106[2-40].一つの真実を隠すには、沢山の嘘が必要《ライズ・アンド・トゥルース》
明日の朝、シ・エルの仲間が迎えに来て、出発する。
その言葉だけが、僕の中で浮いていた。
念のため家は危険だと考えて、ギルドの空いている部屋を借りて生活をしていた。
引っ越しの荷は、もう充分にまとめた。
でも、まとめればまとめるほど、胸の奥のざわつきだけが片づかない。
――《出発の前夜にオレの所に来てくれ》
ヘディさんとの約束を思い出して、僕は無意識に玄関へ向かっていた。
「あなた、どこ行くの?」
寝室からディアが出てきた。マリアを寝かしつけた直後らしく、髪が少しだけ乱れている。
「あぁ……ちょっとだけ外に出てくるよ。すぐ戻る」
嘘じゃない。つもりだった。
僕は靴を履き終えて、笑って見せる。
「こんな時間に?」
ディアの視線が鋭い。浮気を疑うとか、飲みに行くのを咎めるとかじゃない。家庭を守る人の目だった。
「この前行ったツェッペリンで頼んでた情報が、出発前夜に集まるって聞いてたから。確認したいことがあるだけ」
「……ふーん」
納得したふり。でも、納得していない空気。
ふと寝室を見ると、マリアが布団の上でぬいぐるみを抱いて転がっていた。
「パパぁ……まって……むにゃ……むにゃ」
子どもらしい寝相の悪さに、思わず頬が緩む。夢の中でも僕はどこかに行こうとしているのか、マリアの指が空を掴んでいた。
足を止めたくなる。――でも、もう僕の手は扉にかかっていた。
「……すぐ戻るね。おやすみの前に、ちゃんと戻るよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ。もし……遅くなったら……マイピーさんにお願いしてね。どこにいるかは、僕の黒曜石を探知すればわかるはずだから。心配しないで」
扉にかけた手を離し、ディアを抱きしめて囁いた。
「わかった……気をつけてね。絶対……帰って来てね」
心配させないつもりが、余計に心配させる言い方になる。その温度だけが、今夜の現実だった。
だからこそ、すぐ戻らなきゃいけない。
そう思って扉を開け、ギルドのエントランスへ出た。
「あら? ユーサ。こんな時間にどうしたの? 出発は明日よ?」
書類の束を抱えたマイピーさんと、ばったり鉢合わせた。まだ仕事が片づいていないらしい。
「あ、はい。すぐ戻ります。情報屋の……ヘディさんの所に行って来ます。出発前夜までにって約束してたので」
「へえ〜。あんたが、あの情報屋で有名なヘディ・ウェルと知り合いだったなんて知らなかったわ」
その言葉に、僕は首を傾げた。
「え? だって、ディアの兄さんですよ?……あ、ディアにはこの事、内緒でお願いしますね。本人に口止めされてるので」
「え? ユーサ、ちょっと、どういう――」
マイピーさんが言いかけた瞬間。
「失礼します、トムギルド長。こちらの書類の件について、お電話が入っております」
ギルド員が間に入り、それどころじゃない空気になった。
僕の仕事も任せている。忙しいのは当たり前だ。
そんな中で外へ出ようとしている自分が、少しだけ恥ずかしく、申し訳なくもなる。
「ごめんなさい、マイピーさん! ですので……僕がいない間、ディアとマリアをお願いします!」
僕は頭を下げ、駆け足でエントランスを出た。背中で何度か呼び止める声がした気がしたけど、そのまま夜の街へ向かった。
。。。。。。。。
ツェッペリンの前まで来ると、店の中から音が漏れていた。
中に入ると笑い声。グラスの音。低音のリズム。
街が沈んでいないみたいに、陽気な音楽が夜の騒がしさを煽っている。
受付に近づくと、前に見た男がいた。
「……おう。ユーサさん。こんばんは。また来てくれたのか」
覚えられているのが嬉しいような、妙に居心地悪いような感覚に飲み込まれる。
「こんばんは。あの、ヘディさんに……」
「……あぁ、それがな」
男の顔が、一瞬だけ渋くなる。
「いないんだよ、アイツ。数日前から連絡もつかない」
「え?」
喉の奥が冷たくなる。
「連絡が……つかない?」
「調査に出たのは分かったんだけど、戻ってこない。連絡も伝言もない」
