公爵令嬢の優雅なお茶会
夏の暑さが鳴りを潜め、風に爽やかな涼しさが混じるようになった季節。美しく整えられた豪奢な庭園を彩る花々を、秋の風が穏やかに揺らしていく。日差しもそれほど強くはない秋空の下、見事な中庭を臨むガゼボにはふたつの人影があった。
優雅な仕草でティーカップを傾ける二人は、どちらも年のころでいうと十代半ばから後半に差し掛かったあたり。ひとりは少年だ。陽光を受けて輝く見事な金髪と、秋の空よりも深い青を湛えた美しい瞳。白い肌も細身のシルエットも中性的な印象を与えるが、決して軟弱そうには見えない凛々しい顔立ち。眼差しだけで他者を惹きつける魅力を持つ彼は、この国の第二王子たるオーランド・ウィングロットその人である。
そんなオーランドと差し向かいで優雅にケーキを口に運ぶのは、漆黒の艶やかな髪を背中に流し、春の菫よりも淡い色に輝くアメジストの瞳を持つ少女だ。眦はややきつめながら、秋の庭園の花々の中にあってもひときわ目を引く美貌は、十人中十人が美姫と称えるだろう。麗しい王子と並んで何ら遜色のないオーラを持つ彼女は、クリスティナ・ヘイルドーン公爵令嬢。オーランドの婚約者であり、将来の王子妃である。
「――それで、」
鈴を転がす声音が沈黙を破った。長い睫毛を優雅に瞬かせ、クリスティナがオーランドに視線を送る。公爵令嬢としての、あるいは王子妃としての教育は、彼女に徹底的な優雅さを強いる。声の出し方、視線ひとつ、睫毛の一本に至るまで、全てが彼女の制御下にあるのだ。
「急なお呼び出しのご用向き、お伺いできますでしょうか」
たとえ婚約者といえど、王族の直系たるオーランドとは気軽に会えるものではない。これが学園内ならいざ知らず、ここは王城。クリスティナも今日はオーランドの呼び出しを受けて登城した次第だ。
婚約者の問いに――正確にはその声音の硬質さに、オーランドは内心で苦笑した。警戒を隠そうともしないのは、こちらを信頼していないポーズに他ならない。不敬と取られるギリギリの態度を、しかしオーランドは咎めだてたりはしない。そんなことはできない、と自覚している。
「実は……先週、姉上が帰国されていてね」
「まぁ、エリアーナ様が? それは存じ上げませんでした」
姉の名を出した途端、クリスティナの声がわずかに弾む。隣国に嫁ぐ前には姉王女は随分とこの婚約者を可愛がっていたものだ、とオーランドは在りし日を思い出していた。それこそ婚約者である自分以上に、クリスティナはエリアーナを慕っていた。
「うん、急の帰郷でね。君も後で姉上に会いに行ってやってくれ。姉上も喜ぶだろう」
「……何か、ご事情でもおありでしたの?」
急の帰郷、と聞いてクリスティナの柳眉がぴくりと動いた。それすらも優雅に見えるのは、彼女の顔立ちの麗しさか、徹底的に教育された表情の作り方ゆえか。益体もないことを考えて思考が逸れそうになるのを意識して引き戻す。
「ああ……かの国の末姫、姉上の義妹になった姫君だが、覚えているかい」
「もちろんですわ。確かお名前は、マギエラ様、でしたかしら。わたくしたちと同い年でしたわよね?」
「そう、そのマギエラ姫だ」
姉の嫁ぎ先は隣国の王家、その嫡男だ。いわば隣国の王太子。彼には弟が二人、妹が一人いる。オーランドもクリスティナも、かの姫君とは一度だけ面識がある。クリスティナなら覚えているかと尋ねてみたら、やはり案の定覚えていたようだ。美しいこの婚約者は、頭脳も明晰なのだ。
「かの姫君なんだが……どうやら、あちらの国の学園に通っている間に、婚約者以外の男性と恋仲になったらしくてね」
「まぁ……」
さり気ない仕草で扇を取り出し、さり気ない仕草で口元を隠す。クリスティナから向けられる視線は意味ありげで、オーランドには彼女の言いたいことが手に取るようにわかった。だが敢えてその視線を受け流し、言葉を続ける。
「どうやら学園内で、その婚約者に対して婚約破棄を申し出て、恋人とされる男性と婚約すると宣言してしまったらしい」
「宣言、というと、まさか公にしてしまったのでしょうか?」
「ああ、どうやら昼休みの学園食堂の中で、他の生徒たちが大勢集まっている中での宣言だったらしい」
「まぁ…………」
クリスティナは扇で口元を隠したまま、ますます瞠目する。もの言いたげな視線が強まったのを感じたが、ここで言葉を切るわけにはいかない。クリスティナの視線に耐えながら、オーランドは先の言葉を急ぐ。
「当然、隣国の王家は大騒ぎになった。マギエラ姫は末姫とはいえ王女。婚約者も相応の身分の相手だし、当然政略結婚だ。王太子妃に他国の王女である姉上を受けて、国内勢力図を調整する意味があった。
しかも悪いことに、姫の恋人は貴族籍を持たない平民だったらしい。姫曰く、婚約者がその姫の恋人を平民だと貶め、いたぶり、責め苦に遭わせた、とのことだ。その言葉が真であるか否か、王家と婚約者の家を巻き込んでの調査が行われることになったらしい。国を巻き込んでのお家騒動に発展してしまい、王太子殿下……義兄上の勧めもあって姉上が一時帰国する次第となったようだ」
そこでいったん言葉を切り、オーランドは紅茶を口に含んだ。冷めてしまった紅茶はかぐわしい香りが薄れているが、舌を潤すには十分だ。
「姉上は此度の姫君の振る舞いにご立腹でね……どうして恋仲になった男性ばかり優先して、婚約者を軽んじてしまったのかと。両者の意見を平等に聞いて然るべきではなかったのかと。あるいは婚約者の男性が本当に平民を虐げていたとして、もっと早い段階で別の解決方法はなかったのか。事態を知りながら放置しておいて唐突に婚約破棄を突き付けるやり方はどうなのか、姫君には何の責任もなかったのか、とね。
