オトガミエル
出会いは些細なきっかけでした。
幼い頃にネズミに噛まれた私は、呼吸困難の発作等に悩む体になり、やがて目が見えなくなりました。
唯一の楽しみは川の流れる音、草木の揺れる音を聞き、そこから世界を想像する事でした。
音だけを聞けば家の物は探せます。耳が特別良いらしく、音の反響が全てを教えてくれます。
そんな生活を続けていた時でした。
「この音は……楽器?」
外から聴こえる小さな楽器の音。それは今まで聞いていた自然の音とは異なり、まるで誰かに呼びかけているような、そんな気持ちがこの曲で表現されている気がします。
音だけを頼りに歩きました。目は見えません。しかし足音の反響だけでも私は歩けます。
周囲の木々の音も私にとっては目です。川の音も目です。そして今聞こえる音楽は目的地です。
歩くこと数十分。ようやく真正面から聴こえる場所に到着しました。
ずっと聴いていたいと思いたい音楽は、徐々に小さくなり、やがて無音となりました。
音が遠くなったわけではありません。音楽が止まった様です。
足音が聞こえてきます。
徐々に大きくなってきます。
私に近づいているのでしょうか。
「えっと、何か御用ですか?」
「はっ! いえ、その、先ほどの音楽は?」
緊張して、上手に言葉が出ません。他人と話したのは何年ぶりでしょう。
「ああ、今のは僕の……自作なんだ」
照れつつ話す男性の声は、とても綺麗で素直な音でした。
「ふふ、素敵でした。もっと聴いていたいです」
「え! その、照れるな」
「自信を持ってください。私は音を聞く以外の特技はありませんから」
「音を聞くのが……特技?」
男性からは疑問の声が聞こえました。
「ええ、身長は私より少し高く、腕は少し細い。そして手には棒状の楽器に足は……サンダルでしょうか?」
「あ、ああ。確かに身に付けているのはそうですが、何故それを今言葉にしたのですか?」
「私は目が見えないのです」
「なっ!」
ドクッと心音が鳴り響きました。正面の男性の心音です。
「ふふ、驚かないでください。そして同情しないでください。それに私には耳があり、それが目です。凄いでしょ? 聞いただけで貴方の容姿は分かったのですよ?」
「あ、ああ。恐れ入りました。僕は目を閉じてもそこまで分かりません。分かるとすれば、料理をしている時の音と、ペットの寝息の音くらいだ」
「ふふ、なんですかそれは」
そんな会話から始まり、私は毎日その音楽を聴きに外へ出るようになりました。
☆
朝起きると、最初に聴こえるのは彼の楽器の音です。それを頼りに私は外へ出て、足元に注意しながら歩きます。
到着すると音楽は止み、いつもの挨拶を行います。
「おはようございます。ジルさん」
「おはようございます。エルさん」
そしてまた彼は楽器を吹きます。いつも同じような音楽を吹きつつ、今日は少し難しい音を並べて吹きました。
「毎日ここで楽器を吹いて、お仕事は良いのですか?」
「これは朝の準備運動です。実家は楽器を作っているのです」
「まあ、だから楽器がお上手なのですね」
「お世辞がお上手ですね。エルさん」
「そうですね。ではヘタクソです」
「そんな!」
「でも、その音はとても素敵です。気持ちが込められています」
そんな会話をずっと行っていました。
今まで家の中で過ごしていた生活が一変し、毎日外へ出る事が楽しく思えました。
目は相変わらず見えませんが、それでも音が全てを教えてくれています。風の音で段差はわかります。楽器の音でジルさんの容姿もわかります。
「その、エルさんは良いのですか?」
「何がです?」
ふと、ジルさんは質問をしました。
「毎朝こんな、僕のような男とお話しして、家族は何とも思わないのですか?」
「ああ、そのことでしたら……。その、ジルさんは『大誘拐事件』をご存知ですか?」
「え、まあ。隣町の有名な事件ですよね。確か子供が大量に誘拐されたっていう」
この辺の地域では有名な出来事でした。
ある町に、一人の男性が現れました。
その男性は町中の子供を連れだして、どこかへ消え去ったというお話です。
「それとエルさんは、何の関係が?」
「私、その事件の被害者だったのです」
「え! でも、今ここに」
「はい、当時私は発作と……この『目』に救われました」
