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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

佐久間信盛の苦悩

作者: 小城

 この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。

「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷。」

(そのようなことをおっしゃっても、私たちほど、良い家臣は、持つことはできませぬよ。)


 佐久間信盛は、紀伊の熊野で温泉に浸かっていた。

「(思いの他、気が楽だな…。まるで、重石が取れたような…。)」

 信盛は、55歳。30年仕えた、織田信長から、この年の夏に、追い出された。収入も住む所も絶たれ、髪も剃り、今は、坊主になった。

 供は、息子と、下仕え一人だけ。始めにいた高野山も追い出され、今は、十津川村の郷主に宿を借りている。

「(思えば、主も、無茶苦茶な御人であったな。)」

 信長のことである。佐久間一族は、織田家の中でも、重い立場にあり、佐久間姓の者たちが、何人も、織田家にはいたし、信盛自身も、家老を勤めていた。


 信長の父の代から、彼らは織田家に所属していた。信長の父、信秀が亡くなり、兄と弟の間で争いが起きたとき、佐久間一族は、兄の信長を推した。それが道理であると思ったからだった。

「(思えば、あのとき、信勝殿に付いておれば、また、違ったのだろうか。)」

 戯れに、そう思ってみたが、別に、信盛は、信長に恨みはないし、今の境遇に不満もない。いずれは、息子の信栄が許されることもあるだろうし、親類縁者から仕送りも受けられるだろう。

「(長い骨休みと思えば、まんざらでもない。)」

 熊野の温泉は、良い具合に湧いていた。


 信盛には、信長との間に、忘れられない思い出が幾つかあった。

「(あれは、今川との戦の時だな…。)」


 永禄3年の桶狭間の戦いのとき、信盛は善照寺の砦を守っていた。事の発端は、信秀の死であった。これにより、鳴海の山口氏は、織田家を見限り、今川家に付いた。弟との内輪揉めの後、信長は、山口氏を攻めたが、勝敗は付かず、調略をもって、山口氏を切腹に追い込み、今川家に奪われたままとなっていた鳴海と大高を取り戻すべく、作戦を立てた。信長は、まず、鳴海と大高の両砦の周りに付け城を作らせて、両砦を包囲して孤立させることにした。