そのうえで、姉上は私に向かって『お前は大丈夫でしょうね』と仰ったんだ。『この国であのような騒動を起こしては恥になります』『万が一にも一方的に公爵令嬢を断罪するなどないよう、何かあればまずは話し合いから始めねばならないわ』と」
「……ご事情の委細、承知いたしましたわ」
オーランドに皆まで言わせず、クリスティナは頷いた。当たり前だろう。隣国で起こった此度の騒動、オーランドとクリスティナには他人事とは思えない事態である。
現在オーランドたちも、マギエラ姫と同じくこの国の王立学園に通っている。そこで、オーランドには親しくしている令嬢がいるのだ。名をアエラ・ローミック男爵令嬢。ピンクブロンドの髪と桃色の瞳を持つ、小柄で愛らしい少女だ。
このアエラ嬢、実はオーランドたちの学年における有力な高位貴族の男子生徒と『ごく近しい』関係性を築き上げているのだ。第二王子であるオーランドを筆頭に、宰相の息子である公爵令息、騎士団長の息子である侯爵子息、いずれも有力貴族の息子であり、三人とも婚約者を持つ貴族令息たちである。そしてアエラ嬢は、そんな高位貴族の子息たちの婚約者たち――すなわちクリスティナたちから、ひどい苛めを受けている、と日ごろから主張している。オーランドたちはそんな己の婚約者たちの非道な態度に呆れ、あるいは憤り、「婚約者でもない女子生徒を傍に置かないでほしい」という婚約者の訴えを煩わしく思い、ますますアエラ嬢と親しくする、という日々を過ごしていた。
そう。姉であるエリアーナから持ち込まれた他国の醜聞は、そっくりそのまま性別を入れ替えれば、自分たちの身にまさに起こっている事態だ。もう少し正確に言うなら、オーランドたちが引き起こしている、と言えようか。
最初、エリアーナの話を聞いた時にはオーランドはマギエラ姫に感情移入して話を聞いていた。アエラは平民ではないものの、貴族としては一番低位の男爵令嬢である。そんな『庇護すべき』立場の存在が近くにあり、婚約者から虐げられたのだと訴えられれば、身をもって守ってやらねばと考えるのが当たり前だ。事実、オーランドはアエラを苛めたらしいクリスティナを遠ざけ、他の高位貴族令嬢たちからも守るために己の傍に置き続けた。それがアエラを守るためになると信じて。あるいは完璧な令嬢として知られるクリスティナよりも、劣る部分は多かれど心優しく庇護欲をそそるアエラを愛らしいと感じて。これが恋だと名前をつけはしなかったが、限りなく恋に近い感情をアエラに向かって抱いていた。
けれどエリアーナの話を聞き進めていくうち、のっぴきならない焦燥感に襲われ始めた。マギエラ姫のやり方は拙速で杜撰で、脇が甘い。高位貴族の令息に対して唐突に婚約破棄を突き付けるなど、根回しもなしに王家の決めた婚約を破綻させようとするなど、あまりにやり方が稚拙だ。そして気づいた。マギエラの取った行動は、何から何まで稚拙に過ぎる。それこそ最初から――婚約者をほったらかして平民を恋人にするという愚行からして、夢見がちで子供っぽいマギエラの性格を如実に表していた。
そう考えて、愕然とした。マギエラの行動は、すなわち己の行動にそっくりではないか。婚約者を遠ざけ、身分の低い同級生を寵愛し、片方の意見しか耳に入れず、忠告をも煩わしいと撥ね付け。オーランドが感じたように、きっと他者は彼の行動を「稚拙」で「杜撰」で「拙速」な「愚行」と冷笑するだろう。否、既にされているのか。同じ学園に通う同級生の貴族令息や令嬢たちから。あるいは自分が遠ざけてきた婚約者たちから。
そう考えたらいてもたってもいられず、休日にクリスティナを王城に呼び出した。クリスティナが訝しんで警戒していたのも当然だ。学園では自分から遠ざけていたくせに、今度は自分から城に呼び出したのだから。
オーランドの話を聞いていたときのクリスティナの態度もよくよく理解できる。他国の醜聞という形で、自分たちの置かれた状況を話して聞かせたのだ。クリスティナが敢えて口を噤んだ心情にも、大いに心当たりがある。
それでも。オーランドはクリスティナを呼び出し、この話をせねばならないという使命があった。姉の発破がなくとも、きっとオーランドはクリスティナに話を持ち掛けていただろう。
「ティナ」
「はい、殿下」
幼い頃の愛称を口にし、オーランドは身を乗り出した。対するクリスティナは静かに微笑んだままこちらを見つめている。オーリ、と愛称で返してくれないのは、現在進行形で信頼を損ねている証拠。それに文句を言う権利など、オーランドにはなかった。
「アエラ――ローミック男爵令嬢は、君たちに、いじめられていたのだと……ひどい言葉を投げつけられ、服を汚され、中庭の噴水に落とされたと訴えていた。これは事実だろうか」
「……信じていただけるかはわかりませんが、殿下。わたくしもお友達も、決して非道な苛めなどは致しておりませんわ」
凛とした声が、秋風に乗ってオーランドの耳に届いた。その言葉に、オーランドは瞑目する。信じてもらえるかはわからない、という言葉はそのまま、オーランドを信じていないという意思の裏返しだ。自分は婚約者の、幼馴染である彼女の信頼をこれほどに損ねていたのか、と忸怩たる思いで唇を噛む。
「まずは『ひどい言葉を投げつけられ』、ですわね。わたくしがアエラ様に対してお声がけしたのは、『殿下や婚約者のいる令息方と親しくされるのはマナー違反ですわ』という事実だけです。だって本当に、マナーのなっていない振る舞いですわ。そうでしょう?」