「発作と『目』ですか?」
私が小さい頃、町にネズミが大量発生して危機的状況に陥りました。そして私はそのネズミに噛まれて、悪い病気にかかってしまい、目からは光を失いました。
「そんな事が……」
「ですから、私だけ助かったのです。呼吸は苦しくなり、目は見えないため、その場で倒れていたところを通りかかった親戚が助けてくれたのです」
「正直、良かったと言って良いのかわからないですね」
「ええ、私もそう思います。当時は病気も今より酷く、もしかしたらお友達と一緒にどこかへ行った方が幸せだったと思った事があります」
時々聞こえる親族の罵倒。私の近くでは話しませんが、それでも私には『聞こえて』しまうのです。
かなり離れようとも、その声が僅かに反響し、私の耳に少しでも届けば全て『聞こえる』のです。
「ですが、今はこの『目』と発作に感謝しているのですよ?」
「そうなのですか?」
「ええ、だって……こうして毎朝楽しい時間が過ごせるのですもの」
多分自分自身でも抑えられない心臓の鼓動に、その場で立っているのがやっとでした。
それでも、素直に話せる相手には全て話したいと思いました。
顔は火照り、普段は涼しい朝の風も、今日だけは足りないくらいです。
そんな中、私の耳には別の音が聞こえました。
どっどっどっど。
そんな大きな音が聞こえました。そして私からも同じ音が鳴り響いています。
「え、エルさん!」
「は、はい」
何故か緊張して、少し戸惑ってしまいました。
「ぼ、僕と結婚しましょう!」
☆
晴れている日は大好きな彼とお話ができる。
雨の日は会えませんが、雨の音も嫌いではありません。
ジルさんが音楽を教えてくれてから、雨の音も音楽に聴こえてきました。
ですが、今は雨の日も大好きな彼とお話できます。
これは運命なのかもしれない。
そう思った日々でした。
あの時外から音楽が聞こえて、私はそれを目標に歩き出す。
そういえばあの事件の時も、子供たちは男性の奏でる音楽に誘われ消えて行ったと聞きました。
今は本当に、その音楽に誘われず、近くにいる大好きな彼の側にいれて良かったと思っています。
「エル。入って良いか?」
「はい。ジルさん」
カチャっと扉が開く音。そして入ってくる男性の足音。そして心臓の音は二つ聞こえます。
「マーシャがママに会いたいんだってさ」
「ふふ、まだマーシャは言葉が話せないでしょ?」
「ママの部屋に向かって手を伸ばしているんだ。僕には飽きたってさ」
「ふふ、可愛い子ね。こほっ」
「……大丈夫か?」
「ええ。ちょっと呼吸がね。頭を撫でるだけで良いかしら?」
「きっとそれで十分喜ぶさ」
私は発作を再発させて、布団の中から一歩も出られなくなりました。
お医者さんの話だと、治っていったわけではなく、ただ症状が出なかっただけで体を蝕んでいることに変わりは無かったそうです。
「ジルさん。マーシャの体に変な痣とかないかしら?」
「大丈夫だ。なに、心配することは無い。元気に育っているよ」
「良かった。私の病気が子供にも発症していたら、可愛そうだから……こほっ」
「今日は昨日より苦しそうだな」
「ふふ、じゃあ一つ我儘を言って良いかしら?」
「僕にできることなら」
「あの時の曲を、聴かせてくれますか?」
毎日の楽しみだったあの曲は、今では外へ出られる日しか聴けません。
部屋の中で楽器を吹くと、近所の方に怒られるそうです。
「……まあ、今日くらいは良いか。外は雨だしな」
鳴り響く雨の大合奏。そして彼の音楽。大好きが重なって幸せです。
「では、お聴きください。『呼声』」
初めて聞いた時は、毎日変わって楽しい曲でした。
ジルさんの好きな部分だけが残り、やがて一つの曲が生まれました。
その曲に名前が付けられ、私の一番のお気に入りの曲となりました。
「あう、あう!」
「ふふ、マーシャもこの曲が好きなのね?」
「あい!」
まるで私の言葉を理解しているかのように返事をしました。その一つ一つの音が幸せで、全てが大切な存在です。
「ふふ、何やら心が落ち着いて……こほっ」
ジルさんの曲を聴いているから、落ち着いていると思っていました。
突然ジルさんから奏でられる音が止まり、何かが落ちる音が聞こえました。この音は……楽器が落ちる音でしょうか?