まるで、こんなことは一度も無かった――みたいな言い方だった。
その時点で、普通じゃない。
「……そう、ですか」
「心当たりは?」
「……ない、です」
嘘じゃない。
だからこそ、その不在が胸をざわつかせた。
「もし連絡がついたら、伝えてください。……僕が来たって」
「あぁ、分かりましたよ。悪いですね、せっかく来てもらったのに」
男は淡々と頷いた。だが、その目は笑っていない。
僕は店を出た。
夜の空気が冷たかった。音が背中で遠ざかると、街の輪郭だけが残る。
「……胸騒ぎがする」
僕は無意識に空を見上げた。
月が、橙色に光っていた。オレンジ。
「……日曜、か」
この世界の月は、曜日で色が変わる。虹と同じ七色が、七つの曜日に対応している。
月曜は青白。
火曜は赤。
水曜は黄。
木曜は紫。
金曜は緑。
土曜は蒼。
日曜は橙。
ただ綺麗なだけじゃない。月の色は、加護の増幅と、術によっては条件になる場合もある重要な要素だ。
ある色の月光で強まる術がある。ある色の月光がなければ発動できない奇跡もある。
この異世界では、曜日は暦だけじゃない。戦況と生活の《条件》にもなる。
太陽の加護を持つ天使が優遇される理由も、その延長だ。
日中は太陽。夜は月。
橙の月は太陽に近い性質を持つと言われることがある。
つまり、日曜は一日中《得》をする者がいる。
そして今日は、何か不吉が寄って来そうな夜に感じた。
その時だった。
「ユーサ」
背後から声が落ちた。反射で振り返る。
街灯の届かない位置に立っているのに、目だけがはっきり見える。赤い瞳。今夜の月色を映して、微かに橙を含んでいる。
「……ヘディさん!?」
無事を確認できた安心が先に来るはずなのに、胸の奥がさらに冷える。ツェッペリンにいないと言われた直後だからだ。
へディさんは、軽く笑っているようで――笑っていない空気で言った。
「こっちだ」
顎で示した先は、裏路地だった。
「……ここじゃ耳が多い。誰かに聞かれたら不味い。人気の無い所で話そう」
その言い方で緊張が走る。僕は頷いて、へディさんの後を追った。
。。。。。。。。
裏路地には、先ほどまでの騒がしい音は無い。湿った石畳と、汚れた空気が住んでいた。
そして――橙の月光が、足元を照らしている。
「まず、タイオーに《オレンジ色の悪魔》の件で諜報員を向かわせたんだが……」
へディさんは振り返らずに言った。
「行方不明になったらしい」
「……え?」
場所も相まって、背中が冷える。
「オレが頼んだ連中だ。腕は確かなんだ。……なのに戻らない。連絡もない」
「……危険な案件、ってことですか」
「あぁ」
短い肯定。その短さが、逆に重い。
ヘディさんが振り向いて、僕の目を見てくる。
「思ってるより危険かもしれない。タイオー行きは、延期にした方が良い」
へディさんの瞳が一瞬、橙に揺れた。
「お前は大事な義弟なんだ。オレに……ついて来てくれるか?」
一瞬。何を言われたのか、どこに行くのか、分からなくなる。
《大事な義弟》――その呼ばれ方に魅了されて、全てを委ねそうになる。
でも――
――《わかった……気をつけてね。絶対……帰って来てね》
ギルドを出る時に聞いたディアの声が、僕の体の違和感を引き戻した。
「……できません」
召命。家族。
僕の人生は、自分の意思だけで止められる旅じゃない。
「僕には……やらないといけないことがあります」
へディさんが驚いたように目を開く。
「……あぁ、分かってる」
何かを急がないといけないみたいな、怖い顔で睨んでくる。
「だからこそ、注意しろ。……《何に》じゃない。《誰に》だ」
へディさんの赤い瞳が、橙色に揺れる。
銀髪まで月明かりを浴びたみたいに反響して、橙の陽炎が身体の輪郭を揺らした。
「……っ、あぐ……!?」
見つめ返した目が、太陽を直視したみたいに熱い。
視界が白く滲んでいく。目の前が見えにくくなる。
「だ……誰に……?」
僕は息を飲む。悪魔か。教会か。天使か。
それとも、もっと近い――。
「人の皮をかぶる悪魔はな、意外に隣人だったりするんだよ」
へディさんの声が、別人みたいに変わる。
「そんな事で守れるのか?
自分を?
家族を?