「……ああ、そうだな」
オーランドの悔恨に構わず、クリスティナは堂々と言葉を続ける。確かに、クリスティナがアエラに同じ注意をしている場面は以前にも見た。その時には「アエラの存在を疎ましく思うあまり嫌味を言っている」と感じたものだが、言われてみれば当たり前のマナーであった。
またクリスティナたちは、直接婚約者に対しても「軽々しく女子学生を傍におくものではない」と苦言を呈していた。オーランドはそれを嫌味、あるいは自分たちが側に侍れない嫉妬と軽視していたが、冷静になった今ならわかる。これはごく当たり前の常識だ。逆にクリスティナがそこらの男爵令息を常に傍に置いていたなら、オーランドはきっと眉をひそめていたことだろう。それは嫉妬でも、嫌味でもない。礼儀を弁えないことに対する嫌悪感だ。
「そして『服を汚され』、でしたか。これは以前にアエラ様が食堂で慌ただしく走っていらしたのですわ。わたくしは『食堂を走るのはマナー違反ですし危ないですわ』とお声がけしたのですけど、案の定わたくしのお友達にぶつかってしまわれたのです。その時お手に持っていらした紅茶を、ご自分の服にこぼされたのですわ。アエラ様は『ひどいわ、身分が低いからってどうしてこんな嫌がらせを』と泣いてしまわれ、その時に殿下たちがいらしたのですわ。あの時、殿下はわたくしたちを睨んで『身分を笠に着て傲慢な』と仰いましたわね。信じていただけるかはわかりませんが、これが事実なのですわ」
「いや……信じるよ。確かに彼女はよく食堂も廊下も走っているし」
アエラは小柄で身軽で、よく学内をぱたぱたと走り回っている。高位令嬢にはありえないその溌溂とした態度が愛くるしくて、小動物のような仕草を微笑ましいと感じていた。けれど、生粋の令嬢であるクリスティナがその態度に眉を顰めるのは当たり前だ。それに、今のクリスティナの話が事実であれば、アエラが「嫌がらせ」と呼んだのは完全に思い違いだ。アエラは自分からぶつかる原因を作り、当然のように他人にぶつかり、それを相手のせいにした、ということなのだから。
「最後は『中庭の噴水に落とされた』でしたか。それも勘違いですわ。例によって中庭を走っていたアエラ様は自分から躓いて、自分から噴水に落ちてしまわれたのですから。わたくしたちは近くにいただけで、単に水しぶきをかけられた被害者とも言えますのよ。それでもわたくしとロジーナ様は、アエラ様を医務室に連れていってあげましたわ。お聞きになっていらっしゃいませんこと?」
「そうだったのか!? いや、それは聞いていなかった……」
愕然とするオーランドに、クリスティナは「さもありなん」と言いたげに扇の内側で小さな溜息を洩らした。ロジーナ、とは宰相の息子であるハイン・フェルリット公爵令息の婚約者であり、クリスティナの親友でもあるロジーナ・サベルト侯爵令嬢のことだ。彼女もクリスティナと一緒になってアエラを苛めた犯人だと聞いていたが、わざわざ噴水に落ちたアエラを医務室まで連れていったという。アエラはそんなことは一言も言っていなかった。それが事実であれば、自分はとんでもない思い違いをしていたことになる。
青くなるオーランドを見据えるクリスティナの目は真剣だ。アメジストの瞳は冷淡に見えて、しかしどこまでも真摯な光を宿している。扇をぱちんと閉じたクリスティナは、真剣な面持ちでわずかに身を乗り出してきた。
「殿下、わたくしは公爵令嬢です。もしもアエラ様の存在を本気で疎ましいと思うなら、もっと簡単に彼女を排除することができますわ」
ひどい女だとお思いでしょうが、と自嘲気味に続いた言葉に力なく首を振る。彼女の言葉は事実だ。本当に彼女がアエラをオーランドの傍から引き離したいのなら、ヘイルドーン家の力を使えばいかようにも可能だ。明日からアエラが学校に来なくなってもおかしくはない。その事実に気づき、オーランドは冷水を浴びせられた気分だ。
「わたくしは、もし殿下がお望みなら彼女を愛妾にすることもやぶさかではありませんでしたのよ」
「そ、れは……」
「ですが、彼女はいけませんわ。たとえ愛妾であっても、第二王子殿下の御子を授かる可能性があるのでしたら、最低限の礼節はなくては。アエラ様は、その最低限すら弁えていらっしゃいませんもの」
真剣に語るその瞳、その声音。彼女の言葉には覚悟がみなぎっている。王子妃として、王族に連なる者としての矜持がある。
いまだ未婚の彼女が、将来結婚する相手の妾を認めると宣言する勇気はいかほどだろう。その妾に求める礼節のハードルを見極め、相手がそれをクリアしているか否かを判断する決断力とはいかほどだろう。逆の立場にあって、自分にそれだけの度胸があるだろうか、とオーランドは眩しい気持ちでクリスティナを見つめた。この冷静さが、この完璧さが息苦しいと思ったときもあった。けれど、今はこんなにもクリスティナの覚悟が頼もしい。
「殿下。アエラ様を愛妾にされるのであれば、徹底的な教育が必要になりますわ。殿下がどうしてもお望みであれば、王宮教育係と我が公爵家の教育係の力も使って淑女に仕立て上げますが……」
「いや、もういい。構わない」
オーランドは静かに首を振った。アエラの天真爛漫さに惹かれていた。王宮と公爵家で徹底的に教育されてしまえば、その天真爛漫さはきっと失われてしまうだろう。そうまでして、アエラの人格を捻じ曲げてまで、妾に望もうとは思えない。