「丸根は大学(佐久間盛重)、鷲津は玄蕃(織田信平)、中島は平左(梶川高秀)、丹下は帯刀(水野忠光)、善照寺は右衛門(佐久間信盛)が守れ。」

 信長は、それだけ言って、すぐにその場を立ち去った。瀝々は皆、織田家の重臣たちである。

 駿河、遠江、三河、3ヶ国の今川家を相手にするからには、信長には、策があるのだろう。皆がそう思っていた。

「今川勢、岡崎を過ぎたる由、御注進。その数2万余り。」

 一座がざわついた。タン!と、信長が扇子で床を突いた。

「…。(何を今更、騒ぐのか。そのようなこと分かり切っていたはずだろう。)」

 信長は、苛立ちと伴に、そう心の内で思ったが、無言を貫いた。

「…。(俺がうつけならば、世間は阿呆だ。)」

 夜まで、信長は家臣たちを集めて雑談していた。

「…。(何を考えているのか。)」

 家老たちは、呆れながらもそう思っていた。信長には、何か策があるだろうとは思っていたが、信長は、何も言わない。家老たちにも、苛立ちが起こっていた。

「丸根、佐久間大学殿、鷲津、織田玄蕃殿より、御注進。今川勢、大高の城に兵糧運び入れたる由。明朝、丸根、鷲津両砦からは、退き払うことは必定。」

 一堂は、今度は、ざわつくことはなく、皆が皆、信長の顔を見た。

「左様か…。もう夜も遅い。皆、帰れ。」

 それでも、信長は、そう言っただけだった。

「(あれは、駄目だ…。)」

 一堂は、皆、そう思った。信長という当主は、見るべきところもあるが、これが限界なのだろうと、誰しもが思った。

「…。」

 信長は、ぐっすり眠った。一方で、家臣たちは、皆、眠れぬ夜を過ごした。


「もはや、兵の大半は、討ち死!砦は、落城寸前にござる!早々に、御助力あれ!!」

 明朝、城の者たちは、前線からの伝令により、起こされた。

「よし!貝を吹け、具足を寄越せ!!」

 信長は、小姓に具足を着けさせながら、自らは、立ったまま湯漬けをかき込んでいた。


「御参着!!」

 丸根、鷲津の方向からは、煙が立ち上っていた。佐久間右衛門こと佐久間信盛は、善照寺の砦から、その煙を仰ぎ見ていた所、信長、来参の報せを受けた。

「今頃、来たのか!?」

 驚き伴、怒り伴知れぬ感情を持って、信盛は、信長を迎えた。丸根にいる従兄弟の盛重はどうなったのだろうか。

「(6騎だけ…。)」

 信長の軍勢は、足軽を入れて、200人程しかいない。

「(皆、逃げたのか?)」

「右衛門。」

「は。」

「出陣する。兵を立てよ。」

 信盛は、不満を抱きながらも、兵を集結させた。


「(何だ?)」

 信盛が兵を集めていると、城戸の傍らで、信長と家老たちが揉めていた。

「今川旗本は、桶狭間山にて、人馬の休息ある由。御注進。」

 信長の旗本だろうか、足軽が伝令に来ていた。

「今、敵に向かうは、無体にござる。敵は多勢、此方は無勢なるは、敵方よりも、明らか。」

「構わぬ。」

 聞けば、信長の到着を聞き及び、佐々隼人正ら300人程が、今川本陣に打ち掛かり、討ち死にしたらしい。

 その後、信長は、家老の制止を振り切って、中島の砦に行き、そこでも、兵を集結させた。これにより、織田の兵は、多くて2000となった。

「者共、良く聞け。古より、小軍なりとも大敵に恐るるなかれと言う。運は天に有り。敵は、夜もすがら参り、丸根、鷲津の砦を攻めあぐね、辛労極まりなく、疲れたる武者である。然れど、我等は、新手。戦に勝てば、この場にいる者共は、家の面目、末代の高名たるべし。ただ励め!!」

「えい、えい、おう!!」

「えい、えい、おう!!」

 

 天は信長に味方したのだろうか。織田軍が桶狭間山の山際まで来たとき、にわかに、雨が降り出し、やがて、急雨となった。雨風は、織田軍陣の方から吹き、今川本陣の将兵たちの面を打ち付けた。吹き荒ぶ雨は織田軍の行軍を隠し、天が晴れた頃には、今川本陣の前には、織田の軍兵が整然と並んでいた。


「すは!!かかれ!!」

 大音声と伴に、戦が始まった。織田の若武者たちは、遮二無二、今川義元の旗本たちに襲いかかった。

 乱戦の中で、今川義元は討たれた。信長の馬廻りや小姓たちも、多くが討ち死にした。信盛が聞いた話では、従兄弟の盛重は、鷲津の砦で討ち死にしたという。


 信盛は、未だ、熊野の温泉に浸かっていた。

「(もとより、玄蕃は捨て石だったのだろう。あの戦に勝てたのは、運が良かっただけなのだ…。)」

 運も実力の内という。断っておくが、信盛は、信長のことを、できの悪い当主だとは思っていない。桶狭間のときは、誰しもがそう思った。結局、勝てたが、無茶な争いではあった。

「ならば、他に手立てはあったのか?あそこでやらなければ、いずれ、我等は、やられていた。」

 信長に言わせれば、そうであろう。もし、不満を言うようなことがあれば、信長は、きっと苛立ちながら、そう言うだろう。信盛には、その姿がありありと、容易に想像できた。

「もし、貴様ならば、何かできたのか?」

「(何もできますまい。)」

 信盛は、幻想の信長と対話していた。


「(不平と言えば、やはり、あのときのことだ。)」

 近江で、足利将軍義昭が信長に反旗を翻した。そのとき、越前からは、朝倉義景が2万余りの軍兵を率いて、やって来た。義昭は早々に逃亡し、信長は、朝倉と対峙した。

「阿閉、浅見、我が方へ御味方致す由。御注進。」

「越前への道は開けたな。」

 信長の傍らには、瀝々の重臣が集まっていた。無論、その中には信盛もいた。

 その後、太山、大嶽の砦に籠もる朝倉の番兵500人程を、大軍で攻めて、降参させた。

「皆の者共、ここはひとつ、智恵を働かせようではないか。」

 信長は言った。信長の考えはこうだった。本来、討ち取るべき、太山、大嶽の番兵たちを、わざと朝倉本陣に帰らせて、信長の軍兵には敵わぬことを、義景に報させれば、朝倉は、必ずや越前への退却を始めるだろうと。