できないなら、任せればいい……。
オレに……お前の力を……」
視界が真っ白になり、眼球が焼けるように痛い。
「さっきから……何を……具体的に――」
言いかけた瞬間。
僕の方へ、何かの意思が伸びてくる。
黒い指。爪。腕。重さ。
「……っ!?」
背筋が凍る。喉元へ届きそうになる。
その瞬間。
「ユーサさーーん!」
場違いなくらい明るい声が、裏路地に飛び込んできた。
真っ白が消えて、夜の暗闇が戻った。
「ペイペーイ! ユーサさんこんばんは!!」
振り向くと、金髪短髪のマッチョが夜の冷気を破る勢いで手を振っていた。
ペイシン。ギアドの仲間で料理人。誰にでも距離ゼロで来る、陽気の塊。
夜なのにサングラスをしたままの男。
その横を、音もなく歩いてくる影がある。細身で姿勢が綺麗で、動きが無駄に少ない。
ただ歩いているだけなのに、通りがかった女性が反射で視線を吸われそうになる男。
エヂヒカ。
クールで、必要なこと以外は言わないのに、いるだけで場が整うタイプのウェイター。微笑むだけで客が増える男。
「こんばんは、ユーサさん」
低く落ち着いた声。それだけで空気が一段冷える。
ペイシンの熱が、エヂヒカの冷気で丁度いい温度にされる感覚。
さっきまで何をしていたのか、自分の記憶が曖昧に錯乱する。
「ペイシン、エヂヒカ。……二人とも……なんでここに?」
「いやぁ! 偶然っすよ偶然! さっき仕入れ帰りに《ユーサさんっぽい背中》見えたんで、追いかけてきたんすよ!」
ペイシンは勢いよく胸を叩いた。体の音までうるさい。
「ユーサさん、こういう裏っかわ歩くタイプじゃないじゃないっすか! だから『何かあった?』って思って!」
明るすぎる笑いが、逆に救いになる。
けれどエヂヒカは笑わない。視線だけが細く動いている。
僕の隣、へディさんの方へ。
「……お知り合いですか?」
エヂヒカが僕に聞く。静かすぎて、裏路地の暗さに馴染む。
「あ、うん。ディアの兄さんの……へディさん」
言った瞬間、ペイシンが「おおっ!」と目を丸くした。
「えっ、ディアさんの!? マジっすか!? 初めて見たっす!!」
「……あ、どうも。妹がお世話になってます」
へディさんが軽く会釈をする。
いつものように微笑んで、いつもの調子で。
なのに、僕の呼吸は浅い。
ーー(……あれ? また、何かを忘れている気がする)
ペイシンは一度、丁寧に英国紳士みたいに胸に手を当ててお辞儀をした後、空気を読まず、ずんずん前へ出た。
「ペイシンって言います! ギアドさんの仲間で、料理と筋肉担当っす! よろしくお願いしまーす!!」
筋肉担当って何だよ――と心の中で突っ込んだが、へディさんは何も言わない。
ペイシンは勢いよく手を伸ばす。握手。
その手を、エヂヒカが止めた。
「……ペイシン。待って」
「え? なんでっすか!? 礼儀っすよ礼儀!」
「礼儀は大事だね。でも……順番がある」
淡々とした言葉なのに、ペイシンが妙に居住まいを正す。
僕の足元が冷たい。影が伸びている。
エヂヒカが一歩だけ前に出て、僕に向かって言った。へディさんから視線を逸らさずに。
「ユーサさん。確認していいですか」
質問なのに、刃みたいに真っ直ぐ、鋭い声。
「……何?」
「ディアさんのお兄さんって、いつ見つかったんですか?」
言葉が、僕の頭を叩いた。
「……え?」
ペイシンが「えっ?」と僕の真似をする。
「ちょ、エヂ様、いきなり失礼じゃないっすか!? お兄さん見つかってよかったねー!って話じゃ――」
「失礼なつもりはない。必要だから聞いてるんだよ」
エヂヒカはペイシンを見ない。へディさんだけを見る。まるで警戒しているみたいに。
そして、容赦なく続けた。
「ディアさんは七歳くらいまでの記憶がなくて。家族は行方不明で。リー孤児院で育った。……ですよね?」
事実だ。
知っている。
知っているはずなのに、頭の奥で何かが鈍く鳴った。
「……うん。そうだよ。合ってる」
「なら」
エヂヒカはへディさんから目を離さずに言った。
「……もう一度聞きます。いつ、『お兄さん』は見つかったんですか」
その一言が、頭の中で反響した。
“いつ”。
答えられない。
見つかった日の記憶が無い。
見つかった瞬間の会話も無い。
誰が連れてきたのかも無い。
なのに。
僕は最初会った時「ヘディ義兄さん」と言った。
ぞわり、と背中を撫でる冷たさが走る。
その時だった。
へディさんの影が、伸びた。
へディさんの赤い瞳が、完全に橙色になる。
銀髪だった髪が、月明かりを浴びて橙色になる。
「……っ!」
反射で一歩引いた。
ペイシンが遅れて気づき、声を上げる。
「え、な、なんすかこれ!? 俺のサングラスに、強力な魔力反応が!!??」
エヂヒカは、声を荒げず、僕の前へ半歩だけ出た。視線がへディさんから外れない。
「……とんだ、邪魔が入ったせいで、計画が無茶苦茶だ」
その低い声が落ちた瞬間、へディさんが、ゆっくり息を吐いた。
笑みの形は崩れていない。けれど、声が違った。軽さが消えている。
人の皮を被った“何か”の声だった。
「ユーサ」
名前を呼ばれただけで、胸が締まる。
「お前を、手先にしようとしたのは――オレの傲慢だったな」
橙の月が、裏路地と《へディさんだった何か》を照らしていた。
喉の奥で、言葉が詰まる。
その姿を見たことがある。
デイ神社で、見た。
《オレンジ色の悪魔》
笑っている。軽い笑みの形のまま。
不気味にも身体中が、陽炎のように橙に揺らめいて離れない。
「仲が良いままで、お前を殺して……」
息が詰まる。
“義弟”という言葉。あの笑い。あの軽口。あの安心。
“答え”を探そうとするほど、僕の中の“当たり前”が崩れていった。
「……神秘術を、奪うべきだった」
『大事な義弟』
幸せな言葉も、時間も、全部、――【真実】を隠すための、沢山の【嘘】だったかのように。