同時に、思う。十にも満たない年齢で王子の婚約者に決まり、そこから公爵家と王宮において厳しい教育を受けてきたクリスティナ。もし自分の婚約者でなければ、彼女もまたもっと生き生きと、溌溂とした少女として育ったのだろうか。他者の視線にさらされ、一挙手一投足に注目され、笑顔ひとつ感情のままに浮かべられないような、今のクリスティナの生活ではなかっただろう。
完璧な淑女として振る舞うのは教育の、彼女の努力の賜物だ。全ては第二王子と、自分と婚約したがゆえに。彼女の努力は全て自分に捧げられたものなのだ。その責任を負わずして、どうして王族の責任など任せられようか。
「ティナ」
オーランドは身を乗り出し、クリスティナの手を取る。細い指にはペンだこができている。勉学においても優秀でなければならない王子の婚約者として、彼女が懸命に頑張っている証だ。繊細なその指先を額に当て、アメジストの瞳をじっと見つめる。
「王族として、頭は下げられない。腹立たしいかもしれないが耐えてほしい。君の腹立たしさは、私のこれからの行動できっと解消してみせる」
王族の行動は全て、正しくあらねばならない。王族に間違いは許されない。だから簡単に謝罪などはしない。代わりに王族はその治世で、行動で、民に報いるのだ。
幼い頃から言い含められてきた教訓を思い返しながら告げれば、クリスティナはわずかに瞠目した。それから淡く、ほんの淡く笑みを唇に載せる。その笑みに、恋情を揺さぶられることはない。あるのはただひたすら、これからの未来を歩む戦友に対する信頼。
「私には君だけだ、ティナ。どうかこれからも、王子妃として私と共に歩んでほしい」
「ええ、もちろん。貴方の婚約者になったあの日から、覚悟はできておりますわ――オーリ」
久しぶりに耳にした幼い頃の愛称。クリスティナが見せた笑みにも胸を焦がす愛情などは見受けられない。彼女は覚悟している。年頃の娘らしい恋などを全て諦め、国に身を捧げる覚悟を。麗しくも頼もしい笑顔はやっぱり戦友のもので、オーランドも心からの笑みを彼女に返した。
◇
ばたばたばた、と慌ただしい駆け足の音が廊下から響き、教室内の誰もが顔を見合わせた。令息たちは呆れたように、令嬢たちは心底嫌そうに。冷静になってみれば周囲の表情がよくわかる、とオーランドは眉を下げて溜息を噛み殺した。
「オーリさまぁ!」
ばたん! と激しい音と共に教室の扉が開かれ、駆け込んできたのは案の定アエラだ。ピンクブロンドの髪を翻し、桃色の瞳いっぱいに涙を溜めている。少し前までは愛らしいと感じていたその仕草も、今となってはマナーにそぐわぬ振る舞いだと眉をひそめてしまう。
「オーリ様、ハイン様、ベル様ぁ……! うっ、うっ、助けてくださいぃ……!」
まろい頬を紅潮させたアエラは、オーランドたちを見つけるなり駆け寄ってきた。オーランドとハイン、騎士団団長の息子であるベルナルドは素早く視線を交わした。代表してハインが一歩前に出る。
「アエラ嬢、どうしましたか?」
「え、ハイン様……?」
つい先日までは親しく「アエラ」と呼んでいたハインの態度の差を敏感に感じ取ったアエラが目を瞠る。しかし続いて教室の扉が開き、そこから姿を現した人物を見ると「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、オーランドの背後に隠れた。小動物めいた仕草で身を縮めて震えている。オーランドが扉に視線を向ければ、そこに立っていたのはやはりクリスティナだった。オーランドの視線を受け、彼女がわずかに視線で頷いたのが見て取れた。
「アエラ様、廊下をそんなに走ってはいけないと前からご忠告申し上げているでしょう?」
「ち、近寄らないで……! 殺される!」
溜息交じりに呆れた声で注意を告げたクリスティナに対し、アエラが恐慌した声で絶叫した。あまりに物騒な言葉に全員が絶句する中、クリスティナだけは迷惑そうに眉を顰める。
「何て失礼なことを仰るの」
「事実でしょ!? あ、あたしを突き落としたくせに!」
冷静なクリスティナの声と荒だったアエラの声は対照的だ。オーランドがちらりと背後を見れば、アエラが潤んだ瞳でこちらを見上げてきた。瞬きをした瞬間にまろやかな頬に涙が伝う。赤い目尻を濡らしたまま、アエラがずいと距離を詰めてきた。
「オーリ様、あぁ、助けてください……! クリスティナ様が、あ、あたしを、あたしを階段から突き落としたんです……!」
叫ぶように訴えかけられた言葉に、教室内の時間が止まる。生徒たちも、ハインやベルナルドも動きを忘れたように息を詰めた。オーランドは瞑目し、一拍置いてからクリスティナを振り返る。
「ティナ、何があった?」
「ええ、実は……」
「オーリ様!? 信じてくれないんですか!?」
オーランドの問いを受けて答えようとしたクリスティナの声を、アエラの金切り声が遮る。その不躾な態度に、周囲の令嬢たちの眉間に一斉にしわが寄った。唯一クリスティナだけは表情ひとつ動かさず、アエラを一顧だにもしない。真っすぐオーランドを見つめたまま、教室内に一歩を踏み出した。
「一言で申せば、先ほどアエラ様が階段上から転落されたのですわ」
「て、転落……!?」
「白々しい、あんたが突き落としたんじゃない!」
「アエラ嬢、少し黙って」
「ハイン様……!?」
クリスティナの口から出た物騒な言葉に、思わずといった様子でベルナルドが声を上げた。途端に叫び始めるアエラを、ハインが呆れた様子で諫めている。先日までとは違う態度に、アエラはやはり戸惑っている様子だ。