「必ず、今夜、朝倉は越前へ退却する。そこを討つ。」

 信長は、集まった皆々にそう言った。中には、半信半疑の者もいた。

「皆の者共、良いか。今夜、朝倉を逃がすべからず。」

 夜になるまでの間、信長は、各将の所を何度も回り、叱咤した。

「良いか。くれぐれも油断するなよ。」

「(何度も、何度も、くどいわな…。)」

 そんな信長を厭う将兵もいた。

「(運は天にしか分かるまい。)」

 彼らは、そう思いつつ仮眠に入った。

 案の外、信長の予言通り、夜の内に、朝倉の軍兵は、越前へ退却を始めた。しかし、それを追って、飛び出したのは、信長一人だけだった。

「何度も、言ったであろうが!!何故、追わなかった!この卑怯者共が!!」

 逆鱗に触れた信長に、諸将は、皆、頭を垂れて、ただただ謝るばかりであった。それでも、信長は、止まらず、永遠と、言葉の出るに任せて、諸将をなじった。それは、全く、根も葉もない罵倒ということでもなく、どこか正当性があり、論理的であった。普通人からしたら人外の正論と言えば良いのだろうか。

「(それは、言い過ぎではなかろうか。)」

 ムッとしながらも、今にも、半ば、泣き出しそうになりながら、信盛は、信長の言葉を聞いていた。

「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷。」

 信長が一息ついた時、信盛が申し上げた。それは、いつも無茶ばかりさせる信長から、皆を守り弁護する言葉であった。しかし、一座のぬったりとした視線は、信盛に注がれた。

「その方は、己の器量を自慢するのか…?そのようなこともってのほかだ!片腹痛いわ!!」

 信盛の言葉に、信長も刺さる所があったのだろうか。今まで、理路整然と非難していた信長は、子どものように、ただ怒った。瀝々の者たちを弁護する代表、佐久間信盛の言葉は、結果として、信長の勘気の炎に油を注ぐはめになった。

「(くっ…。全く…。)」

 再び、信盛は、頭を垂れて、黙った。その後も、信長はずっと腹を立てていた。一座の場は重苦しさが充満していた。しかし、信盛、一人だけは、少しだけ、腹の中が、すっきりしたように感じていた。


 信盛は、自分を常識人だと思っていた。それは、信長も同じであった。君と臣、お互いがお互いに、衝突が起きないように、テリトリーを棲み分けして、餌を食い分けして、分を守ろうとしていた。それは、お互いに、我慢を強いることでもあった。そうでありながらも、お互いはお互いに、無自覚に、相手に依存していった。相手がいるからこそ、お互いが、住み処に辿り着き、餌にありつくことができる。それは、どこかひとつ歯車が噛み違えば、どんどんと、底なしの泥沼に落ちて行くような危うさをはらんでいた関係だった。


 テリトリーに守られた今ある分の餌に満足し、求めれば、求める程、それは自分たちのテリトリーを守っているように、内心で思いながらも、実は、相手が、相手のテリトリーにいることを、内心では、暗に強制することになる。

 しかし、大事なことは、お互いが求める餌は、異なっているということである。

 自分では、相手を尊重しているつもりで、自分は自分のテリトリーに安住し、自分の餌に満足する。その中での自分は、本当の自分ではなく、相手がいるからこそ存在する自分である。それは、まるで、鏡に映った自分の虚像のようでもある。

 そして、いつのまにか、彼らの目的は、相手を尊重することではなく、相手を尊重する自分を尊重することに変わってしまう。それでいて、本当に、相手が何を求めているのかということには気付くことができないでいる。


 無意識に、相手がその居場所にいることが、当然のことになり、そのことが、自らの利益のように思ってしまう。そのような関係は、いずれ、破綻を迎える。何故ならば、本来、お互いの目的は異なっていたはずだからである。行く先が違うと言っても良い。

 それでも、お互いに束縛し、我慢することが目的になり、安息になる。それは、相手のちょっとしたことが、いつでも、裏切りとなり、行き先を失った我慢は、真実の相手を見ることはなく、自分という虚像の中で、相手を誹り、苦しむ。冒涜の言葉は、自分と相手とお互いの関係を破壊する。そして、いつまでも、お互いを束縛しながらも、本当の相手を理解することはできず、相手を尊重することもできない。


 信盛と信長の関係は、そんな関係だったのかもしれない。そして、そんな関係の行き着く先は、能動的か受動的かに関わらず、どちらかにより、距離を取り、離れることである。それにより、お互いがテリトリーと棲み分けから解放されて、自由になれる。


