哮が響く。
その只中で、父と娘は立っていた。
マリアは、小さな身体で倒れかけたユーサの前に立ちはだかる。
震えながらも決して退かぬその背中は、『守る』という純粋な意志で形作られた意志の結晶だった。
「マリア!? 危ないから、下がって!」
驚くユーサの手を、マリアはぎゅっと握りしめる。
「やだ。マリアが、まもるの」
その瞬間。
空間が裂けるように、サキュの苛立った声が響いた。
「……チッ! 子供を盾にして、恥ずかしくないのか? あんた」
しかし、返したのはマリアの叫びだった。
「『たて』じゃないもん! マリアはマリアだもん! パパをまもるもん! パパをきずつけないで!!」
震えながらも叫んだその声は、真っ直ぐに空間を貫いた。
そして、ユーサの脳裏にかつての記憶がよぎる。
――「私はママについていくから。アンタがどうなろうと知らない。……なんでアンタみたいなのが私の父親なのよ」
それは前世・典安だった頃、娘・真理に言われた最後の言葉だった。
向き合えなかった家族。信頼のない絆。残された後悔。
だが今。
目の前の娘は、自分を守るために立っていた。
「……ありがとう、マリア」
ユーサは、震える娘の頭にそっと手を置く。
「パパに、力を貸してもらってもいいかな?」
「……うん!」
涙を堪えながらも、マリアは強く頷いた。
パチ……パチ……パチ……パチン!
召喚の音とともに、武器が出現する。
ユーサの左手に握られたのは__《黒曜石の十手》。
かつて、法と秩序の象徴として『犯罪人を捕らえるため』に使われた、江戸の武器。
「だから何よ! そんな小道具で倒せると思うなよ! やりなさい!!」
サキュの命令が響く。
だが、その声に応じようとしたザドキエルの身体が、激しく痙攣する。
「罪のある者……ない者……家族……守るもの……AAAAAッ!!」
「!? さっきからずっと何やってんのよ!? 同じことばっかり!! いい加減に__っこのグズGAAAAA!!」
ザドキエルはまるで、理由もわからぬまま怒鳴られる子供のように怯え、苦しんでいた。
それはまるで――
『理由を聞かずに怒鳴る親』と
『うまく説明できない子供』の関係、そのものだった。
ユーサの脳裏に、前世・典安の記憶が蘇る。
娘が何かを訴えようとしていたのに、それを聞かず、仕事に追われ、苛立っていたかつての自分。
そして、信頼が壊れてしまったその結末。
「……確かに、子供を盾にしてるって思われても仕方ない。情けないかもだけど……僕も知らなかったんだ」
ユーサは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「一方的じゃだめだ。支え合うために、歩み寄らなくちゃいけない。……子供から教わる大切なこと、たくさんあるんだ」
その言葉と共に、ユーサはマリアを片腕に抱え、十手を振るった。
打ち下ろされた十手が、ザドキエルの足を打ち据える。
バキィン!
膝が砕け、巨体が崩れ落ちる。
「__!? なっ!? そんな武器で!!? GAAッ!!」
悪魔ザドキエルの瞳に、苦痛と――何かを思い出しそうな、迷いが揺れていた。
「……苦しんでいる理由、悲しんでいる理由を、知ることが大事なんだ」
ユーサは囁き、ギアドから託された秘術道具――《ヒア・ユア・ボイス》を手にする。
掌に収まるのは、裸の赤子を模した小さな人形。
胸元のハート型ボタンが、まるで命のように淡く脈打っていた。
「今なら……」
ユーサは、そっと右手の指を添える。
「ユーサっさん! スイッチを押して、ハートが光れば問いが響きます! 質問は一つだけっす!」
ギアドの声に、ユーサは頷いた。
「ザドキ・エル……あなたに、答えてほしい」
その瞬間――
指がボタンに触れた瞬間、ユーサの脳裏に奇妙な映像が走る。
――「その日、私は両親を庇った。あの少女のように」
見知らぬ教会。異端審問にかけられそうになる両親。
その前に立ちふさがる、必死に訴える一人の少女。
それは、若き日のザドキ・エル――彼女自身だった。
「あなた……?」
ディアの声でユーサは我に返る。
マリアが、そっとユーサの服を握っていた。
家族の声が、現実に引き戻す。
「今のは……いや。今は先ず……」
そして、ユーサはボタンを押し、問いかける。
「……貴女は、本当は、誰を救いたかったのですか?」
数秒の静寂。
そして。
どこからともなく、天使の歌声が流れ始めた。
* Je gémis le destin sans salut *
――救いなき運命を、私は嘆く。
黒い羽が、ふるふると震えた。
「私は……両親を、救いたかったのです」
その声は、間違いなく__人間の声だった。
* Écloses en chaos, les traces teintes de pourpre *
――咲き乱れし混沌の果て、紅に染まる痕跡の記憶。
天使の歌に導かれるように。
過ちを繰り返し、正義に縋った少女が、やがて悪魔となり……。
それでもなお、心の奥に残されていた「誰かを救いたかった」という祈りが、ようやく言葉になった。
そして。
救済への扉が、静かに、音を立てて開き始めていた。
ケイ。
モデル 北川景子
あれ?