「先ほどわたくしは史学教諭のゴーバーン先生のお部屋を出まして、この教室の廊下向こうにある階段を下りてきたのですわ。すると三階と二階の踊り場にアエラ様がいらっしゃって、わたくしをお呼び止めになったのです。そして『あんた、何を言ってオーリ様たちを誑し込んだの』と仰ったのですわ」
「た、たらしこんだ……!?」
「まぁ、何てひどいお言葉!」
「無礼で下品にも程がありますわ」
クリスティナの言葉に、一気にざわめきが教室内に満ちる。特に令嬢たちは、言葉つきの悪さに嫌悪感を露わにしている。かくいうオーランドも、滅多に聞かない下品な言葉に思わず眉をひそめた。ちらりとアエラを窺うが、周囲をきょろきょろと見回すばかりで訂正しようともしない。どうしてクラスメイトがざわついているか理解していない様子だ。となればこの発言は本当だろう、とオーランドは内心で密かに落胆する。
「わたくしが『何のことかわかりかねます』と申し上げて立ち去ろうとしたのですが、アエラ様は何故か『思い知らせてやる』と笑顔で仰って……そうして、自分で階段を落ちていかれたのですわ」
「嘘よ! あんたが『馬鹿なお前に現実を思い知らせてやる』と言って階段めがけて突き飛ばしてきたんじゃない!」
「まぁ、ひどい言いがかりだわ。第一わたくしがそんな汚い言葉遣いをするわけがありませんでしょう?」
眉を上げる表情さえ優雅さを見せつけながら、楚々とした仕草でクリスティナは手で口を覆った。もし彼女の手に扇があれば、扇がその口元を隠したであろう。その仕草さえ見えるような完璧な動きに、周囲は知らず頷く。確かにクリスティナが「馬鹿なお前」などという乱暴な物言いをするとは思えない。
「それで階段を転がり落ちた振りをして、突然アエラ様は立ち上がり、教室に向かって走り出したのですわ」
「振りだなんてひどい! あんたが突き落としたんじゃない!」
「ですから、違いますと申しました。第一本当に突き落とされたのなら、痛みで足を動かすことなんてできないでしょうに。廊下を走るなんて到底できなかったのではなくて?」
「そ、それはたまたま怪我をしなかったから……!」
アエラが悔しそうに噛みつく。クリスティナは敢えて反論せず、ふぅと小さな溜息をつくに留めた。それで、決着だった。誰の目から見ても、クリスティナの言動に穴はない。自作自演か、とクラス中から冷たい視線を浴びせられ、アエラがひるんだ様子だ。
二人の態度を冷静に観察しながら、オーランドは愕然とした。彼女の態度は、言動は、こんなに奇矯だったのか。天真爛漫の枠には収めきれない、あまりに奇天烈な言動。こんな女に入れあげていたとは、と恥ずかしい思いでいっぱいだ。ハインもベルナルドも、醒めた目でアエラを見て過去の己を恥じている様子が見て取れる。
先日クリスティナと話をした直後、オーランドはハインとベルナルドとも話をした。姉王女エリアーナの語った隣国の話を踏まえ、クリスティナから聞いたアエラの苛めの「真相」を包み隠さず告げた。最初は疑いから入っていたハインたちも、クリスティナや自分たちの婚約者が有力貴族の娘であること、その権力を使えばアエラなど自分の手を汚さず排除できること、クリスティナはアエラをオーランドの愛妾として迎えるかどうかまで覚悟していたことを聞き、ようやく目を覚ましたようだ。
そしてアエラとそれとなく距離を置いてみれば、見えてきたのは目を背けていた現実。アエラの態度は確かに貴族令嬢としていかがなものか。自分の婚約者たちの忠告がいかに正しかったか。そしてアエラなど彼女たちが本気を出せば排除できたものを、彼女たちの温情で泳がされていただけという事実。見えてしまえばもう無視できない現実たちに、オーランドたちのアエラへの熱は一気に冷めていた。
そして今日のこの態度の違いである。クリスティナの態度は公明正大、自分の言動に自信を持っている。かたやアエラの発言は胡乱であり、信憑性に乏しい。どちらが真実を話しているかなど、誰の目にも明らかに見て取れた。
「もうよい」
「お、オーリさまぁ……! こんな人、オーリ様にふさわしくありませんっ」
あたし、ずっと、ずっと苛められてたんですぅ、とアエラが泣き伏す。クリスティナは硬い表情で沈黙を保ったままだ。オーランドはひとつ溜息をつき、クリスティナの元へと歩を進めた。泣いていたはずのアエラがちらりと視線を上げ、その瞳が期待に輝くのを誰もが見ていた。クリスティナも、視線だけでわずかに振り返ったオーランドもだ。
「ティナ」
「はい、殿下」
あの日のように愛称で呼び、敬称で返される。けれどあの日とは確実に違う、戦友としての絆がある。視線だけで意思疎通を交わし、二人はそっと頷きあった。オーランドは振り返り、アエラを見下ろした。冷徹に、冷厳に。凍えた視線にアエラがひるんだのがわかった。
「ローミック男爵令嬢。気安く愛称で呼ばないでくれないか」
「お、オーリ、さま……?」
「殿下と呼ぶように。クリスティナは君に対し、厳しい罰は望んでいない。これは学園内で起きた、学生間の小さないざこざだ。そのように収めてくれる、と温情をかけているんだ。そうだね、ティナ」
「ええ、オーリ。わたくしたちはまだ学生、学び舎の中なら恥はかき捨てですわ。アエラ様、ご理解いただけますわね?」
これが本当の社交界であれば、公爵令嬢と男爵令嬢の力量差は歴然だ。いかに第二王子の覚えがめでたいとはいえ、男爵令嬢がこんな態度をして許されるわけがない。しかしこれは学園内で起きた、社交界にまだ聞こえていないいざこざだ。この場にいる全員が口を噤めば、アエラの立場は守られる。今ならまだ、クリスティナはアエラの挙動を「社会勉強」の一環として許してくれる。つまりこれは、アエラに対する紛れもない温情なのだ。