「(まあ、あとは余生を、緩りと過ごさせてもらうとするか…。)」

 桶狭間の戦いから、20年後の、天正8年の夏、信盛は、親子共々、織田家を追放となった。信盛親子の追放に当たり、信長は、自ら筆を取って、19ヶ条にも渡る折檻状を書き、信盛たちの過失を指摘し、責め苛めたうえで追放した。

 信盛は、面前で、それをいちいち、信長からの使者が読み上げるのを、静かに聞いていた。

「拝見して、よろしいか。」

「上意にござる。」

 使者は、改めて、そう言った。信盛は、信長の筆跡を辿りながら、一文字一文字、それを見て、頭の中で、意味と文章を作った。

「(よく、ここまで書いたな…。)」

 始めにそう思った。そして、その後、ふつふつと怒りが湧いた。文書を使者に返すと、信盛は、親子共々、数人を連れて、高野山に向かった。


 高野山で暮らし、始めは、何もしていなくても、信長に対する怒りが湧いた。そこで、信盛は、よく馬に乗ったり、山野に狩りに出たりした。そんなことをしている内に、高野山も追放されてしまい、十津川村へ辿り着いた。

 そして、1年も経つと、もはや、信長の存在は、信盛の記憶の中では、薄らいでいた。そして、今は、熊野で、ゆったりと温泉に浸かっている。


「(そろそろ上がるか…。)」

 熊野に来てからは、信長のことなど、ほとんど忘れていた。しかし、今のように、時折、思い出として、思い出すことがある。

「(主も、わしのことなど、もう思い出すこともあるまい。)」

 信盛と信長の30年間は濃密な時間であった。しかし、それでも、今は、もう何も感じることはない。

「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷。」

 信長には、信盛の他にも、有能な家来が多くいる。そう思うと、悔しさと伴に、信長への皮肉を感じた。

「おそらく、皆、思っていることは、同じよ。」

 人間の心の内は見えない。例え、言葉にしたとしても、それが本心なのかは分からないし、人間の心というものは、意外に、ころころと変わる。それでも、何故か、信盛の中で、信長は生きていた。

「(主も、わしの言葉を、ずっと覚えていたということか…。)」

 信長の文書には、朝倉を追討しようとした時、信盛が、口答えをしたということが書かれていた。わざわざ自慢をした割には、その後も、たいした働きをしていないではないか。そう書かれていた。

「(自慢ではないのだが…。)」

 最期まで、信長は信盛の言葉を理解できなかったようであった。信盛も、また、最期まで、信長のことを理解できなかったようだった。


「(まあ良いか。)」

 お互いにお互いがいなくても、世の中は運ぶ。それが一番だと思った。


「はあ…。」

 温泉から上がった信盛は、大きな溜め息をもらした。

「如何なされました?」

「いや。何でもない。」

 小者の一人が尋ねたが、信盛は、『実は、主のことでなあ…。』とは、言わなかった。いずれ、信長のことも綺麗に忘れる日が来るだろうと思った。

「ひふは(行くか)。」

「は?」

 そう思った時、突然、呂律が回らなくなり、意識が朦朧とした。四肢が動かず、信盛は、その場に倒れた。

「殿!?おい、誰か!誰か、おらぬか!」

 天正9年。熊野で湯治中に、佐久間信盛は倒れ、病で没した。享年55歳と言われる。

 信盛の本当の死因は分からない。しかし、もしかしたら、温泉に、長湯し過ぎたことによる熱中症から脳卒中を起こしたのかもしれない。そうすると、信盛は、最期まで、信長という幻影に、我が身を呑み込まれていたということになるだろう。

 

 信盛が、熊野温泉で湯治中に死亡した時、信長は、安土で、出羽秋田の下国氏から献上された鷹の雛を愛でていた。

「うむ。やはり、鷹は良い。よく働くうえに、鷹は口答えをせぬ。」

 傍らにいた鷹匠が、信長のその言葉を聞いていたが、鷹匠には、その意味と、それが誰のことを言っているのかは、分からなかった。

 そんな信長も、信盛の死から1年も経ない内に、本能寺で、明智光秀に討たれて死ぬことになる。かく言う、光秀も、また、信長に不満を持っていた一人であった。


「右衛門…。」

「上様…。何故、此方に?」

「日向に裏切られたわ。いずれ間もなく、やつも、この地獄にやって来るだろう。まあ良い。右衛門よ。それまで、ゆるりと待つとしようではないか。」

 あの世で、対面した信長と信盛が、そのような会話をしたかどうかは分からない。しかし、もし、そうだとしたら、この時、地獄で、お互いは、初めて、お互いのことを理解できたのかもしれないと思ったのである。

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