「どうしました?」
「どうしたって、エル……お前口から……口から血が出てるんだぞ!」
気が付けば、口の周りには何かドロッとしたものがありました。
血でしたら、鉄のような味がすると思うのですが……ああ、そうでしたか。とうとう味覚まで無くなっていたのですね。
「いつからだ! なあ、いつからそんな風になった!」
「落ち着いて、ジルさん。発作の症状が少し強く出ただけです。それ以外は別に……」
ガクンと脳が揺れる感じがしました。瞬時にジルさんが私の体を抑えます。
「大げさですよ。ジルさん」
「大げさなもんか! 今ベッドから落ちそうになっているんだぞ!」
音だけを頼りに生きていたので、転んだり倒れたりすると、すぐに対応できません。ベッドから落ちそうだったのですか。
「ま、待ってろ。今すぐ医者を呼ぶからな!」
「待って、ジルさん。できれば今日は……今日はずっと近くに居て」
「だ、だが!」
「お願い。今日はなんだか、耳の調子がおかしいの」
徐々に薄れる意識の中、一番近くに居る大切な存在だけは離したく無かった。
「だけどエル、その血は……その血は」
きっと口から大量の血が出ているのでしょう。先程あったはずの口の中の気持ち悪い感触は、気がつけば感じなくなっていました。
「ああ、誰か、誰か何とかしてくれよ!」
ジルさんの声だけが聞こえる中、一つの曲が耳に届きました。
その曲は聴きなれた、何度も作り直した一曲。
そして私の一番のお気に入りの一曲でした。
この曲を知っているのは私とジルさんと、まだ赤子のマーシャしか……。
「ま、マーシャ? お前、何を……」
ジルさんは呟きました。
不安定ながらもその音は、ゆっくりと鳴り響き、一つの音楽になっていました。
ジルさんが希望を込めた一曲。それをしっかり引き継いでいるのです。その状況を『この目で見れただけで』私は……私は……。
「そう、マーシャ、あなたは……私そっくりな容姿をしているのですね」
薄い意識の中、最愛の娘を初めてこの目で見ることができました。小さな手で一生懸命に楽器を吹く赤子は、間違いなく私の小さい頃とそっくりです。
「エル……? お前、何を言っているんだ?」
「ジルさん、貴方は思ったよりたくましいのね。それとも毎日私を持ち上げているから、鍛えられたのかし……ら?」
「見えているのか! おい!」
叫ぶ声。鳴り響く楽器の音。それら全てが私の目に映っています。こんな素晴らしい世界に私は住んでいたのに、今まで見えなかったのですね。
マーシャの音を聞いていると、何故か目が治って来ている気がします。
「音……音か! ま、マーシャ!」
ジルさんは焦りから思わずマーシャを大声で呼びました。まだ赤子のマーシャをです。その声に驚いたのか、マーシャは演奏を止めました。
「うあ、あ……うぐ……」
今にも泣きそうなマーシャに、ジルさんは慌てて抱きかかえます。
「ああ、すまん。マーシャ、ママに演奏するんだ。きっとマーシャの音が、元気になるんだ!」
「うあ? あうあ、あうー」
泣きこそしませんが、楽器に口を付ける事はありません。
代わりに周囲を不思議そうに見渡します。
「頼むよ、マーシャ、ママを……エルを助けてくれよ」
涙を流すジルさん。しかしマーシャはそのジルさんを見ず、周囲をキョロキョロと見ています。その視線の先は天井やタンスなど。いや、その手前でしょうか。
「そう、マーシャにも音が見えるのね」
「エル、待っててくれ、すぐにマーシャが」
「良いの、ジルさん。もう、良いの」
「良いって、お前!」
知っていたことでした。
ネズミに噛まれたあの日から、この体は長く持つことは無いと。
きっと医学の進んだ未来でしたら助かったかもしれませんが、今の時代を生きる私はもう運命が決まっていたのです。
ですが、最後に見えて良かった。最後に会えて良かった。
素晴らしい世界。綺麗な音。可愛い私の子。
そして大好きな人。
最後に私の大好きなモノ全てを見る事が出来て、良かったと思いました。
「最後じゃない! まだ、まだ何か!」
「良いの……本当に。それに私の欠片がここに……残っているのだから」
そして、震えながらも右手を伸ばし、マーシャの頭を撫でました。
「あう?」
「マーシャ、その目は大切にね。その目で世界を見なさい。そして、音を見なさい。ママからのお願いよ?」
「うあ? あ……あううあああああ!」
赤子というのは不思議と何かを感じ取れるそうです。きっと私の何かを感じ取ったのでしょう。
ですが安心してください。私はあなたが思っている以上に今は穏やかで幸せなのです。
何故かって?
そこに私の大好きな存在があるからです。
徐々に消えてく意識の中で、マーシャの泣く声とジルさんの叫ぶ声が聞こえます。
いくら外が雨の音でかき消されていても、その呼び声は響きますよ?
……ああ、そうですか。呼び声。『呼声』。これもまた運命なのですね。
神様、できる事なら私の我儘を聞いてください。
どうかこのジルさんが作った『呼声』が、世界に広まりますように。
そうすれば、私やジルさんやマーシャが、音の中で生き続けることができますから。
了
ご覧いただきありがとうございます。『恋愛』は初めてで、しっかりジャンル通りかな? と心配です。
毎度ながら私は短編を書く際に一つの課題を設けています。今回は率直に『悲愛(恋愛)』です。エルさんは幸せだったかどうかは、筆者ですがわかりません。可能なら大切な人ともっとお話したいですよね。
タイトルは少し悩みました。いつもは『〇〇な〇〇』とか漢字を使用しますが、今回は『オトガミエル』のカタカナです。二つ意味もあり、『音が見える』と『音神エル』です。
前者は耳だけで周囲が分かるエルは、音を目と言って生活します。そういう意味で『音が見える』ですね。ただし、実際目が見えるようになった時に音が本当に見えた部分も含めて『音が見える』です。
そしてそれは子供のマーシャにも引き継がれています。天井やタンスを見ているようで、その手前。これはそこにあった音を示しています。
後者の『音神エル』は、最期を示しています。亡くなったら神様になるというどこかの文化もあるので、音だけを頼りに生きてきたエルさんは、まさしく音の神様という考えです。
そんな二つの意味から今回は全てカタカナのタイトルです。
他にも色々な伝奇や言い伝えを取り入れ、一つの物語となりました。しかし答えは私の中で眠らせます。大切な作品ができたので、ある意味で宝箱の様なものです。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
また、今後も執筆活動は続けていきたいと思います。
いと