仮にも自分の婚約者にまとわりついていた下級貴族令嬢相手に、与えうる最大限の温情。誰もがクリスティナの優しさに感動し、自分たちが彼女の同級生であることを密かに誇りに思った。ただひとり、アエラを除いては。
「な、っ、何がご理解よ! この嘘つき女! オーリ様を誑かしておいて!」
「殿下、ですわ。愛称で呼ぶなと注意されたのをもうお忘れなのかしら」
「うるさいうるさいうるさいっ!」
「うるさいのは貴方ですわ。それに、殿方を誑かしたのも貴方」
堂々と言い切って、クリスティナが一歩前に進み出る。自然と割れた人垣を従えてアエラの前まで歩み出た彼女は、完璧に優雅な淑女の笑みを浮かべ、アエラの顔を覗き込んだ。不敵なまでに自信をみなぎらせた瞳が輝く。それは、第二王子の婚約者として最低限であり最大限の自信だ。
「わたくし、誑かさずともオーランド第二王子殿下の婚約者ですもの」
当たり前の事実を当たり前に口にしたクリスティナ。誰の目にも、それこそアエラの目にも、彼女は絶対的勝利者として映ったことだろう。桃色の目を真ん丸に見開いたアエラは、次の瞬間悪魔のような形相を浮かべ、クリスティナに掴みかかった。
「お、お前が! お前がぁぁあ!」
「きゃあっ!」
「ティナ!」
「取り押さえろ!」
教室内は一瞬で騒然となる。クリスティナとオーランドが同時に悲鳴を上げ、ベルナルドが飛び出してアエラの両腕を背後に捕らえた。華奢な女子生徒は一瞬で制圧されたが、床に押し付けられても「このくそ女!」「嘘つき、許さない!」と喚き散らしている。その態度の醜悪さ、罵詈雑言の汚さに、多くの高位令嬢たちは卒倒寸前だ。こんな生徒が同級生なんて、と生徒たちは嫌悪感を露わにアエラを睨みつけている。
「ティナ、大丈夫か……!?」
「え、えぇ……」
そんなアエラを一顧だにせず、オーランドはクリスティナへと駆け寄った。乱暴に襲い掛かられた経験などない生粋の令嬢は、白魚の手をぎゅっと握りしめたまま静かに頷く。表情は、いつも通りの冷静さを装っている。だが細い指先も、華奢な肩もわずかに震えていた。オーランドがそっとクリスティナの手を取れば、指先は冷え切っている。よほど怖かったのだろう、とオーランドは幼馴染を気遣い、安心させるように笑みを浮かべてみせる。クリスティナがぎこちなく笑みを返し、教室内の張り詰めた空気もわずかに緩んだ。
「ベル、連れていってくれ」
「わかった」
クリスティナを自分の体で隠しながら、オーランドが短く指示を飛ばす。ベルナルドも心得たようにアエラを立ち上がらせた。いまだ聞くに堪えない汚言を口にし続けるアエラが教室から連れ出され、ようやく生徒たちも安堵の息を吐いた。クリスティナの細い肩をさすってやりながら、オーランドは周囲をぐるりと見回す。
「皆……騒がせたね」
「僕たちの不始末のせいで、申し訳ありませんでした」
頭を下げられないオーランドの代わりに、ハインが深く腰を折って謝罪をする。アエラと彼ら三人の関係は、当然だが同じ教室の生徒たち全員の知るところだ。
戸惑ったようにひそひそと囁きあう生徒たち。何を言われているのか大方察しているオーランドは黙してそれを受け入れる。と、生徒たちの中からつかつかと歩み出てきた人影があった。目の覚めるような赤髪と、翡翠色の瞳を持つ美貌の令嬢。ハインの婚約者であり、クリスティナの親友でもあるロジーナ・サベルト侯爵令嬢だ。
ロジーナは真っすぐハインの目の前まで歩み寄り、彼女の婚約者をきっと睨みつけた。ハインを見上げる格好なのに、前に立ったハインが委縮しているせいで随分と大きい背中に見える。
「フェルリット公爵令息様。クラスを代表し、あるいは貴方の婚約者として、貴方にお受けいただきたい仕儀がございますわ。お覚悟はよろしくて?」
己の婚約者に対し、慇懃無礼にわざわざ家名で呼びかけたロジーナに、教室の空気が再び緊張した。ハインは唇を噛み、うなだれる。ここで断ることなど不可能だ。オーランドが同じ立場でクリスティナに詰め寄られても、首を横に振ることはできまい。
「……ああ。甘んじて受けよう」
「承りましたわ。それでは――」
言うなり、ロジーナは大きく右手を振りかぶり、うなりを上げてハインの左頬を痛打した。ばっちぃん! と聞くにも痛そうな音が静まり返った教室内に響く。ハインも言葉で詰られるのを予想していたらしく、身構える暇もなくロジーナの平手をもろに受け止めてしまった。否、受け止めきれずに床に倒れ伏し、衝撃を受けた頬を押さえることもできずに呆然とロジーナを見上げる。端正なその白い頬に、じんわりと真っ赤な手跡が浮かび上がってきた。
絶句する同級生も婚約者も何のその、ロジーナは満足げにふんっと鼻を鳴らした。言葉も出ないハインを睥睨してから、周囲の生徒たちに向かってにっこりと笑って美しいカーテシーを披露した。
「婚約者のわたくしからも皆様にお詫び申し上げますわ。この度はお騒がせいたしました。お腹立ちはお察し申し上げますが、どうぞ先ほどの仕儀にてお納めいただきますよう」
「……、……っふ、」
あまりに豪胆な態度に教室中の人間が度肝を抜かれ、あるいは呆気にとられる中、小さな笑い声がオーランドのすぐそばで落ちた。見れば、クリスティナが口元を押さえ、肩を震わせている。先ほどまでの、恐怖にではない。ロジーナのあまりに突飛な行動に、耐えきれず笑いをこぼしているのだ。
「ふ、っふふふ……ロジーナ様、貴方……ふふふっ」
「まぁ、クリスティナ様にご笑納いただけたなら幸いですわ」
にこっ、と明るい笑みで茶目っ気たっぷりにロジーナが応じた。つい今しがた、婚約者を思い切り平手打ちしたとは思えないほどチャーミングな笑顔に、思わずオーランドも噴き出してしまう。笑いはひとり、またひとりと伝播していき、ついには教室中が明るい笑い声に包まれた。床に座り込んで呆然としていたハインすら、困ったような、けれどどこか吹っ切れたような表情で大きく溜息をつき、それから笑いの輪につられていった。
廊下にまで笑い声が響いていたのであろう、ベルナルドが慌てて教室内に飛び込んできて、面食らった表情でクラスメイトたちの爆笑を目の当たりにした。その表情にまた笑いが誘われ、新たな笑いの波が巻き起こる。生徒たちの楽し気な笑い声はその後も、なかなか収まる様子を見せなかった。
◇
ふぅ、と紅茶の湯気を優雅に吹いて、クリスティナがカップに唇をつける。満足げに息をついたのを見て、ロジーナが悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それにしても殿方って、随分とあっさり転がされてくださいますのね」
「うふふ、扱いやすくってよろしいじゃありませんか」
浮かべ慣れた愛想の笑顔とは少し違う、感情を乗せた笑みをロジーナに向ける。ここはクリスティナの実家であるヘイルドーン公爵家にある、彼女のプライベートルームだ。侍女も隣室に控え、室内にはクリスティナとロジーナの二人きり。クリスティナの完璧でない笑顔を見咎める人間は、この場には存在しない。
「殿下もハインも、どうやらあの女に話の裏取りすらしなかったようですわ」
「エリアーナ様のお話と、わたくしの『公爵令嬢にとって男爵令嬢など敵ではない』という言葉、どちらもよほど堪えたようですわ」
どこか幼い子供のような笑みを向けあって、ささやかな悪戯を自慢しあう口振りで、クリスティナたちがくすくすと笑いあう。事実、彼女たちにとっては今回の顛末はちょっとした暇つぶし程度に他ならない。
「それにしても、あの方たちきっとあの女は徹頭徹尾嘘つきだと信じ切ってますわよ」
「ほほ、あの女は真実しか告げておりませんでしたのにね」
心底おかしそうにロジーナが笑いを含み、クリスティナも笑みを唇に刻んでまた紅茶を口に運ぶ。華やかな香りを堪能する色白の美貌には、罪の意識などかけらも存在しない。
そう、アエラがオーランドたちに訴え続けていた「クリスティナたちに苛められている」という言葉、これは紛れもなく事実だ。クリスティナたちは確かにアエラを言葉でなぶり、男に媚を売るなど貴族の風上にも置けない、所詮は男爵令嬢風情、まるで娼婦ね、などと蔑んで冷笑していた。食堂で慌ただしく走っていたなら足を引っかけて転ばせようともした(結果、手に持っていた紅茶を自分の服にかけてしまい、『みっともない』と馬鹿にして笑い者にした)。中庭を走っていた時など、これ幸いと足を引っかけて噴水に突き落とし、その後嫌がって逃げようとしたアエラを無理やり医務室に引きずっていった。養護教諭の前では散々親切ぶってやったから、教諭の前で強く拒絶もできず、アエラはよほど業腹だったことだろう。その他にも、クリスティナたちはことあるごとにアエラを罵倒で小突き回していたのだ。
ただし、これがひどい苛めかと言われればクリスティナたちはそうは考えない。この程度、貴族令嬢であればごく普通の光景だ。ましてアエラはたくましく、自分がクリスティナたちから苛められていることを笠に着て、逆にオーランドたちに取り入ろうとしていた。クリスティナたちはアエラで憂さを晴らし、アエラは男に媚を売る材料を手に入れる。いわばWin-Winの関係だったとクリスティナは考えている。
「それにしても、エリアーナ殿下の婚家でのご騒動、とてもタイミングがよろしかったですわね」
「ええ、本当に。あれのせいで予定よりも早くあの女を排除することになってしまいましたわ」
「でも逆に手間が省けたとも考えられますわね」
「まったくですわ。どうせ卒業まであと数ヶ月ですものね」
したり顔で頷きあうクリスティナたち。彼女たちにとってもアエラにとっても、あるいはオーランドたちにとっても、今回の騒動は学園在学中の『ささやかなおいた』に過ぎない。学園卒業までには決着をつける予定だったから、少々予定が早まってしまっただけのことだった。
アエラの行動は、純粋に男受けのみを追求した態度に徹していた。クリスティナたちにとってみれば、非常に脇が甘い。令嬢として高等な教育を受けてきて、人心掌握を含めた帝王学を知る公爵令嬢や侯爵令嬢の敵ではなかった。簡単に追い落とすことなどできたアエラは、事実クリスティナたちに見逃されていたにすぎない。
「あの方たちも、あの女とすっきり手を切れて、案外清々しているかもしれませんわね?」
ロジーナの言葉に、クリスティナは「確かに」と頷いてまたくすくす笑った。
オーランドたちとて、アエラに対して本気であったとは思わない。彼らは将来の国を担う人間だ。何の特筆した特徴もない、少々男に取り入るのが上手なだけの男爵令嬢を、本気で相手にと望んでいたとは思い難い。アエラだけは、あるいは卒業してもオーランドたちとの関係を続けられると、もしかしたら婚約者の誰かと自分が取って代われると夢想していたかもしれないが。
「オーリったら、あんな女と肉体関係を結んで満足しているんですもの。案外単純ですわね」
「あら、ハインもですわよ。しかも自分だけがあの女と寝ていると思っていたのです」
「まぁ、驚きですわね。殿方って随分夢見がちですのね」
「状況が見えていないのですわ。よくあれで将来の宰相を目指せたものだわ」
「うふふ、将来の国王陛下がああなのだから、仕方ありませんわ」
ほほほ、とロジーナとクリスティナが笑い声を転がす。淑女の間に交わされる会話としては随分生々しいが、それを咎める人間もまた、ここには存在しない。
そう、オーランドとハイン、ベルナルドは全員、アエラとベッドを共にしていた。アエラは上手く他の男との関係を隠していたため、三人は三人ともが自分だけ特別だと舞い上がっていたようだ。だがクリスティナたちが少し調べれば三人ともと関係を持っていたことは丸わかりだったし、もっと言えばアエラは三人以外にも関係を持った男子生徒が複数いたようだ。身持ちの軽さを軽蔑する一方、クリスティナたちにとってみれば婚前交渉を迫られずに済んだ、性欲処理を肩代わりしてくれた、程度の感慨しかない。生粋の貴族令嬢である彼女たちは、結婚にも結婚相手にも夢を見たりはしない。
「そういえばクリスティナ様、あの日、階段からあの女を突き落としたのも本当ですの?」
「ええ、本当でしてよ」
あの日、きっぱりと否定した事実を、クリスティナは平然と認めてみせた。ロジーナは嫌悪もせず、かといって賞賛もせず、ただ「やっぱりね」と言いたげに頷いた。
アエラが必死に訴えた言葉は事実だった。階段の踊り場で詰め寄られたクリスティナは、周囲に人の気配が一切ないことを確認してから、にやりと笑って『馬鹿なお前に現実を思い知らせてやる』と告げ、その肩を思い切り押して階段上から突き飛ばしたのだ。怪我をしなかったのは本当にただの偶然、アエラが怯えた表情で走り去っていったのは意外だったけれど、目撃者のひとりもいない状況だ。悠然とその背中を追って自分の教室へと足を進めた。
「うふふ、あのような乱暴な言葉遣い、一度はやってみたかったのですよね」
「わかりますわ、普段は絶対に使わない言葉って、使ってみたくなりますわよね」
クリスティナたちは顔を見合わせて笑いあう。人気の菓子を食べてみたかった、話題の本を読んでみたかった、そんな程度の感慨だ。年相応の少女の笑顔に、悪意は一切見られない。一歩間違えばアエラは大怪我を負っていた場面だが、そんなことは気にも留めていないのだ。
男爵令嬢ごときが怪我を負ったところで、どうとでもなる。誰も見られていない場面なら、実家からごり押しすれば何とでも揉み消せる。それは高位貴族として育ってきた彼女たちの、ごく常識的な思考であった。
「わたくしもハインの頬を叩けて満足ですわ。こんな機会でなければわたくしたちが手を上げるなんてできませんもの」
「ロジーナ様、以前から仰ってましたものね? これできっとフェルリット様も今後貴方に頭が上がらないですわね」
「あら、殿下もきっとそうでしてよ」
「ほほほ、わたくしたちの狙い通りですわね」
アエラの存在を排除せず、公爵家から手を回すこともなく、ぬるい苛めで小突く程度に収め、事態を今まで放置した理由。あるいはクリスティナたちの目的。それがこれであった。今後結婚し、婚家に入ったとき、相手に対する自分の地位を高め、発言力を高めること。この学園生活での『ささやかなおいた』を全て、クリスティナたちは将来の地盤固めの一環として利用していた。
加えて言うなら、クリスティナにとっては王子妃としての立場を確立する目的もあった。今回のクリスティナは、泥棒猫であるアエラに慈悲を与え、オーランドの浮気も寛容に赦し、あわや暴力沙汰に及びそうだった事態を上手く収めた立役者なのだ。同い年の貴族令息・令嬢たちはきっと今日の出来事を忘れないだろう。そしてクリスティナを見るたびに『賢くも慈悲深く優しい王子妃』と褒めたたえてくれるだろう。その評判は同い年から同年代、彼らの家族を通じて貴族たちの間に広まっていくことだろう。
またハインもこのままいけば将来は宰相を約束されている。そんな彼の妻が賢く勇敢で、悪しきをきちんと断罪できる正しさを持っていると見せつけることも肝心だ。未来の社交界において、王子妃であるクリスティナや宰相の妻であるロジーナは必ず中心人物になる。その場において、若輩の小娘と侮られるか、既にある程度の評判を携えて微笑んでいられるかによって、彼女たちの置かれる立場は大きく変動するのだ。
アエラがオーランドたちの周囲をちょろちょろし始めた頃から、クリスティナとロジーナが中心になって今回の『結末』の絵図を描いた。アエラは一時の夢を見ることができ、高位令息と恋愛ごっこをして楽しむことができる。オーランドたちも学生の間だけの自由恋愛を味わうことができ、若い色欲を発散することができる。クリスティナたちは将来の己の地位を確立することができる。その他の同級生たちはリアルタイムで繰り広げられる愁嘆場を演劇気分で楽しむことができる。四方丸く収まる見事な顛末だった、とクリスティナたちは自分たちの『実績』に満足していた。
「あぁ、来週からの学園生活は、少々物足りなくなりそうですわね」
「あんな馬鹿で身の程知らずで考えの浅い令嬢、そうそう存在しませんものね」
お気に入りの玩具を取り上げられた子供のように拗ねてみせ、クリスティナとロジーナはまた笑った。優雅な令嬢たちの優雅なお茶会、その裏側に潜む悪辣さに気づく者は、悲しいかな他に誰も存在しないのだ。
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